ここ数年、やたらと怒っている日本人が増えたような気がしないでしょうか?私は日本と欧州と往復して生活していますが、特に東日本大震災の後、やたらと怒っている人が増えているようなきがするのです。
電車や街で見かける人達は表情が暗く、以前に比べると、ちょっとしたことで喧嘩や言い争いが起こります。
震災前と比べると、ネットの掲示板やツイッターからはユーモアが消え、罵詈雑言の嵐です。有名人バッシングもひどく、なんだか変だなあと感じています。
以下は4月12日に発売になる「不寛容社会 - 『腹立つ日本人』の研究 - (ワニブックスPLUS新書)」(https://alexa.design/2nWw8og)という本からの抜粋ですが、今回の本では、日本人が不寛容になった原因を分析してみました。
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・日本社会の文化人類学的構造と他人たたき
日本人はなぜ他人を叩くのが大好きなのでしょうか?日本以外の国の人々も他人を批判する心、嫉妬心を持っています。しかし、人間がある程度集まると、似たような傾向を示すことがあります。
例えば航空機の部品を作る会社は、部品を1万5千個作ったら、そのうち不良品は1個か2個にしないとならないという精度を追求する様に日々最新の注意を払って仕事をしています。
その中で品質管理を担当する人達は、品質規格をきっちり守り、ちょっとした間違いにも気がつくという傾向を持った人達です。もともとずさんな性格な人でも、周囲がきっちりと仕事をするので段々染まっていきます。
・「ウチ」と「ソト」の断絶
文化人類学者の中根千枝氏は、日本人の「ウチ」と「ソト」の断絶を指摘します。この「ウチ」と「ソト」の概念は、日本人の他人との関係性を考える上で重要な概念であり、日本人の他人叩きと深く関わっています。
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引用
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日本の場合は大げさに言えばウチとソトの間に断絶があるわけです。ソトは一種の別世界です。したがって、よほど注意して切りかえておかないと、「はずかしいこと」になったりします。日本社会には他の諸社会に比べて、内弁慶の人が多いのもこのためでしょう。また、反対にひどくシンゾウの強い人がいるものです。日本人はまことに礼儀正しくておとなしい、などといわれたりしますが、他の社会にはちょっとみられないほど強引な、あるいは例を失するひとなどがいるのは、ウチとソトの不調和から来るものと思われます。実際、日本の庶民的な家族生活では、ソトにおける本当に人間関係設定の方法や機能的な行動様式を訓練する場がないといえましょう。
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引用 おわり
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(中根千枝「家族を中心とした人間関係」講談社学術文庫157—158ページ)
中根氏はこの様に、日本人の閉鎖性というのは、家族単位を「ウチ」とし、それ以外を「ソト」とすることに起因すると指摘します。
学校や会社の訓練にその他の社会では考えられないような重さが置かれている点も、会社や学校という集団において「ウチ」と「ソト」を作り出す原因となっていると指摘します。
学校の場合は、学校全体ではなく、クラスが「ウチ」となり、会社の場合は、課や部が「ウチ」になります。
中根氏は「同じ部屋で毎日顔をあわせる人達の集団」が「ウチ」となり「物理的に共通の壁によって他の人々から区別されている人々が『ウチ』という社会学的近親感をもつというのが興味深いものがあります。」とも指摘します。
つまり、物理的な壁なり部屋なりが、「ウチ」と「ソト」をわけており、日本人の行動様式や感情までも支配しているというのです。
この点に関しては、日本の会社では、 同じ会社の中で、部や課の間で激しい競争があったりすることを思い出すとわかりやすいでしょう。
日本人は「調和主義だ」といわれているのにも関わらず、007真っ青の噂合戦が繰り広げられたかと思うと、別の部署で似たようなサービスを開発して重複が発生することもあります。また、異なる課の飲み会に、別の課の人が呼ばれることはまれです。
・部署を移動したら他人な日本
私は日本 、アメリカ、イギリス、イタリアで働いてきました。しかし、日本の外では日本のように課同士で熾烈な争いを繰り広げることは稀です。もちろん社内での競争はありますが、どちらかというと、異なる部署動詞で協業することが珍しくありません。
特に私が働いてきたIT業界だと、プロジェクトは複雑化しがちですし、国境を超えた作業も珍しくありませんので、様々な部署が協力して、部署横断型の仕事をしないと、社内の有能な才能を活用することができません。協力しない部署があると、サービスが止まってしまったり、最悪の場合は、大規模な事故が起こります。従って、普段から頃なる部署同士の交流も盛んですし、飲み会やイベントも大変気楽な感じでやっています。
部署を移動することもありますが、移動したからといっても上司や同僚を裏切ったという様な目で見ることもマレです。
特にアングロサクソン圏ですと、会社で誰かが採用されるときには、その人の技能や能力を元に、職能型の採用を行いますので、仕事の采配もその人の技能や能力を元に行います。移動で全く異なる部署へ移動させて一から覚えさせる、ということはあまりやりません。
したがって、部署の移動も、会社で仕事のやり方が変わったとか、プロジェクトでその人の技能が必要だからという理由なので「ウチ」から「ソト」へいってしまったのがだ、という風にはなりません。
ところが日本の場合は、課を移動した途端に、「仲間ではない」という扱いをされることがあります。以前は一緒にお昼を食べに行ったり、休日も遊びに行っていたのにつきあいがなくなってしまう、ということもあります。
これが転職となったら、まるで死んだ人扱いです。前の会社の同僚からは年賀状が来なくなったり、付き合いがほとんどなくなってしまうこともあります。
ところが日本の外、特にアングロサクソン圏だとこういうことはなく、転職は頻繁ですから、会社をやめても前の同僚や上司とは仲良くすることが珍しくありません。さらに、機会があれば、所属組織は別でも、一緒にプロジェクトをやったり、起業することもあります。
これはアングロサクソン圏では「ウチ」と「ソト」の概念が、日本ほどはきっちりしていないことと関係があるでしょう。あくまで重要なのは「個人」という単位であって、所属組織ではないのです。
このように日本人にとっては「ウチ」と「ソト」は、日常を支配する概念であり、「ソト」の 他人に対しては、「ウチ」の人間とは異なった扱いをすることが通例なのです。
大変興味深いのは、日本は19世紀の開国以来どんどん西洋化を進め、現在では会社の仕組みや政府の仕組みは、西洋社会とはそれほど変わりません。
しかし、会社の中では相変わらず部署同士の対立があり、転職は「ウチ」に対する裏切りだと考える人が大勢います。
会社はかつての農村を中心とした地域社会の再現であり、「ウチ」は自分の所属する村や単位、「ソト」はよその村なのです。
手にしているのはスマートフォンで、リビングには4Dテレビが鎮座していても、 100年前と変わらない「ウチ」と「ソト」が生きている。
近代化が進み工業化が進めば日本社会は西洋にようになると思われていましたが、根源的な所は変わっていないのです。