テロの時代に「家族」をどうアップデートするか

多彩な活躍を続ける東浩紀さんの渾身の書き下ろし『ゲンロン0 観光客の哲学』。東浩紀さんの著作としてははじめて「哲学」という名前がつけられた本書についてのインタビュー第4回は、本書の後半・第2部である「家族の哲学」についてじっくり話を伺いました。

— 前回までは、「観光客の哲学」とは具体的にどういうものかを聞きました。つづいて、後半の第2部である「家族の哲学 序章」についてお話伺いたいと思います。
 これは、観光客の内面というか、何を拠りどころにして生きるか、を論じているんですよね。

東浩紀(以下、東) ええ。観光客のアイデンティティについて書いたのが第2部です。

— 構成がユニークで、2部の冒頭では、そのアイデンティティの核として「階級」「土地」「血」「遺伝子」「ジェンダー」などでは機能しないことが整理され、「家族」の定義の腑分けをしつつ、最終的には、ドフトエスキーの作品を通じて、別の角度から問題に分け入っている。

 ええ。アイデンティティについて考えるときは、文学が手がかりになります。そして、そこでなぜドストエフスキーなのかと言えば、いまがテロの時代だからです。ドストエフスキーは、まさにテロの時代に生きた文学者でした。

— 観光客の時代=テロリストの時代、であるとも書かれている。「観光」自体、旅が大衆性を帯びて、一般人が自由に海をわたれるようになった近代の概念とありました。ドフトエスキー(1821 – 1881)は、観光産業の基礎を啓蒙的に築いたトマス・クック(1808– 1892)とも同じ時代を生きている。

 ドストエフスキーの時代が、大衆社会の雛形が生まれた時代でもあったのですね。そしてそれは同時にテロの時代の幕開けでもあった。

— 以下の節が端的に第2部の問題意識を集約しているように思いました。

世界がどれほどユートピアに近づいたとしても、そしてそのユートピアがどれほど完全に近づいたとしても、人間が人間である限り、ユートピアがユートピアであるかぎり、その全体を拒否するテロリストは必ず生みだされる。それが、いまぼくたちの世界が直面している問題である。その本質は政治の問題ではない。文学の問題である。しかしテロという帰結は政治の問題なのだ。

『ゲンロン0 観光客の哲学』275ページより

 この『ゲンロン0』でぼくが試みたのは、政治と文学の統合だとも言えるでしょうね。

哲学のはじまりは孤独な死だった?

— しかし、第2部の題目は「家族の哲学」。このタイトルだけ聞くと、道徳的なお話なのかなと思ったのですが、途中ではっきりと「家族の哲学という言葉から、お父さんとお母さんを尊敬しようとか、子どもを産もうとか、兄弟は仲よくしようとか、そのたぐいの道徳的で退屈な議論」ではないと書かれていますね。

 そうです。日本の知識人の常識では、家族が大事とか言いだすやつにろくなやつはいないということになっている。でもぼくは、彼らが想定するようなことを言いたいわけではないのです。

— 確かに今日日、家族観は人それぞれバラバラで、声高な道徳観念とはなんとなく距離を取りたい気持ちもあり。そういう意味では、いろんな人に配慮しないといけない内容なので、とても注意深く書かれているように思いました。

 日本ではいまは「家族」という言葉はとても狭い意味になっている。その言葉の意味そのものを拡張して考えようという提案です。だから、普通に言う「家族を大切にしよう」という話ではまったくない。そこは誤解しないでほしい。
 そして同時に書いていてあらためて思ったのは、人間にとって家族というありかたはとても奇妙なもので、その性質をきちんと考えるのは哲学的にとても重要だということですね。いままでの哲学はあまりそこを真剣に考えていないように思います。家族とは市民社会や市場原理が生まれる以前の人間の連帯の原理ですが、そこをアップデートすることは、資本主義の乗り越えにもつながる可能性がある。

— つまり資本主義以前の人間のあり方のアップデートにつながるかもしれない。

 そうですね。そもそも西洋の哲学は基本的に「神」や「世界」について考えるものであって、哲学が「人間」について考えるようになったこと自体がカントぐらいからです(たいへん大ざっぱな話をしているので、専門家の方はお許しください)。

— そうなんですね。カントが生きていたのが、1724-1804年ということは、19世紀以降ですか。

 つまり近代ですね。そして、そのうえで、抽象的な観念としての人間ではなくて、一人一人の現実に生きてる人間について考えるというのが、二〇世紀に出てきた「実存主義」なわけです。つまりは哲学もだんだん世俗の世界に降りていっているわけですが、そこでいったん頂点にくるのがハイデガーです。

— えっと、いちいち検索しますが、ハイデガーは1889-1976年で、代表作は『存在と時間』、と。

 それで、そのハイデガーは「死」から入った。彼の哲学は、要は「人間は一人で死ぬ」という主張です。

— 死から始めた哲学。なんだか暗いですね。「人はみな、孤独・な・の・だ」みたいな感じですか。

 そう。「人間は、一人で死ぬ。絶・対・的に」みたいな感じですね(笑)。まあ、そりゃたしかに事実としてそうなんですけど、そこを中心に据えてしまうあたりが絶対的に中二病 っぽいというか……。
※中二病:14歳頃の思春期に見られる、背伸びしがちな言動や妄想を自虐するネットスラング

— あはは、中二病っぽい。

 ほんとにそうですよ。「みんな死ぬんすよ! 絶対的に! 孤独で! 一人で! だからおれは現・存・在、ガーン!」みたいな哲学ですからね。

— 確かに中二的な自意識強めな気がします。

 まあ、そんなことを言ったらすべての哲学が中二的と言うしかないんですが……。とにかく、ぼくは『ゲンロン0』では、そのような人間観を逆転させるために、「人間はひとりで死ぬ」のは確かに事実だけど、同時にそもそも「人間はひとりでは生まれることができない」のも事実だよね、という話をしています。「家族の哲学」はそこから出てくる。
 これを別の観点で「政治的に正しく」言えば、「死ぬ」観点から始まる実存主義にはジェンダーの話がないけれど、「生まれる」観点から始まる哲学にはジェンダーの話が必ず入るはずです。ジェンダーというか、生殖ですね。

— 本書のラストには、「いつの時代でも哲学者は子どもが嫌いである」と書かれていますけど、頭でっかちな男性の哲学者たちは、理性的に話し合いのできない子どもであるとか、「動物的人間」などをずっと扱いかねてきたんですかね。

 ええ。そうやって、人間の領域と動物の領域をわけてきた。でもそのふたつが分かれてしまう世界っていうのは、いろんなことが説明できなくなる世界なわけです。
 公(おおやけ)に社会的責任をまっとうして生きている自分と、一方で私的に自堕落で欲求にまみれた自分がいるわけじゃない。本当は両面とも同じ人間なわけです。

安倍昭恵問題とテロリスト

 つまり一人の人間の中に、「公」だか「私」だかわからない状態でいろんなものが存在している。「公」や「私」なるものは本当は存在しない。

— 公私は、本当は存在しない。

 それは概念にすぎない。「あなたはいま『公』ですか『私』ですか」と言われても、だれも答えられないですよ。

— それで安倍昭恵首相夫人が公人か私人かみたいなことが問題になるわけですね。私的なものに公的な説明をするというのは、非常に苦しい。

 まさにあの問題ですね。本当は、安倍昭恵さんは公人か私人という議論は無意味なんです。安倍昭恵さんは安倍昭恵さんであって、この場所では公人として振る舞い、この場所では私人として振る舞いなんて、できるわけがないに決まっている。まわりのひともそんな区別はできない。だから「忖度」が生まれるわけでしょう。

— はい。

 ところが、公式に話すとなると、なぜかみなその区別があるようなふりをするんですよね。だから話が混乱する。

— たしかに。

 本書でも書いていますが、テロリストの問題も似たところがある。いまはテロの時代ですが、テロリストというと、政治的なメッセージを持って公になにか訴えるために行動を起こしたんだろうと、ぼくたちは思ってしまうわけです。けれども現実にはそうとは限らない。

— やはりこれは時代の変化なんですかね。昔であれば、私的なものって、あんまり目立たなかったとうか、半径5メートル以内の近しい人間関係においての問題だった気がするんですが。

 重要な指摘です。まさにかつては「私」は小さくて「公」は大きかったわけです。でもいまはSNSの世界になり、「私」のネットワークこそが大規模につながり、グローバルな世界を覆っている。

— 最近のニュースも変ですもんね。公的にはどうでもいい話が、大きくとりあげられることに拍車がかかっている。昔は「私」は文学やら生活やらに託して、哲学も「公」だけを扱ってれば、なんとかなってたんですかね。

 そうです。「私」の不満や怨念は太宰治みたいな文学者に任せ、「公」は成熟した大人の政治家が担うという棲み分けで、なんとかなってたんです。ところがいまや、いまやプチ太宰治みたいな人たちがネットにあふれ、バンバンSNSで騒いで炎上しているわけでね。

— プチ太宰治(笑)。まあ、そういう私的な問題が派手に可視化されれば、公的な問題として扱わざるをえない。

リベラルの罠とは

 そもそも公と私をわけて、公的あるいは合理的な理想だけで社会を作ろうとしても、これは必ず失敗するわけです。それが「リベラルの罠」ですね。

— リベラルの罠。つまり、国家や伝統に縛られず、理性的に人権や平等、公正などについて物事を考えていくと、壁にぶちあたる?

 ええ。たとえば寛容は大切です。けれど、寛容をルール化するのは原理的に不可能です。なぜなら、どれだけ他者を尊重し、寛容が適用される範囲を拡張するとしても、かならずその範囲からは排除されるものが出てくるからです。そしてその排除の対象から、おまえたちの寛容は偽善だ、暴力的だと追求されることになる。

— もうすこし具体的には、どういうことでしょうか。

 たとえば生活保護。ある条件を満たし、ある所得以下のひとには生活費を補助する。それはいいけど、それをどこまで広げたとしても、必ず「それだけでは救えないひとがいる」という意見が出てくる。これは原理的な問題です。ベーシックインカムを導入し、「国民全員に生活費保護」にしたとしても、こんどは「どこまでが国民か」という問題が生じるでしょう。

— どんなケースも、最大公約数になるルールはあっても、完璧なルールというのは考えにくいです。

 そうなんです。これは裏返せば、リベラルの考えだけでは、結局のところ正義は行き詰まるという話なんです。実際、いまの世界では、そんな「リベラルの偽善」を突くことが大流行なわけですね。
 じゃあ、そんなときにわれわれの助けになるものは何か。くわしくは『ゲンロン0』を読んでほしいわけですが、ぼくの結論は要は「偶然性に身をさらす」ということになります。しかし、それはある意味で、リベラルの理想に反することになる。リベラルが目指す「公正さ」は、偶然性の排除に向かいますからね。

— そうなんですか。

 だって、たとえば生活保護の受理が偶然に左右されていてはまずいでしょう。たまたま役人を知っていたからとか、たまたま書類出したからとかではまずい。そう考えるのがリベラルです。

— ああ、なるほど。

 ところがぼくはむしろ、そのような偶然性、ぼくの言葉で言えば「誤配」が、社会のダイナミズムを支えていると考える。

— はい。

 そして、その偶然性の根幹とはいったい何かといえば、それは結局、ぼくたちが動物であるということに尽きている。動物であるとはどういうことかっていうと、具体的に身体を持っていて、判断力にも限界があり、一回の人生しか生きられない。そして一時に一箇所にしか居られない。なにかに「たまたま」出会うというのは、ぼくたちにそういう限界があるからです。ぼくたちがもし神だったら、べつに偶然はいらないわけですよ。すべてを見渡せるんだから。
 ぼくたちは「たまたま」ここにいる。ぼくたちがこの時代にこの国に生きていることにはなんの必然性もなく、すべて偶然である。そのようなぼくたちの有限性によって、はじめて社会が生み出され、自由が生み出されている。だから、人間の自由はぼくたちが人間で、動物を超えているからもたらされているわけではない。逆にぼくたちが動物だからこそ自由は可能になっているんだ、というのがぼくの議論なわけです。

— 次回、最終回は、犬と18歳の東浩紀さんについて、お話聞かせてください。

著者20年の集大成、東思想の新展開を告げる渾身の書き下ろし新著

ゲンロン0 観光客の哲学

東 浩紀
株式会社ゲンロン
2017-04-08

この連載について

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東浩紀

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hironoshinji “誤配”が私をここまで連れてきてくれた→「むしろ、そのような偶然性、ぼくの言葉で言えば“誤配”が、社会のダイナミズムを支えていると考える」 約8時間前 replyretweetfavorite