新たなる都市型ポップスの奔流
1989年1月。僕は音楽の世界に引き戻されました。そうとしか思えないことがあった。
ノン・スタンダード解散後の2年間、僕は音楽に接することを避け、当然音楽制作の現場を離れていました。そこから復帰して88年12月にポリスターというレコード会社でプロデューサー契約を結んだ僕は、その翌月に長い付き合いの友人が持ってきた1本のカセットテープを耳にします。
それはロリポップ・ソニックのライブ音源でした。音質もひどかったし、演奏も下手だった。しかし聴いた瞬間に感じるものがあった。すぐに連絡をとり、六本木にあったマッドスタジオでデモテープを制作、その場で一緒にアルバムを作ろうと提案しました。
彼らはレコーディングの終了間際にフリッパーズ・ギターと名を改め、89年8月にアルバム『three cheers for our side ~海へ行くつもりじゃなかった』でデビューします。グループはファースト・アルバム完成後、小山田圭吾と小沢健二の二人組になりました。
僕は彼らのプロデューサーとして3枚のアルバムを担当しました。そしてグループが解散した後の92年には、小山田圭吾が主宰するレーベル、トラットリアの設立に深く関わります。
「渋谷系」という言葉を耳にするようになったのはその後のことでした。
フリッパーズ・ギター、3枚のオリジナル・アルバム
渋谷系というムーブメント
90年代初頭の渋谷の街には輸入盤を扱う大型CDショップが点在していました。90年にはHMVの国内第一号店としてHMV渋谷店がオープンしています。タワーレコード渋谷店、西武LOFTの一階にあった渋谷WAVEも含め、決して大きくない街に続々と店が生まれた。なかでもバイヤーと呼ばれる店員が独自の企画棚を作り、海外の音楽シーンを意欲的に紹介していたのがHMV渋谷店でした。また、この頃、宇田川町のエリアにはマンションの一室に店を構えるような小さなレコードショップも密集していました。
そして93年頃、HMV渋谷店の名物バイヤーだった太田浩がリコメンドしていた邦楽アーティストや、宇田川町の小さなレコードショップに足繁く通う音楽マニアが愛好していた日本のインディー・レーベル所属のアーティストを総称するカテゴリーとして、「渋谷系」という言葉が様々なメディアで取り沙汰されるようになります。その中には、トラットリアの所属アーティスト、小山田圭吾が始めたソロユニットのコーネリアス、カヒミ・カリィ、カジヒデキの在籍していたブリッジなどの名前もありました。
僕は同時代、至近距離で音楽を制作していましたが、渋谷系の仕掛け人になったつもりはありません。
フリッパーズがその祖として語られることが多いですが、グループの解散後に言われるようになったブームだし、自分のあずかり知らぬところで出てきた物言いだと思っていました。
当時、渋谷系を特集するドキュメントを作っていたNHKの取材班が取材に来たことがありました。当時の僕は「渋谷系というムーブメントがあるのなら、僕以外のもっと若い世代の人たちが作ったもので、僕自身が関与してきたものではない」と答えています。
そして、いつの時代もムーブメントというものが新鮮な熱気を保つ時間は長くない。90年代後半にはすでに、当事者たちの中では渋谷系という言葉は少しずつ色褪せたものになっていました。
渋谷の地下水脈
起こった物事の表層だけを見るならば、渋谷系というのは「90年代に一世を風靡し、そして時代と共に終わっていった一つのムーブメントだった」と言うことができるでしょう。
しかし本質はそうではない。ある日突然、渋谷系というものが生まれたわけではない。それがオーバーグラウンドに生じるためには、その下の暗渠に蓄積したエネルギーがあった。
僕がそう気付いたのは、ずっと後のことでした。渋谷という街には、都市型ポップスの地下水脈が流れていました。公園通り、道玄坂、宮益坂という3つの坂にそれぞれ拠点があり、そこが生み出した文化が流れ込み、積み重なっていました。
60年代、70年代、80年代と、時代や世代を超えてそれは続いていました。いつの時代も、同時代の洋楽に憧れ、研究し、そして独自の日本語のポップスを編み出すミュージシャンたちがいた。そしてそれはアートやデザイン、ファッションと結びつき、共振していた。
そういう地下水脈がたまたまある一つの時代に奔流として世の中を席巻したというのが、ムーブメントの本質でした。単なる一過性のブームではない。それはいわば一つの必然だったのです。
次回「1989年という時代の変わり目」は7月5日更新!