当事者主義批判とデモ批判
—— 前回は、「観光客」とは何者であるかというお話でした。当事者であることの多くは過去に過ぎ去り、「当事者だった観光客」が残るという。
で、それを自覚した観光客としての僕らはどう振る舞うべきかというお話も『ゲンロン0 観光客の哲学』には書いてありますね。
東浩紀(以下、東) ええ。「郵便的マルチチュード」と名づけました。
—— 「マルチチュード」については、そもそもの説明の後に、以下のように要約されていたのがわかりやすかったです。
マルチチュードとは要は反体制運動や市民運動のことだが、ただ、かつての運動とは異なりグローバルに広がった資本主義を否定しない。むしろその力を利用する。たとえば、インターネットによる情報収集や動員などを積極的に利用する。企業やメディアとも連携する。そして体制の内部からの変革を企てる。
『ゲンロン0 観光客の哲学』P142より抜粋
東 最近のデモ(マルチチュード)の特徴は、特定の政策を共有する運動ではなく、とにかく連帯自体を重視するものが主流です。「反アベ」であれば、だれでも歓迎といったように。しかしぼくはそのような連帯には限界があると感じました。そこでそういう連帯を「否定神学的」となづけ、「郵便的」という別の考え方出しました。
そういう意味では、この本は、3・11の震災以降の「当事者主義」への批判とデモ批判でもあります。
—— 東さんは、震災後、福島やチェルノブイリにも積極的に現地に足を運び、また在特会のデモも現場に行ってレポートされたりしていましたね。それでも、ですか。
東 はい。震災後には、いろんな知識人が、デモに行ったり当事者に寄り添ったりしてきました。そのなかでおかしいなと思っていたことが、この本には書かれています。
—— では、「郵便的マルチチュード」とは、どういうことなんでしょうか。
本書では、「たえず連帯し損なうことで事後的に生成し、結果的に連帯するかのように見えてしまう、そのような錯覚の集積を考えたい」と書かれていました。ここが肝だと思うのですが、すこし具体的にイメージしづらかったんです。
東 ポイントは「誤配」です。
—— 誤配というのは、「郵便」という哲学的比喩における具体的なシステムで、しかるべき宛先に届かず、誤って別の宛先に届いてしまう。一方、差し出す側は、しかるべき宛先が存在していて、届いたかのように錯覚してしまう、ということですね。
東 ええ。さきほど言ったように、いまの社会運動は、とにかく連帯することが大事で、連帯の中身を問わなくなっています。中身を議論したら、ばらばらになってしまうからです。
裏返せば、そこでは、「誤配」以前に、相手にメッセージが届く可能性そのものが放棄されているわけです。しかし、ぼくはそれよりも「誤配」を大事にしたいと考える。人がどこで誰とつながるか、出会うかということの多くは、そもそもまったく偶然です。その偶然の感覚っていうことを、もう一回再認識し、偶然による「誤配」が増えるように実践していくっていうのが、郵便的な実践となります。
わかりやす過ぎる事例としての同窓会
東 さきほど、すべての事件は過去でしかない。そして過去は端的に存在しないという話はしましたね。
—— ええ。過去は、記憶や記録の解釈としてしか存在しない、つまり頭のなかにしか存在しないというお話でした。
東 その作用によって、人はあとから振り返ると、「誤配」によって「連帯に失敗していても、連帯していたかのように思ったりすること」があるわけです。
—— それって具体的にはどんなことでしょうか。
東 いろいろなケースがあると思うんですが……たとえば「同窓会」ですかね。
—— 同窓会!
東 同窓会はまさに、「本当は連帯に失敗していたにもかかわらず、連帯していたかのように錯覚すること」で作られている空間です。
—— なんてわかりやすい(笑)。「なんかなつかしーよね〜」とか言いいながら、まるで仲よくなかったいじめっ子が気安く話しかけてくる、みたいなやつですかね……。
東 そうですね。そういう事態に対して「だから同窓会なんて嘘だ!」というのは簡単ですし、実際ぼく自身も同窓会は嫌いですが、しかし、じつはそういう錯覚が人間には必要なんです。
—— なるほど。
東 同窓会にかぎらず「会」や「式」なんてほとんどそういうもので、たとえば葬式はみなで故人を悼む会ということになっているわけですが、じつは故人に強い関心がある人ばかりでもない。
—— ただ、そのお陰で親戚一同が久しぶりに集まるという。
東 でも葬式がなければ親族なんて崩壊してしまう。だからそれは決定的に大事なんですね。
—— 会社組織で考えると、普遍的な価値観としてビジョンを掲げられていても、そこに共感して入ってきた人もいれば、待遇がいいから入ってきた人、たまたま能力がマッチングしてたから入ってきた人もいる。そういう多様な人たちが寄り集まって一緒に仕事をしている際にも、「うちらのビジョンこうだよね!」っていうような趣旨の会が、たまにあるといいと。
毎日が飲み会だったら続かない
東 これを一般化すると、人間の連帯というのは、本質的に、「あとから振りかえってみると自分はどこどこの一員だったのか、だれだれと連帯していなんじゃないか」という、事後的な錯覚でしか存在しないのだと思うのですね。「本当に」連帯しているかと問い詰めていったとしたら、そんな実体はどこにも存在しない。
実際、「いまここでおれたちは連帯している」ということを、つねに強迫観念的に意識しつづけるのはなかなかつらいわけです。
—— 毎日朝礼でスローガンを唱和することになりそうです。
東 大きい組織だとハラスメントになりますね。
—— 会や式などによる連帯の錯覚は、「デモ的なもの」(マルチチュード)とはやはり違うんでしょうか。
東 ポイントは「リアルタイム」です。否定神学的なデモは、連帯をいまこの瞬間に実現させようとする。リアルタイムでライブで連帯しようとする。「いま俺たちつながってるぞ―!」って。でも、だから逆に、連帯の中身はなくなる。そんな連帯はそもそも不可能だからです。
—— 「あのとき一緒にデモ行ったよね〜」って、場合によってはなる気もしますが。
東 そうなってくると、もう「郵便的」な経験ですね。観光客と言い換えてもいい。ふだんはまともな生活してて、ときどき観光としてデモにいく。そしてあとから振り替えると、それが連帯だったような「気がしてくる」。それを契機に社会問題に関心をもつ。
いまのデモにもそういう契機がないとは言いませんよ。けれども一昨年の夏に流行したSEALDs ※のような運動は、ぼくには毎晩飲み会をやりつづけてる学生サークルのように見えたわけです。
※SEALDs:2015年5月から2016年8月まで活動していた日本の学生により結成された政治団体。自由と民主主義のための学生緊急行動(Students Emergency Action for Liberal Democracy s)。
—— つまり非日常的な祭りをなんとか継続させようとしているというか。
東 はい。飲み会をやり続けていれば、テンションだけは上がる。でも自ずと体力やお金の限界がくるわけです。反アベのあの騒ぎは、しょせんは祭りにすぎなかった。運動には継続性がないとダメだと思います。
最大の誤配はセックス
—— 本書ではその後、「観光客の原理」として、ナショナリズム(国民国家)とグローバリズム(帝国)の二層構造における「誤配」の力学が、ネットワーク理論の数学的モデルによって説明できるんじゃないか、っていう驚きの展開をしていくわけですが……、そのあたりは『ゲンロン0』をご覧いただくとして。
まとめのところでは、「出会うはずのないひとに出会い、行くはずのないところに行き、考えるはずのないことを考え、帝国の体制にふたたび偶然を導き入れ、集中した枝をもういちどつなぎかえ、優先的選択を誤配へと差し戻すことを企てる。」とありました。まさに「観光」ですね。
東 今回の本には書いてませんが、「誤配」は快楽によって駆動されるものでもある。だから、誤配の最たるものはセックスです(笑)。
—— おお。
東 実際、ひとはセックスが絡むと、ほんとに幼稚な間違いを犯してしまう。本来ならば関わる必要のないひとに関わってしまう。けれどもそれは必ずしも悪いこととも言えなくて、たとえば、もし人間に性的関係がなければ、階級差がいまよりもはるかに固定されていたことはまちがいない。
—— 確かに、善良な貧乏人が王女様や王様とくっつくという古典から、玉の輿的なものはまさに「誤配」の実例だったということですよね。
東 そうです。そういうことをあまりバカにするべきではない。誤配というのは、その点では高尚でむずかしい話ではまったくなくて、人間は合理的思考だけではとても硬直した社会制度をつくってしまう、しかしそこに快楽に導かれた誤配が入るとちょっと違うことになるよと、そういうことなんですね。
—— なるほど、ここでも欲求に駆動される動物的人間の成果が。
東 そういう要素を、今までの哲学は否定的にとらえてきた。
—— ふまじめでけしからん、という。
東 ええ。でも、ぼくは、それこそが人間だと考える。そして、人間のそういった「動物的部分」こそが、じつは人間の自由を作っていると考えるのです。
「世界をどう変えるか」よりも大切なこと
—— 「郵便的マルチチュード」の実践がとてもイメージができた気がします。
東 とはいえ、ぼくが言ってるのは、実践的な側面ではごくごくふつうのことだと思いますけどね。
—— そうなんですか。
東 そうですね。哲学というのはそもそも、「世界をどう変えるか」よりも「世界をどうとらえるか」というタイプの言説ですね。その点では政治よりも宗教に近い。近代の、とくに左翼の思想はやたらと「世界をどう変えるか」を語りたがるのだけど、ぼくはそういうタイプの思想家ではないんです。
—— なるほど。
東 そもそも「変える」というのは、社会なり人間なりに「正しいすがた」があって、人々をそちらに導いていくのが哲学者の役割だといった発想ですよね。
—— はい。
東 僕も、世界の個々の悪には怒りを覚えるし、変えるべきだとも思うのだけど、哲学をやるとなると、「なぜ世界はこうなっているのか」の説明のほうに関心が向いてしまうのですよね。なぜ世界に悪はあるのか、と考えてしまう。
—— 実践的な問題にはあまり興味はいかないですか。
東 興味がないわけじゃないんだけど……。ぼくはやっぱり唯物論者じゃないんですよね。
—— 唯物論者じゃない、というと?
東 例えば、貧困がすべて解消されたとします。世界中でベーシックインカムが支給されるようになった。仕事はぜんぶ人工知能がしてくれる。でも、そうなったって、人々はずっと不満を持つと思うんですよね。
経済はたいへん重要な要素だけど、唯一の要素ではない。
—— むしろそちらが本質ではないというか。
東 いや、本質なのかもしれないけど、ひとは本質だけで生きていけないというか……。そしてぼくは、哲学者というのは、その「非本質」の部分を考える職業だと思うんですよ。非本質こそ本質だというこの逆説については、本の中でも書いているのだけど。
いずれにせよ、いま日本人が生きにくかったり不幸だったりするのは、経済的な問題だけじゃなくて、ひとつには、ぼくたちがいる、文化的な環境や言語の環境が貧しくなってるということがある。
—— はい。
東 たとえば僕は仕事柄、日本の同時代のコンテンツを少しは見ますが、僕がただの一読者だったら、読まなくなっていると思うんですね。なんでかって言ったら、貧困で苦しいぼくたちか、メンヘラで鬱のわたしとか、そんなものばかり見せられても、疲れるんですよね。
—— 辛さや苦しさなどの共感をちりばめたものですね。
東 だから、僕としては、『ゲンロン0』ではそういう時流とはまったく逆のことをやったんですね。この本は、「デモに行けば社会が変わる」と言う本でもないし、「つらいキミたちに共感するよ」という本でもない。ただ淡々と、いまの世界のしくみが書かれている本です。
ぼくとしては、こういう「でかい話」こそが、まわりまわって世界を変えるとは思っています。ただ、最初の話に戻るけど、じゃあそれが具体的にいまの日本の読者にどれほど受け入れられるかと言われれば、それはまったくわからないですね。こんな本書いているひと、ほかにいないですからね。
—— 次回は、『ゲンロン0』二部である「家族の哲学 序章」についてお話聞けたらと思います。
聞き手・構成:中島洋一