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キャラ化とコンテクストの断絶

SNS 小ネタ

togetter.com
文豪を美少年化したDMMのゲームが赤旗で取り上げられ、それに対して


ファンがキャラを思想的に扱うなと怒ったとか怒ってないとか。
元が2ch近辺なので慎重になるべきだろうが、ニュースにもなりはじめたので考えてみる。

※以下「コンテクスト」というワードはかなり乱暴な使い方をしていますので読むときにはご注意を



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コンテクスト消費

魔界転生(上) 山田風太郎忍法帖(6) (講談社文庫)

コンテクスト*1とキャラクターの消費は昔から行われている。
だが、その切り離したコンテクストが現代と繋がっているかどうか、というところが閾値になっている。
そこを踏まえないと正しく捉えられない。

たとえば柳生十兵衛が山田風太郎「魔界転生」で蘇り、そのコンテクストのディテールがつながったままのキャラでも問題視はされない。
柳生十兵衛は、その詳細がわからない。
どこの誰を何人殺し、どんなことをしたのかがわからない。
多くのディテールが時間によって欠落し、コンテクストに含まれる思想や宗教などが近代までつながらない柳生十兵衛は、現代で「剣豪」という記号になっている。

なのでコンテクストが切り離されキャラ化したアニメ「十兵衛ちゃん」はたとえ眼帯がラブリーであっても問題はなかった。
時代が遠く離れ、現代と繋がらず、コンテクストも断絶している。
この「コンテクストの断絶」が重要になる。

キャラクターの死

僕はやっぽり作り手の責任としてどこかで必ず死に場所を見つけてあげるべきだと思ってるんですよ。そうすることで、記憶の中にルパンならルパンが場所を得られるわけで、死んだんだか生きてんだか分かんないゾンビのようにさまよってるキャラクターを見るのは、正直言って作った側としては忍びないですよ。僕自身そういう経験があるからこそ宮さんの思惑をそうと察したわけで、たぶん間違ってないと思う。
幻の押井守ルパンは「虚構を盗む」はずだった(押井ルパン資料2)

キャラクターは消費される。
消費される以上、新しいキャラが必要になるのも必然。
キャラは消費されるが、定番となったキャラを再度消費する方が安定感があり楽なのは間違いない。

ドラえもんは中身を変えても作られ続け、押井守がとどめを刺そうとしたルパンは死なないまま未だに再利用され、コナンは元の体に戻れず小学生を続けている。
いつも同じおなじみ、定番の、いつものあれ。

再利用される定番キャラはすり減り、死に体でも生き続けさせられる。
コンテクストは繰り返される再生産により多重化し、キャラは記号になっていくしかない。


そういう中「擬人化」という手を使い、美少女化することで歴史や思想などのコンテクストだけを切り離し、「戦艦」というモノのコンテクストを背負わせたままキャラ化したのが艦これであり、作家個人ではなく「作風・作品」を擬人化したのが文豪ストレイドッグスだろう。
大量にキャラを必要とするゲームだからこそこういう「過去をなぞる」やり方なんだろうが。

本人

文豪ストレイドッグス -1 (カドカワコミックス・エース)

「文豪とアルケミスト」は明らかに文豪ストレイドッグスをイメージしつつ、「文豪を転生させる」と言うあたりはfateシリーズのサーヴァントのイメージだろうか。
ただ文豪ストレイドッグスが作風や作品を擬人化したのと違い、「文豪が転生」することでコンテクストの切り離しにしくじった。
文豪本人が転生するなら、そこに登場するキャラクターもまた文豪本人のコンテクストと繋がる。

Fateシリーズに登場するサーヴァントは、近代から離れた過去の剣豪などが多い。
たとえ本人がサーヴァントとして転生しても遺族や、その思想を継ぐ人間があーだこーだ言わない。
時代が断絶している、キャラの背負うコンテクストが現代に繋がっていない。



ここでいう上杉謙信や信長政宗が小林多喜二と大きく違うのは、コンテクストが断絶しているのか否かだろう。

やはり近代の思想に繋がる作家を「本人が転生」するのはなかなか扱いが難しいし、それと江戸時代の人物を比較するとのは縮尺が違う。

コンテクストのむずかしさ

艦隊これくしょん -艦これ- おねがい!鎮守府目安箱1 (電撃コミックスNEXT)

たとえば「ナチス風」のモノでも反発が多いところにゲームキャラとして耽美に美少年化したアドルフ・ヒトラーを登場させユダヤ人を虐殺できるゲームがあれば炎上は必至だろう。
ヒトラーはWW2の歴史を超えてコンテクストが断絶していない。
先日は欅坂が衣装として「ナチスを連想させそうな」衣装を着ているだけでいろいろ言われたことすらあった。

仮にジェフリー・ダーマーやジョン・ゲイシーを美少女化するゲームが登場すればコンテクストがつながるアメリカでは問題になる。
自身が新興宗教団体の教祖になり、細菌兵器を作ったり、政治に出馬したりするゲームは必然的にコンテクストが結びつく。


特に小林多喜二のように思想的な作家で、拷問の末に殺害されたといわれる人物の場合、扱いは慎重になるべきだったろう。
仮にこれが「蟹工船の擬人化」なら何も言われなかったろうが。


刀剣を美少年化する刀らぶの場合、刀剣自体にモノとしてのコンテクストはあってもそれはあくまでもモノでしかない。
これは文豪ストレイドッグスの「作風・作品」や艦これの「戦艦」ともつながる。
しかし人物本人をキャラ化するときは、その本人の生きたコンテクストの継続性を鑑みなければいろいろ言われやすいのは間違いない。

もし石原莞爾や山本五十六、東条英機が美少年化して登場するゲームがあったらどうだろう?

「三国志」や「信長の野望」に本人が登場しても、そのコンテクストは現代に繋がらない。
誰も「信長をゲームで扱うなんて!比叡山の焼き討ちでいったい何人の犠牲者が出たと思ってるの!!」とは言わない。
江戸時代は遥か遠く、中国も海の向こうにあり、「断絶」があるからこそ本人がキャラ化してもそこには一般的なイメージしか付与されない。
信長というキャラに付与されるのは「信長」という記号でしかない。
時代、土地、思想、宗教。


ネタかマジかの「ネタにできるか否か」は、このコンテクストの繋がりの強さと内容によるとしか言いようがない。
キャラ化したときのコンテクストがネタにできるか、時代や土地によってコンテクストが断絶しているか。

コンテクストを意識しない安易なキャラ化は、問題を産みやすいという典型例。
成功した「文豪ストレイドッグス」との差が見える。

*1:そのモノや人物の持つ歴史、背景、思想など含む文脈