2017-02-06
■バーチャル平行世界 
「今日は随分、無愛想じゃない。あなた」
僕が顔を上げると、彼女はわざとらしく眉をひそめながらそう言った。
僕はナイフとフォークを持っていて、味の分からないパスタを食べている。
彼女の名前は思い出せない。いつデートした人だったのか。そもそも前に会ったのがいつだったのか。
けれども、たしかに以前会ったことのある女性だった。そのときの記憶はかなりハッキリしていて、思い出せる。
食事を終えると、「さあ帰りましょう」と彼女は言って、僕は見慣れない国産車の運転席に居た。
ウィンカーの位置がいつもと逆なのでおっかなびっくり駐車場を出ると、カーナビを操作して家に向かう。
家は鎌倉の住宅街にあった。一軒家ではなく少し高級な集合住宅だ。
ルブタンをカツカツ言わせながら、彼女が手慣れた手つきでドアを開けると、見知らぬ老母がリビングでお茶を飲んでいた。殺風景な部屋。必要なものしか置いてない感じ。
「おかえり」
老婆はそう言って僕達を出迎えた。
僕は自分の書斎に入ると、HoloLensが無造作に置かれていた。
ここはどこなんだろう、という疑問が生まれたのはその瞬間だった。
僕は鎌倉に住んだことなどないし、書斎など持ったことはない。レクサスに乗ったこともなければルブタンを履くような女性とつきあったこともない。だが不思議なことに、あの女性には見覚えがある。いや、たしかに彼女には会ったことがある。それも何度も、夢の中で。
ハッとして身を起こすと、僕は雑然とした仕事場の片隅で眠っていた。キャンプ用のマットと寝袋。
枕元にはHoloLensとMac。日曜日の朝。
電子音が短く鳴って、ドアが開く。日曜日のこんな時間に、誰だ、と思ったら水野くんだった。
「これから町田でVRミュージカルです」
「ああ、あれな。評判いいらしいじゃないか」
「頑張ります」
「気をつけて」
町田か、遠いな。
そう思ってまた眠る。どうも睡眠が足りてないらしい。
ベッドの上、息遣いを感じて振り向くと、彼女が僕を見ている。化粧は落としていない。赤い口紅。大きな目。鼻筋の通ったきれいな顔をしている。でも具体的に誰に似ている、ということが言いづらい。ただただ美人である。ああ困ったな。しかし君の名前は何ていうんだっけ、とも聞けない。
彼女が手を握ってきて、ドキッとするくらい生々しい感触にたじろいだ。体温さえ感じる。皮で覆われたゴツゴツした骨格の感触。
いや、しかしこれは夢だ。
夢を見ながら夢の中にいると自覚している、明晰夢というやつだ。滅多にないが、たまにある。
明晰夢の中では自分の思い通りのことが出来ると良く言われるが、より正確には自分の思い描いたことがすぐさま現実化してしまい、少しでも意識が乱れると世界が簡単に崩壊してしまう。エンターテインメントとしては中途半端なものである。
たとえば「この美女が実は男性だったら」とか、間違っても考えてはいけない。それはすぐさま夢の中で現実化し、僕はパタヤのゴーゴーバーに迷い込んだ観光客みたいになってしまう。
それでも彼女の顔を見ながら僕は不思議に思った。実際、この人とは何度も会っているのだ。
でもそれがいつだったのか、そのときどんなことをしたのか、うっすらとしか思い出せない。でも一度ならず、何度も、夢の中で会っている。名前も知らないというのに。
ただ、そのときはこういう関係ではなかった。
それから再び目が醒めると、約束の時間になっていた。
僕は誰もいないオフィスで軽く着替えを済ませ、UDXへ向かう。
しかし一体全体、どうして人は繰り返し同じ架空の人物と会う夢を見るのだろう。
その人物にはモデルは居たのか、居たとすれば誰なのか、もしかすると複数の人物がモデルかもしれない。なぜ彼女は年老いた老婆と暮らしていたのか、なぜルブタンで、パスタだったのか。
そして僕がこっちの世界にいる間も、あっちの世界の僕は書斎を持ち、国産車を買い、鎌倉に住んでいるらしい。共通するのはHoloLensとスターウォーズのシールがベタベタと貼られたMacくらいだ。
宇宙は絶えず分裂しているという説がある。
量子力学の世界では、宇宙は観測されるその瞬間までひとつに収束しない。そうした確率的分布と収束が絶えず繰り返されているのが宇宙の原理だとすれば、鎌倉に見知らぬ美人と老婆と三人で暮らす僕がいる宇宙があって、眠っている間にそっちの宇宙の僕の意識にこっちの宇宙の僕の意識が混線しているんだと考えると少しは面白い。
もちろん、それは単なるロマンであって、僕自身はリアリストだし、現実的にはそこまで荒唐無稽なことを本気で信じているわけではない。
でも、ときどきこうした、よくわからない夢を見ることがあるのだ。別の世界で暮らす別の自分。面白いことに連続ドラマのように、僕が見ていない間にもストーリーが進んでいて、実質的(バーチャル)に平行世界があるかのように感じられるのは面白い。
人間の意識についてはまだよく分かってない部分も少なくない。
たとえば量子物理学者のペンローズと麻酔科医のハメロフが共著した論文では、意識は脳細胞の中にある微小な量子的現象によって見出される(WIRED "DEATH2.0"特集に掲載)。
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慶應義塾大学の前野先生によれば、意識とは並列情報を直列化する方法であり、それは拙書「よくわかる人工知能」での前野先生との対談でも語られている。
ペンローズ=ハメロフ論文の一番おもしろいところは、ハメロフが「麻酔とは、意識と体感覚を切り離す手段であり、その原理は未だよく分かっていない」としているところだ。
確かに個人的に麻酔をかけられた経験は何度もあるが、部分麻酔なら、麻酔のかけられたところだけが、全身麻酔ではまるで眠るように、意識が遠のいていく。
麻酔が意識と体感覚を切り離すというのはかけられた側の感覚としてもわからんでもない。
仮に平行世界があったとして、なんらかの夢のような手段を用いてそこを垣間見れるとしよう。実際的に、僕の記憶するところでは、なんどもそういうことがあったわけだから、僕にとって夢の向こう側の世界というのは、いくつもの実質的平行世界として存在しているとみなしてもいいことになる。明晰夢でぐだぐだになってしまうのは、むしろ受信するべきところを受信せず、自らのこちら側の意識によってノイズを加えているため、意味的におかしくなってしまう現象と考えられなくもない。
面白いことに、どれだけ崩壊してもしばらくするとまた何事もなかったかのように時間の経過した平行世界を体験することがあることだ。明晰夢として関与するときの邪念はノイズであるという僕の仮説はまんざらデタラメでもないのではないかと思う。
ホモ・サピエンスだけが全ての人類のなかで唯一「ウソ」や「幻想」を共有することができるようになって、部族を超えたより大きな単位でまとまることが出来るようになった、という説が紹介されている。
だとすればホモ・サピエンス以外は夢を見ないのだろうか。
そんなことはないだろう、と直感的に思う。
けれども夢というのはウソの宝庫だ。
起きてなお、夢の内容が本当だったということにはなかなかならない。
これは妄想がすぎると思うが、或いは、平行世界との交信が可能なのが唯一ホモ・サピエンスだったのかもしれない。
平行世界には、現世では想像もつかないような巨大な生物や、鬼や、天使、悪魔、そして神に等しい存在が具体的に存在し、そうしたものを眠っている間に他のホモ・サピエンスと部分的にでも表層的にでも共有する能力がもしかすると備わっているのかもしれない。一種のテレパシーである。
ホモ・サピエンスにはテレパシー能力があるが、ネアンデルタール人にはない、という話なら、もしかしたらありえる話かもしれない。虫の知らせ、と言うではないか。
そんな妄想とともに目覚める朝
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