ニッポンの音楽の「内」と「外」
批評家の佐々木敦は著書『ニッポンの音楽』(講談社)の中で、J-POPという言葉に倒錯した関係性を見出している。
J-WAVEが作った「Jポップ」という言葉は、『Jポップとは何か』を読む限り、単に「ジャパニーズ(もしくはジャパン)・ポップス」の略称にすぎません。もう一度日本語に戻せば「日本の大衆音楽」ということになります。J-WAVEは、れっきとした日本の放送局でありながら、基本的に洋楽しか流さず、DJは英語を喋っているという特殊なラジオ局です。そこから聞こえてくる日本の音楽は「邦楽」や「歌謡曲」であってはならなかった。そこでこしらえられたのが「Jポップ」です。この命名、言い換えは、それ自体、極めて「日本」的なものだと筆者には思えます。 (佐々木敦『ニッポンの音楽』講談社)
なぜ佐々木はこの言い換えを「極めて『日本』的」と捉えたのか。それは、日本の大衆音楽そのものが海外からの影響や洋楽への憧れをもとに発展してきた、すなわち「内」と「外」との関係性の構図の中で生まれてきたというのが同書の主題だからだ。
その源流は、「J-POP」という言葉が生まれるはるか前、終戦時にまで遡ることができる。
田家秀樹『読むJ‐POP―1945‐2004』(朝日新聞社)や、マイケル・ボーダッシュ『さよならアメリカ、さよならニッポン─戦後、日本人はどのようにして独自のポピュラー音楽を成立させたか』(白夜書房)では、日本のヒット曲の原点を、1947年、戦後まもない頃に生まれた笠置シヅ子「東京ブギウギ」に位置づけている。
この曲の作曲は服部良一。「日本のポップスの父」とも言われる人物だ。当時モダンな音楽スタイルだったジャズを意欲的に歌謡曲の世界に取り入れた服部について、田家はこのように評する。
服部良一が〝ポップスの父〟と呼ばれる理由はいくつかある。その第一が「東京ブギウギ」に始まる、8ビートのヒット曲の生みの親だったということ。そして、第二は、彼が戦時中でもジャズやブギウギという〝洋楽〟を書き続けていたことだ。彼は一曲も〝軍歌〟を書かなかったのである。(田家秀樹『読む読むJ‐POP―1945‐2004』朝日新聞社)
演歌も「舶来文化」から生まれた
「演歌は日本の心」という常套句があるように、一般的には「和」の印象が強い演歌というジャンルも、やはり洋楽の影響下で発展してきた成り立ちを持っている。
「演歌の女王」とされる美空ひばりも、ジャズ、マンボ、ロカビリーなどその当時海外で流行していた音楽ジャンルを巧みに歌いこなしてきたシンガーだ。その美空ひばりに「柔」や「悲しい酒」を提供し、哀愁あふれる「古賀メロディ」で演歌の代名詞とされた作曲家の古賀政男も、大学時代にはマンドリン・オーケストラに所属し、昭和初期に来日した「現代クラシック・ギター奏法の父」と呼ばれるスペイン人ギタリスト、アンドレス・セゴビアの強い影響を受けている。
輪島裕介『創られた「日本の心」神話─ 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』(光文社)には、こうして「舶来文化」との折衷的な音楽として発展した昭和時代の流行歌や歌謡曲が、60年代後半以降に「演歌」というジャンルに再定義されていく経緯が描かれている。
レコード歌謡は、あらゆる意味で「舶来」の新文化として日本にもたらされたのであり、「日本的」とされる要素は、外来の音楽要素が定着する過程で後から付加されています。(輪島裕介『創られた「日本の心」神話』光文社)
同書は、日本にレコード会社が成立した昭和初期の時代にまで遡り、そこから流行歌がどう発展したかを解説している。
演歌も歌謡曲もニューミュージックもJ-POPも、近代日本のすべての大衆音楽は「舶来品」をモデルに、その直截的な翻訳を経て、それを下敷きにした「国産品」が作られる過程で支持を獲得してきた、というのが輪島の論だ。
次回につづく!