小さい頃から何でも「0か1か」で考えてしまって、「程度問題」というものがうまく理解できないところがあった。
例えば傘について。小学生くらいの頃、雨が降っているときは傘をさせ、とみんな言うけれど、傘をさしてもズボンの裾や鞄など体の一部が濡れることがあるのが納得できなかった。
「雨」という問題に対して自分は「傘をさす」という一般的社会的歴史的に正しいとされている解決法を取っているはずだ。それでも濡れる部分があるというのは何かおかしいんじゃないか。
これがゲームだったらこんなことはない。ゲームの中で自分が毒の状態になってしまったら、毒消し草を飲めば完璧完全に治って何も問題がなくなることになっている。目が見えなくなったら目薬を挿せば治るし、死んでしまったら蘇生の呪文を唱えるとよみがえる。それに比べてどうして現実はこんなにできが悪いのだろうか。この現実はクソゲーなんだろうか。
この傘と雨の問題については、だんだん成長するにつれて「傘には大きい傘と小さい傘があって、小さい傘は雨を防ぐ能力が低いので体の一部が濡れることがある」とか、「世の中には激しい雨というものがあって、激しい雨だと傘では全てを防げないことがある」といった「大きさ」や「激しさ」といったファジーな概念を少しずつ理解するようになって、なんとか納得はした。だけど雨に感じていた理不尽さをまだ完全に拭いきれてないせいか、今でも雨の日に外に出るのはあまり好きじゃない。
傘よりももっと生きるために必須なのに、今だによく分からないものがある。それは食事だ。
世間を見ると「こういう食生活はいけない」とか「これを食べると健康にいい」とか、みんな口々にバラバラなことを言っている。野菜をもっと食べなさいと言う人と、野菜しか食べないベジタリアンの人と、野菜を全く食べない偏食の人がそれぞれいて、みんなそれなりに健康そうにやっているように見える。どれを信じればいいのか全くわからない。
一体僕らは、毎日何をどれだけ食べればこの世界で正しく生きていけるのだろうか。
昔から食事のときに「大盛り」を頼む人というのがよく分からなかった。食事というのは「空腹」という不快なステータス異常を解消するために行うものだけど、並盛りでも大盛りでも空腹を解決するという点では変わらないように思えたからだ。
「カロリー」という概念を知ったとき、少しその答えが分かったような気がした。全ての食物はカロリーという値を持っていて、そして人間が一日に必要とするカロリーは決まっているらしいのだ。
そうか、大盛りを頼む人は、あとでカロリーが不足することを見越して必要カロリーをできるだけ多く一度の食事で摂ろうとしているのか。確かに、細かく分けて何度も食事をするよりもそちらのほうが効率的かもしれない。
食物について自分がまず把握した数値は値段とカロリーだった。そして、そうした観点から考えて見ると、この日本社会では牛丼という食べ物が値段、カロリー、味、手間などさまざまな面から見てもっともコストパフォーマンスが良い最強の食物ではないか、というように思うようになった。
一人暮らしを始めた最初の頃は、毎日一食は牛丼を食べるようにしていた。食べれば食べるほど自分が得をして正しいことをしているような感覚があったのだ。
思えば牛丼屋はいつも自分の人生の側にあった。
中学生の頃、一人で牛丼屋に入るとなんか大人になったような気分があった。大学生の頃、徹夜麻雀明けにみんなで連れ立って牛丼を食べに行くのが好きだった。社会人になってから、夕食は食べたけどだんだん小腹がすいてきて、深夜に背徳感とともに食べる牛丼は美味しかった。
牛丼屋に対して僕が持っている感情は「安心感」というのが一番近い。
24時間どんな時間に行っても開いているという心強さ。昼でも夜でも深夜でも早朝でも、どんな変な時間に行っても変わらぬ並盛りがサッと出てきてお腹を満たしてくれる。
注文するとすぐに出てきてササッと食べれるというのも心強い。一刻も早く何か食べないと精神が暴走しそうというときがたまにあるのだけど、そういうときでも牛丼屋があれば安心だ。
どうも自分は、他人と一緒のときは別なのだけど、一人で食事をするときはできるだけ高速に食事を済ませたいと思っているところがある。なので、かきこんで食べられる丼ものは他の料理の5割増しくらいで好きかもしれない。
牛丼屋はどんな場所に行っても大体あるというのも頼もしい。知らない土地で見慣れた牛丼屋の看板を見つけたときの安心感。店に入らなくても牛丼屋がそこにあるだけで「これでいざというときも大丈夫だ」という気分になれる。
味も完成度が高くて、毎日食べても飽きないと思うし、そしてやっぱり何より魅力的なのはその安さだ。牛丼屋は僕が子供の頃から何十年もずっと安価な外食の象徴であり続けている。
安い価格と、満足感のあるカロリーと、クオリティの高い味。牛丼を食べてさえいれば、「自分はたくさんある選択肢の中から最も効率的で出費最小限の食事を選んでいるのだ」とか「牛丼屋に行くことで自分はこのデフレ化する社会の最先端の現場を追いかけているのだ」という自信を持ち続けられていた。
ただ、僕は毎日牛丼を食べるということに特に問題を感じていなかったのだけど、それは世間一般的には偏った食事とみなされるらしくて、「もうちょっと野菜とか食べたほうがいいよ」などといろんな人に注意されることも多かった。
確かに、調べてみると牛丼というのは世間でいうバランスの取れた食事から離れているらしい。
だけど、いわゆる「バランスの取れた食事」をしようと思うと、あまりにも気にすることが多すぎて普通の人間には不可能ではないかと思うのだ。
いわく、野菜は一日に350g食べなければいけないとか、現代人は塩分を摂り過ぎだとか、コレステロールを控えないと生活習慣病になるとか、野菜ジュースはあまり栄養にならないとか、アメリカ人はフライドポテトにケチャップをつけて「これは全部野菜でできてるからヘルシーだぜ」って言ってるとか、バターは体に悪いけどオリーブオイルは体に良いとか、肉の脂は良くないけど魚の脂は良いとか、白米や白砂糖は毒だから玄米や黒糖を食べろとか、漢方では陰の食べ物と陽の食べ物があるのでバランスを取らないといけないとか、人工甘味料はカロリーゼロだけど体に悪いとか、カフェインの摂り過ぎは良くないけどコーヒーに含まれるポリフェノールは体にいいとか、鬱を防ぐためにはセロトニンが多く含まれた食物を食べようとか、もうなんだか気にすることが多すぎて全てを守ることができない。
いったい正しい食事というのはどこにあるのだろうか。世界にはこんなに多種多様な食物が溢れかえって、あれも食えこれも食えと人類を誘惑してくるのに、その一方で食べることが正しいとされている食物というのはすごく限られている。こんな状況では何を食べると正しいのかが全く判断できない。面倒臭いからもう、みんな毎日牛丼を食べていたらいいじゃないか。
そんな感じで若いころは牛丼ばかり食べていたのだけど、30代半ばくらいからはそこまで牛丼至上主義ではなくなってきた。胃腸の消化能力やカロリーの代謝が下がってきたせいか、少し牛丼がヘビーに感じるようになってきたためだ。
それでも今でも週に一度くらいは牛丼屋に行っているけれど。相変わらず牛丼は安くて美味しいし食べると安心感がある。
今でもやっぱり食事については何を食べたらいいのかよく分からないままだ。「人間は自分の体に不足している物を食べたいと感じるはずだから食べたいものを食べていればよい」という怪しい説を信じながら、適当に食べたいと思ったものを食べる毎日を送っているけれど。
毎食これを食べていれば栄養的に完璧だという「完全食」のようなものがコンビニで手軽に売られるようになって、毎日それを食べていれば完全に健康的な食生活を送ることができる、という世の中が早く来ないものだろうか。そうしたら何を食べればいいか考えなくてよくて楽になるのに。
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