1983年、NYからの黒船〜映画「ワイルド・スタイル」の衝撃

共著『ラップは何を映しているのか——「日本語ラップ」から「トランプ後の世界」まで』も話題の、音楽ライター・磯部涼さんによる「日本語ラップ」の歴史をひもとく新連載3回目。今回はヒップホップが誕生する熱き瞬間を捉え、ヒップホップだけでなく、その後の世界/日本のカルチャーそのものに大きな影響を与えた伝説の映画「ワイルド・スタイル」公開前夜のドキュメント。

前の部ヤにはドブネズミ
後の部ヤにはゴキブリ軍団
狭い路地には野球バットにジャンキー(がらくた)
逃げだしたいのに
遠くにゃいけねぇ
月ップの未払いで
俺の車がケン引されてく
俺を押すなよ
俺はガケップチさ
俺達、自分を失ったらおしまいさ

(グランドマスター・フラッシュ&ザ・フューリアス・ファイヴ「ザ・メッセージ」より、カズ葛井訳)

1983年10月初頭、成田空港に到着した1機の航空機は、果たして、日本のラップ・ミュージックにとっての黒船だったのだろうか。それは、ニューヨークからの直行便で、タラップを下る乗客の中には若いアフリカ系やラテン系アメリカ人が中心の、総勢36名にも及ぶ一団がいた。彼等は長いフライトにも関わらず疲れた様子はなく、むしろ、興奮しており、ひとりの青年などは地上に降り立つや否や、持ち運んでいたブームボックスのプレイ・ボタンを押し、強烈なビートをバックに踊り始めた。整然とした空港が、賑やかなストリートに様変わりする。

若者の多くは、サウス・ブロンクスの出身で、以降1ヶ月の間、地元から約6700マイル離れた辺境の地のディスコや映画館、デパートの催事場、テレビの生放送、はたまたストリートで、自分たちの街の文化を紹介していくこととなった。その文化とは、他でもない、B・ボーイング、エアロゾル・アート、DJ、そして、ラップという4つの要素からなるヒップホップ・カルチャーだ。アメリカのジャーナリストであるジェフ・チャンは、同文化の歴史書の決定版と名高い『Can't Stop Won't Stop: A History of the Hip-hop Generation』(邦題『ヒップホップ・ジェネレーション』)において、一団が、休日の原宿から代々木公園にかけて行われていたカー・フリー・デイ—日本で言うところの歩行者天国、通称〝ホコテン〟を訪れた際のことを、まるで、未踏の地に分け入っていく開拓者のごとく描写している。

「僕たちのグループは、公園にいた皆の理解の範疇を越えていたんだ」とチャーリー・エイハンは回想する。「そして彼らを公園から追い出してしまったわけさ」
「三日もしないうちに、公園でDJをやる人たちが現れた。グラフティの真似事も始まっていたよ。僕たちが帰国する頃には、かなり盛り上がっていたな」。こうして、新たな街、新たな国で、バンバータのプラネット・ロックが産声を上げた。

ジェフ・チャン『ヒップホップ・ジェネレーション』(押野素子・訳、リットーミュージック、07年)

若者たちのその旅は、ヒップホップ・カルチャーを題材にした初めての映画作品で、彼らも出演していたセミ・ドキュメンタリー『ワイルド・スタイル』のプロモーション・ツアーだった。リーダーを務めていたチャーリー・エーハンは若者たちよりも10歳近く上の、同作品の監督。一方、コーディネイターを務めていたのは、日本人のカズ葛井こと葛井克亮である。

前年の3月、ニューヨークで映画ビジネスに携わっていた葛井克亮と妻のフラン・ルーベル・葛井は、アメリカにおけるプロモーションを受け持った映画『雪華葬刺し』が、MOMA主催の映画祭<ニュー・ディレクターズ/ニュー・フィルムス・フェスティヴァル>で上映されることになり、マンハッタンの57丁目へと出掛けて行った。すると、会場の前には日本映画に縁遠そうな、むしろ、カンフー映画がかかっている劇場で見掛けるような、アフリカ系やラテン系の若者たちがたむろしている。聞けば彼等は、やはり<ND/NF>に出展されていた『ワイルド・スタイル』という映画を観に来たのだと言う。興味を持った夫妻は同作を鑑賞し、ニューヨークにもうひとつの世界があることを知ったのだった。

暗闇の中でエネルギーに満ちた映像に圧倒されながら、葛井は自分がこの街を初めて訪れた際のことを思い出していた。77年4月、彼は映画『人間の証明』の助監督を務めるためにニューヨークへ渡っている。莫大な宣伝費をかけ、いわゆるメディア・ミックス戦略を展開していた角川映画の、『犬神家の一族』に続く第2弾として企画された同作品は、ニューヨーク・ロケが目玉だった。

物語の始まりはジョニー・ヘイワードという青年がハーレムを出て東京へと向かうシーンだが、既に海外旅行が一般的になっていたとは言え、当時の日本人にとってまだニューヨークは遠く、憧憬を抱かせる土地であったからこそセールス・ポイントになったのだ。一方、ジョニーの設定は、占領下の日本において、日本人女性とアフリカ系アメリカ人兵士の間に出来た子供で、それを演じたジョー山中自身も似たバックグラウンドを持っていた。終戦から32年、かつての記憶が古傷のように、時折、疼く時代だった。もしくは、御涙頂戴とも揶揄された『人間の証明』は、既に日本人がそのような感情をセンチメンタルに楽しむようになっていたことを示していたのかもしれない。しかし、焼け野原から再建した東京に対して、ニューヨークではマンハッタンから離れれば、瓦礫の山が広がっていた。

『人間の証明』の撮影は、ハーレムだけでなく、よりインパクトのあるロケーションを求めて、サウス・ブロンクスでも行われる。当時、そこは〝リトル・ヴェトナム〟と呼ばれるほど、まるで戦場のように荒れ果てていた。アフリカ系やラテン系が多い貧困地域だったサウス・ブロンクスでは、73年から77年にかけての5年間に、実に3万件もの放火が起こったが、原因のひとつはアパートの家主による放火で、彼らは安い賃料を苦労して取り立てるよりも自らの持ち物に火を放ち、保険金を受け取った方が得であると考えたのだ。そんな場所にやって来た葛井は、警戒する住民にアパートの窓から卵を打つけられつつ撮影を続けた。そして、この時、瓦礫にスプレーで大きく描かれた、色鮮やかな絵文字が彼の目に留まる。それは、数年後、『ワイルド・スタイル』によって世界中に種が捲かれることになる、ヒップホップ・カルチャーの萌芽だった。まだ、葛井にそのグラフィティが意味するところは分からなかったが、洗練と荒廃が入り混じったニューヨークに魅了された彼は、79年、同地へと移住する。

<ND/NF>での『ワイルド・スタイル』上映後、葛井は監督のチャーリー・エーハンと対面した。73年にコンテンポラリー・アーティストを志してマンハッタンへとやってきた彼は、スーパー・エイトを片手にビルディングの森を探検しながら、偶然に出会した少年たちを誘って映像作品を撮り始めたという。そんなある日、彼もハンドボール・コートの壁に描かれた色鮮やかなピースに目を奪われた。少年たちによると、それはリー・キニョネスなる有名なライターの作品だった。エーハンはキニョネスを探し出し、出演をオファーするが、ナイーヴな彼は誘いをかわす。しかし、80年、キニョネスの友人のライターで、エーハンの作品を知っていたファブ・5・フレディことフレデリック・ブラスウェイトのおかげで事態は動く。エーハンと意気投合したブラスウェイトは、ガイドとなって彼やキニョネスが属するニューヨークのヒップホップ・カルチャーを案内して回る。そこでは、若者たちが瓦礫をカンバスに、ストリートをダンス・フロアに、安売りのレコードを楽器に、与太話をライムに、ディストピアをユートピアへと変えていた。やがて、キニョネスを主人公に据え、完成したのが『ワイルド・スタイル』だ。

葛井はエーハンの話を聞いて、サウス・ブロンクスで何が起こっているのかを理解し、『ワイルド・スタイル』はヒップホップ版『アメリカン・グラフィティ』としてヒットすると確信を持った。彼はすぐさま、『雪華葬刺し』の配給元である大映の専務取締役に話を付け、同作の日本公開を取りまとめる。ただ、前述したように、当時の日本にとってニューヨークは遠く、情報の時差も大きかったため、ヒップホップ・カルチャーはまったくと言っていいほど知られていなかった。その上、『ワイルド・スタイル』自体、同文化を詩的に捉えたものであり、詳しく解説するようなつくりではなかった。そこで、葛井はヒップホップ・カルチャーの当事者たちを日本へ連れて行って、上映に併せ、パフォーマンスをさせようと考える。そして、それが困難の始まりだった。

まず、葛井夫妻のアパートメントでプロモーション・ツアーのオーディションが行われた。参加条件は逮捕歴がないこと。多くのB・ボーイ、ライター、DJ、ラッパーがやってきて、中には「オレを連れて行け」と脅す不良もいたが、夫妻は毅然とオーディションを続け、夜、ヘトヘトになってドアを閉めると、その表面やクローゼットの中にタグが書き込まれていることを発見する日々が続いた。また、メンバーが決まっても、そもそも、彼等のほとんどはニューヨークから出たことがなく、パスポートを持っていない。それどころか、申請しようとしても、出生届けさえ提出されておらず、病院の記録を遡らなければならない者さえいた。出発当日、飛行機に乗り遅れないよう、3台のストレッチ・リムジンを借りてサウス・ブロンクスまで若者たちを迎えに行ったところ、地元では葬式の時にしかリムジンを見る機会がない母親たちが、「私の子供をどこに連れていくの」と泣き出したという。

ようやく空港へ到着した36人の若者たちは、早速、免税店に向い、モエ・エ・シャンドンのボトルを買い求めた。その様子を眺めながら、葛井夫人が言う。「モエを持ち込むのはいいけれど、ドラッグを持っているなら、ニューヨークに置いていきなさい。もし東京で捕まっても知りません」。それに対して、若者のひとりが肩をすくめて答える。「大丈夫、みんな処分したよ」。飛行機は離陸し、食事が終わるとパーティが始まった。エコノミー・クラスの至るところで、ポン、ポンとコルクを抜く音がして、ブームボックスからビートが鳴り出す。他の乗客は怪訝な顔をしたが、若者たちは自身のライフ・スタイルを変える気もなく、やがて、酔い潰れて寝てしまった。到着2時間前、葛井夫人が再び訊く。「みんな、クスリは持っていないわね? これは、本当に重大な問題だから」。すると、彼等は揃ってトイレへと向かい、戻って来て言った。「何も持ってないよ」。着陸態勢に入り、機体が大きく傾くと、初めて飛行機に乗った若者たちはパニックに陥った。誰かが叫ぶ。「ヤバい、ぶつかる!」。まさにこれから、チャーリー・エーハンが〝文化の衝突〟と呼ぶ歴史的なツアーが始まろうとしていた。
(つづく)


映画『ワイルド・スタイル』はYoutubeは各種動画配信サイトで全編視聴可!(有料)
「1982年、ニューヨーク、サウス・ブロンクス。すべてはここから始まった。」

◎参考資料
カズ葛井『ワイルド・スタイルで行こう』(JICC出版局、83年)
ジェフ・チャン『ヒップホップ・ジェネレーション』(押野素子・訳、リットーミュージック、07年)
チャーリー・エーハン『ワイルド・スタイル外伝』(PRESSPOP GALLERY、08年)
葛井克亮、フラン・クズイ、荏開津広、ばるぼら「1983年『ワイルド・スタイル』初公開の熱気と「文化の衝突」—葛井克亮さんとフラン・クズイさん語る」(webDICE、15年)

チャーリー・エーハンのワイルドスタイル外伝(DVD付き)

--- - チャーリー・エーハン - Charlie Ahearn
PRESSPOP GALLERY
2008-05-23

この連載について

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日本語ラップ史

磯部涼

「フリースタイルダンジョン」や「高校生ラップ選手権」の流行、メディアでの特集続き……80年代に産声を上げた「日本語ラップ」は現在、日本の音楽シーンにおいて不動の位置を占めるものとなりました。いとうせいこうらの模索からはじまり、スチャダ...もっと読む

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コメント

kiq 83年だからテレビにワイルドスタイルのプロモーション放送したら観た記憶あってもいいけど覚えてない 約3時間前 replyretweetfavorite

tnbk_1977 胸が熱くなる。 約4時間前 replyretweetfavorite

Kawade_bungei 日本語ラップの歴史を紐解く新連載3回目です!→ 約6時間前 replyretweetfavorite

isoberyo 連載『日本語ラップ史』、前回から間が空きましたが、黎明期の拠点となった原宿についての新章「ホコテンとピテカン」を週1/計4回に渡ってアップしていきます。パート1は、83年10月、『ワイルド・スタイル』のクルーが日本にやってくるまで https://t.co/BP 約6時間前 replyretweetfavorite