一故人

見上げてごらん夜の星を—2016年に亡くなった人々

2016年も各方面で大きな足跡を残した人々が亡くなった。「一故人」では、一見何のつながりもなさそうな物故者のあいだに共通点を見出しながら、それぞれの業績を振り返ってみたい。なお本記事のタイトルは、今年亡くなった永六輔氏の作詞家としての代表作から拝借したことをお断りしておく。

「昭和の終焉」の記憶—高井有一、千代の富士貢、藤森昭一ほか

「今日、昭和が終った」

高井有一(10/26・84歳。以下、カッコ内の日付は命日、年齢は享年を示す)の小説『時の潮』(2002年)はこんな一文で始まる。昭和一桁の生まれで、「内向の世代」と呼ばれた作家のひとりである高井のこの小説では、主人公が昭和天皇の崩御(1989年1月)を知る場面に始まり、さまざまな人々の昭和という時代に対する思いが描かれた。

2016年8月、今上天皇がテレビを通じて、退位を示唆する「お気持ち」を述べた。天皇の「生前退位」については、終戦後の1946年の皇室典範改正時にも、昭和天皇の末弟である三笠宮崇仁親王(10/27・100歳)が提言していたものの、きちんとした議論にはいたらなかった。

「お気持ち」では、天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ちいたった場合の国民生活への影響を懸念する言葉もあった。これは昭和天皇が1988年9月に危篤となってから崩御するまでのあいだ、日本を過剰ともいえるほどの自粛ムードが覆ったことを意識しての発言であったのだろう。タイのラーマ9世(別称プミポン・アドゥンヤデート。10/13・88歳)が逝去して追悼一色となった同国の雰囲気は、あのときの日本とやや似たものを感じさせた。

1988年の9月場所では、第58代横綱・千代の富士貢(7/31・61歳)が全勝優勝した。大の好角家で、千代の富士ファンと噂された昭和天皇は、ちょうどその場所の千秋楽の日、最初の危機状態から意識を取り戻し、「全勝か」と侍医らに訊ねたという。

病床の昭和天皇は1988年11月、大勢の国民が快癒を祈る記帳をしてくれたり、勲一等受章者の代表が見舞いの言葉を述べてくれたりしたことに礼を言ってもらいたいと、当時の宮内庁長官・藤森昭一(6/25・89歳)に伝えている。昭和改元の翌日(1926年12月26日)に生まれたことから「昭一」と名づけられた藤森は、奇しくも平成改元を経て昭和天皇の大喪の礼、今上天皇の即位の礼と皇室の各行事を取り仕切ることになった。

昭和天皇が危篤となったとき、隣国の韓国ではソウルオリンピックが開催中であった。このとき競技中継を担当したNHKアナウンサーの西田善夫(2/27・80歳)によれば、もし五輪会期中に天皇が崩御して、生中継から録画中継に切り替えた場合、放送のなかで崩御についてコメントするかどうか、アナウンサーや各スタッフのあいだで議論があったという。

テレビ時代が生んだアスリートたち—チャスラフスカ、アリ、クライフ、パーマー

2020年には東京でオリンピック・パラリンピックが予定されるが、開催まで4年と迫っても、各競技会場が予算の問題から再選定を余儀なくされるなど、議論が喧しい。そのさなか、五輪のメインスタジアムとなる新国立競技場の国際コンペで、いったんはそのデザイン案が採用されたイラク出身の建築家ザハ・ハディド(3/31・65歳)が急逝している。

前回、1964年の東京オリンピックで人気を集めた選手のひとりに、チェコスロバキア(現チェコ)の女子体操選手、ベラ・チャスラフスカ(8/30・74歳)がいる。東京で個人総合ほか3種目で優勝して「体操の名花」と呼ばれたチャスラフスカは、4年後のメキシコオリンピックでも4種目を制した。メキシコ五輪の直前、当時社会主義国だったチェコ国内は民主化運動に沸き(プラハの春)、改革を支持する「二千語宣言」にチャスラフスカも署名した。だが、運動がソ連の軍事介入で弾圧されたため、一時は五輪出場が危ぶまれた。

チャスラフスカと同じ1942年生まれで、五輪優勝(1960年・ローマ)の経験もあるプロボクサーのモハメド・アリ(6/3・74歳)もまた政治に翻弄された。ベトナム戦争のさなかの1967年、徴兵を拒否したために、世界ヘビー級チャンピオンのタイトルを剥奪されたのだ。アリが3年半のブランクを経て復帰したのち、アアフリカのザイール(現コンゴ民主共和国)のキンシャサでジョージ・フォアマンから王座を奪還したのは1974年のことだった。

同じく1974年のサッカーのワールドカップの決勝では、オランダが開催国の西ドイツと対戦した。惜しくも優勝は逃したが、中心選手だったヨハン・クライフ(3/24・68歳)はジャンピングボレーシュートなど華麗なプレイから「フライングダッチマン(空飛ぶオランダ人)」と呼ばれて脚光を浴びる。

1974年にはまた、ゴルフ界のスター選手、アメリカのアーノルド・パーマー(9/25・87歳)がゴルフ殿堂入りを果たしている。パーマーは攻撃的なプレイスタイルとカリスマから「アーニーズ・アーミー」と呼ばれる熱狂的ファンを生み、テレビ中継の視聴率も倍増させた。チャスラフスカ、アリ、クライフにしてもそうだが、その活躍が衛星中継を通じて世界に伝えられた彼らは、まさにテレビ時代が生んだスーパースターであった。

お茶の間の人気者たち—永六輔、大橋巨泉、小川宏ほか

タレントの大橋巨泉(7/12・82歳)は1976年、ゴルフのロサンゼルス・オープン50周年の記念大会に招待され、パーマーなどアメリカの名士たちとプレイしたことがある。巨泉は日本テレビのナイトショー『11PM』に1965年の番組開始まもなくより出演し、ゴルフのほか、競馬や麻雀などをとりあげ、日本人にレジャーの楽しさを伝えるのに一役買った。

60年代半ば、放送作家からタレントに転身した巨泉は、『11PM』をはじめバラエティ番組『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』(日本テレビ)やクイズ番組『お笑い頭の体操』(TBS)の司会で人気を獲得した。このうち『お笑い頭の体操』は、心理学者・多湖 あきら(3/6・90歳)による当時のベストセラー『頭の体操』(1966年。以後シリーズ化)からタイトルを拝借したものだ。

巨泉は1990年に「セミ・リタイア」を宣言、レギュラーをTBSの『ギミア・ぶれいく』1本に絞った。同番組内では、1コーナーとして藤子不二雄A原作の大人向けアニメ『笑ゥせぇるすまん』が放送され、大平透(4/12・86歳)が声をあてた主人公・喪黒福造の強烈なキャラクターもあいまって好評を博した。大平と同じくテレビアニメ草創期からの声優である肝付兼太(10/20・80歳)は、藤子不二雄A原作の『怪物くん』のドラキュラ役、藤子・F・不二雄原作の『ドラえもん』のスネ夫役など藤子アニメには欠かせない存在であった。

放送タレントの永六輔(7/7・83歳)は、同年代の巨泉よりひと足早く、戦後まもない中学時代からNHKのラジオ番組『日曜娯楽版』に政治風刺のコントを投稿する早熟な少年だった。のちには同番組に放送作家として携わるようになる。

永六輔がラジオに投稿を始めたころ、女性の放送ジャーナリストの草分けである秋山ちえ子(4/6・99歳)はすでにNHKで『婦人の時間』でレポーターを担当していた。秋山がこのあと1957年、開局まもないTBSラジオで開始した『昼の話題』(のち『秋山ちえ子の談話室』)は、2002年に終了するまで1万2512回を数える長寿番組となった。

テレビでは、フジテレビの朝のワイドショー『小川宏ショー』が1965年から82年の番組終了までに4451回を数え、個人名を冠したテレビ番組における世界最長寿(当時)を記録した。司会の小川宏(11/29・90歳)は元NHKのアナウンサーで、同番組開始当初、民放の雰囲気の違いにしばらく悩んだという。

放送作家・タレントのはかま満緒(2/16・78歳)も、永六輔や大橋巨泉と同じく草創期よりテレビ番組に携わった。クレージーキャッツや、伊藤ユミ(5/18・75歳)とその双子の姉・エミ(2012年没)によるデュオ、ザ・ピーナッツが出演して人気を集めたバラエティ番組『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ、1961~72年)にも、後期より作家として参加、自ら書いたコントにも出演している。

脚本家・演芸研究家の大西信行(1/10・86歳)は、テレビでは時代劇を中心に活躍した。大西は1969年より開始され長寿シリーズとなった『水戸黄門』(TBS)で、1970年からの第2部以降、2003年の第32部まで計149回分の脚本を担当している。

大西は旧制麻布中学(現・高校)出身で、俳優のフランキー堺・仲谷昇・小沢昭一・加藤武と同級生だった。このうち小沢(2012年没)や加藤(2015年没)とは終戦直後、そろって演芸研究家の正岡 いるる に弟子入りしている。同じ門下には、のちに落語家となる桂米朝(三代目。2015年没)もいた。

戦後、風前のともしびにあった上方落語を再興し、桂米朝・桂文枝(五代目)・笑福亭松鶴(六代目)とともに「上方落語の四天王」と呼ばれたのが桂春団治(三代目。1/9・85歳)である。豪快な芸と私生活で知られた初代、実父の二代目とも異なり、10数本に厳選した持ちネタを一つひとつ完璧に演じてみせる芸風で一時代を築いた。

芸術とコンピュータ—冨田勲、ブーレーズ、エーコほか

戦後まもなく、大学在学中よりNHKラジオで番組の音楽を手がけていた作曲家の冨田勲(5/5・84歳)は、テレビでも草創期から多くの仕事を残した。なかには『きょうの料理』のテーマ曲のように現在まで使われている作品もある。放送の仕事と並行して、1970年代には自前でアメリカからシンセサイザーを購入し、マニュアルのないなか演奏・作曲をマスターした冨田は、日本における電子音楽のパイオニアでもあった。

冨田勲がシンセサイザーで試行錯誤を続けていたころ、フランスでは作曲家・指揮者のピエール・ブーレーズ(1/5・90歳)が、ポンピドゥーセンターの国立音響音楽研究所(IRCAM)の初代所長として、巨大なコンピュータによる作曲を試みていた。

イタリアの記号論学者・美学者・小説家のウンベルト・エーコ(2/19・84歳)は、ブーレーズの『ピアノ・ソナタ第3番』(1955年~未完)を、作品の形を決めるため演奏者に介入が要求される作品の一つにあげている。エーコは音楽のみならず、20世紀の芸術において解釈者の介入が求められる作品群を、『開かれた作品』(1962年)と題する著書で積極的に評価した。

『開かれた作品』はもともと、アイルランドの小説家ジェイムズ・ジョイスへの関心を軸に書かれた。英文学者・翻訳家の柳瀬尚紀(7/30・73歳)は、ジョイス作品のなかでも言葉遊びが随所にちりばめられ、翻訳不可能といわれてきた『フィネガンズ・ウェイク』(1939年)を、同音異義語の多さなど日本語の特徴を活かしながら8年がかりで完訳している(1993年)。

柳瀬尚紀はワープロなしには『フィネガンズ・ウェイク』の翻訳は無理だったと語った。では、AI(人工知能)にジョイス作品の翻訳は可能だろうか。スマートフォンなどを介してAIが日常生活に定着するようになり、「AI元年」ともいわれた2016年だが、AIの語はもともとは1956年にアメリカの認知科学者・コンピュータ科学者のマーヴィン・ミンスキー(1/24・88歳)がジョン・マッカーシー(2011年没)らとともに初めて用いたものである。

エーコはインターネットの登場のおかげで「誰もが読むことを強いられる時代になった」と語った。たしかに、歴史上いまほど誰もがのべつまくなしに何かを読んでいる時代もないかもしれない。なお、このエーコの発言は『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』(2009年)という対談集に出てくるものだが、同書における彼の主張はそのタイトルに反し、紙の書物は滅びないという持論に終始している。

本の魅力にとりつかれたあげく、物を書く仕事に就いた人は少なくない。小説家の津島佑子(2/18・68歳)もそのひとりだ。津島が1歳のとき、父親の太宰治が亡くなり、母親は娘を文学から遠ざけようと家に小説を置かなかったという。だが、津島は母の意図に反し、小学校の図書室で本を借りては読みふけり、「隠れ文学少女」として育った。

国鉄・労組・連立政権—仁杉巌、山岸章、加藤紘一ほか

コンピュータは1950年代以降、各方面で導入された。1960年、日本の国鉄は、コンピュータによるオンライン情報システムの先駆けである座席予約システム「MARS(マルス)」を開発、東京の一部の駅に端末が設置された。以後も改良が進められたこのシステム開発を理論的にリードしたのが、国鉄技術研究所から東大教授に転じた情報工学者の穂坂衛(10/26・96歳)である。

座席予約システムや1964年開業の東海道新幹線など、技術開発でめざましい成果をあげた国鉄だが、やがて経営は悪化の一途をたどる。そのなかで経営側と国労(国鉄労働組合)など労働組合との対立が年々深まり、ストライキも頻発した。

もっとも公共企業体である国鉄の職員には法律上、ストライキ権は認められていなかった。この権利を要求するストライキ、いわゆる「スト権スト」もたびたび実施され、1975年には国鉄など官業の労組で組織される公労協(公共企業体等労働組合協議会)が8日間におよぶスト権ストを断行している。このとき公労協の代表幹事としてストライキの総指揮にあたったのが、国労本部書記長の富塚三夫(2/20・86歳)であった。同じく公労協の代表幹事であった全電通(全国電気通信労働組合)書記長の山岸章(4/10・86歳)は本来スト権ストには積極的に賛成ではなかったが、やると決まったからには徹底的にやって膿を出し切ろうと考え、強硬策に転じたという。

結局、スト権獲得はならないままストライキは終わる。スト権ストの際、自民党幹事長だった中曽根康弘は後年、首相となって国鉄の分割民営化を推進するが、そこには国鉄の経営再建とともに急進的労働組合の解体という思惑もあった。

1985年、中曽根首相は当時の国鉄総裁・仁杉巌(2015年12/25・100歳)を更迭する。表向きには仁杉が国鉄の分割民営化に非協力的であったことがその理由とされたが、じつは仁杉自身は分割民営化に賛成であったという。だが、国鉄上層部の反対は根強かった。「更迭」は民営化に協力したい仁杉が、反対派を道連れにして一掃するべく画策したというのが真相らしい。国鉄は1987年に分割民営化され、JRグループが発足した。ここにいたるまでに中曽根政権は国鉄内の労組を切り崩し、大勢を民営化支持で固めている。

1980年代後半は労働組合の再編が進められた時期でもある。1989年には、民間と官公庁の主な労働組合が結集して、日本最大の労組のナショナルセンターである連合(日本労働組合総連合会)が発足、会長に山岸章が就任した。

このあと山岸は「反自民・反共産」を旗印に政界再編を後押しし、細川護熙を首班とする非自民連立政権の発足(1993年)の立役者となる。細川内閣と、続く羽田孜内閣で厚生大臣を務めたのは、民社党委員長の大内啓伍(3/9・86歳)だった。

大内は、1994年の羽田内閣の組閣を前に、連立に参加したうち社会党を除く5党派による統一会派「改新」を結成する。これに反発した社会党は連立から離脱、羽田内閣がわずか2カ月で総辞職すると、今度は自民党・新党さきがけと連立を組み村山富市内閣を発足させる。

村山内閣、橋本龍太郎内閣と続いたいわゆる自社さ連立政権にあって、加藤紘一(9/9・77歳)は自民党の政務調査会長、幹事長を歴任し連立の要を担った。2000年、加藤は盟友の山崎拓とともに時の森喜朗内閣に反旗を翻し、野党の提出した内閣不信任案に同調しようとしたものの、時の自民党幹事長・野中広務らに阻まれ、断念を余儀なくされる。この「加藤の乱」のあと、加藤率いる「宏池会」は2つに分裂、そのうち反加藤グループは堀内光雄(5/17・86歳)を領袖とする堀内派(現・岸田派)を結成した。

衆院議員在職中に亡くなった鳩山邦夫(6/21・67歳)は、1976年に無所属で初当選したのち、自民党に入るも、先述の93年の政界再編以降、たびたび離党し、一時は兄・由紀夫(のち首相)らの結党した旧民主党で副代表も務めた。彼こそは、政治家が離合集散を繰り返したここ20余年の日本政治の状況を象徴する存在といえよう。

鳩山邦夫の祖父・鳩山一郎がソ連を訪れ、日ソ共同宣言に合意してから2016年で60年が経った。この宣言により日本とソ連は国交を回復したが、北方領土問題についてはいまだ棚上げされたままである。その経緯については、朝日新聞社で政治部長、論説主幹、主筆を歴任した若宮啓文(4/28・68歳)の遺著『ドキュメント 北方領土問題の内幕』にくわしい。ちょうどこの12月15日には安倍首相が地元・山口県下関にロシアのプーチン大統領を招いて会談が予定されるが、はたして領土問題に進展はあるのだろうか。

国土開発と地域振興—下河辺淳、平松守彦

2016年には、石原慎太郎の小説『天才』が呼び水となり、元首相・田中角栄について関連本の刊行があいつぐなど、あらためて脚光が当たった。

田中角栄が国土の均衡ある発展をめざし、首相就任時の1972年に『日本列島改造論』を掲げたことはよく知られる。これについては、1969年に経済企画庁で「第2次全国総合開発計画」(新全総)を立案した下河辺淳(8/13・92歳)が関与したものと長らくいわれていた。だが、実際に『日本列島改造論』を書いたのは通産省(現・経済産業省)の官僚やジャーナリストであり、下河辺はノータッチであったという。こうした誤解が生じたのは、彼が中央官庁の官僚として1962年から98年まで5次にわたる「全国総合開発計画」すべてに関与し、国土開発に大きな影響を与えていたからだろう。

下河辺は1974年に新設された国土庁で計画調整局長となった(のち事務次官)。のちの大分県知事・平松守彦(8/21・92歳)はこのとき、通産省から同庁に地方振興審議官として出向している。だが、平松はその翌年には、郷里の大分に戻って副知事となった。1979年から15年にわたる知事在任中には地域振興のため、市町村ごとに特産品をつくって売り出す「一村一品運動」などの施策を展開する。その精神は自主・自立であり、知事はセールスマンとしてPRには力を惜しまないが、県から補助金は一切出さないとの方針を貫いた。

東西冷戦とその終焉—カストロ、ワイダ、中村紘子

田中角栄を政治へと突き動かしたのは、農村と都市の格差であった。田中が衆院議員に初当選した1947年、カリブ海に浮かぶ島国キューバでは、農村の貧困を放置し、腐敗と不正が常態化した当時の政府に反抗する人々により人民党が結成される。若き日のフィデル・カストロ(11/25・90歳)もこれに参加、のち1959年のキューバ革命を主導する原点となった。

冷戦下にあってアメリカとソ連の両大国に翻弄されながら、人々が平等な国づくりをめざしたカストロだが、影の部分も持つ。1989年には、天安門事件で若者たちを弾圧した中国政府の立場を支持したほか、国民から英雄視されていた陸軍中将のオチョアを麻薬取引容疑などから逮捕、反逆罪で処刑している。こうした動きの背景には、当時ソ連でゴルバチョフの進めていた改革に対するカストロの焦りがあったともいわれる。

ソ連での改革の影響は、共産圏だった東ヨーロッパ諸国に広がり、1989年には各国で民主化が実現する。ビロード革命と呼ばれたチェコスロバキアの民主化運動では、前出のチャスラフスカもふたたび先頭に立った。いち早く民主化がなったポーランドでは、1950年代より映画監督のアンジェイ・ワイダ(10/9・90歳)がソ連圧政下での社会矛盾を突く作品を発表し続けていた。ワイダは1980年代に同国の民主化運動を主導した自主管理労組「連帯」を支持、のち2013年には連帯のリーダーで民主化後に大統領となったワレサの伝記映画も制作している。

ピアニストの中村紘子(7/26・72歳)は、1982年と1986年にソ連のチャイコフスキー国際コンクール・ピアノ部門の審査員を務めた際の見聞から『チャイコフスキー・コンクール』(1988年)を著し、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。同書は音楽の世界を通して冷戦末期の国際情勢を浮き彫りにしたルポルタージュとも読める。

ロック界のレジェンドたち—ボウイ、プリンス、マーティンほか

イギリスのミュージシャンのデヴィッド・ボウイ(1/10・69歳)は1987年、冷戦下にあって東西に分断されたドイツの象徴だったベルリンの壁の西側でコンサートを行なっている。このとき、一部のスピーカーは壁の向こう側の東側に向けられ、東ベルリン市民もボウイの音楽に熱狂した。壁が崩壊したのはこの2年後のこと。ボウイ死去に際し、ドイツ外務省は「壁の崩壊に力を貸してくれて、ありがとう」とのメッセージを寄せた。

ボウイは、さまざまな音楽の要素を採り入れながら自らの作品をつくりあげた。この点は、アメリカのミュージシャンのプリンス(4/21・57歳)も共通する。プリンスの作品のストックは未発表曲も含め膨大で、彼はそれらを大胆にアレンジすることもいとわなかった。

2016年にはこのほかにもロック史に名を残すミュージシャンがあいついで死去した。70年代のアメリカのウエストコーストロックの代表的バンド「イーグルス」のグレン・フライ(1/18・67歳)、60年代後半に米サンフランシスコで花開いたヒッピーカルチャーを代表するバンド「ジェファーソン・エアプレーン」のポール・カントナー(1/28・74歳)、1969年に米シカゴでダンスミュージックバンド「アース・ウインド&ファイアー」を結成したモーリス・ホワイト(2/3・74歳)、さらに1970年にイギリスで結成されたプログレッシブロックバンド「エマーソン・レイク&パーマー」のメンバー3人のうちキース・エマーソンが自殺したのに続き(3/10・71歳)、グレッグ・レイクもがん闘病の末に亡くなっている(12/7・69歳)。また、イギリスの音楽プロデューサー、ジョージ・マーティン(3/8・90歳)は、ビートルズを世に送り出し、「5人目のビートルズ」とも呼ばれた。

2016年10月、ノーベル文学賞にアメリカのシンガーソングライター、ボブ・ディランが選ばれて賛否両論を呼んだ。カナダ出身の歌手・詩人・小説家のレナード・コーエン(11/7・82歳)は、学生時代に「カナダのディランになりたい」と語ったというほどディランに強い影響を受けたひとりだ。詩集や小説も多数発表して自身もノーベル賞の呼び声が高かったコーエンだが、ディランの授賞決定に際して、「それはエベレストの頂上にメダルを飾るようなもの」と称賛を送っている。亡くなる前月のことであった。

小劇場から商業演劇の世界へ—オールビー、蜷川幸雄ほか

イギリスの劇作家ピーター・シャファー(シェイファー。6/6・90歳)が戯曲『アマデウス』(1979年)で描き出した作曲家のモーツァルトは、まるでパンクロックのミュージシャンのような身なりで下品な話に興じるなど、従来の天才のイメージを破壊して物議をかもした。同作はのち1984年には映画化もされ、シャファーが自ら脚色し、音楽をイギリスの指揮者ネヴィル・マリナー(10/2・92歳)が担当している。

『アマデウス』はニューヨークのブロードウェイでも上演された。アメリカの演劇の聖地であるブロードウェイだが、かつて1950年代後半には上演コストの高騰から停滞した時期がある。これに代わって隆盛したのが、オフ・ブロードウェイと呼ばれる一群の小劇場で、新人作家による実験的な作品があいついで上演された。戯曲『動物園物語』(1960年)でデビューしたエドワード・オールビー(9/16・88歳)は、この時期のオフ・ブロードウェイから輩出された代表的な劇作家である。オールビーはその後、『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない』(1962年)でブロードウェイの商業演劇に進出した。

現代人のコミュニケーションの問題をとりあげた点で、オールビーの初期作品と演出家・蜷川幸雄(5/12・80歳)の事実上のデビュー作となった『真情あふるる軽薄さ』(1969年)は共通する。蜷川もまた、1970年代に入って小劇場から商業演劇に進出した。

もともと俳優として演劇界に入った蜷川は、演出の仕事を始めてからもテレビドラマや映画にたびたび出演している。あるとき、刑事ドラマで共演した俳優の平幹二朗(10/22・82歳)から「一緒に仕事がしたい」と言われたのが馴れ初めで、70年代後半以降、蜷川は平を何度も自分の演出する舞台に起用する。なかでもギリシャ悲劇を下敷きとした『王女メディア』は1983年、蜷川初の海外上演作品となり、各国で高い評価を受けた。

女性たちの闘い—保田道世、田部井淳子、雨宮まみほか

2010年、蜷川幸雄らとともに日本史学者の脇田晴子(9/27・82歳)が文化勲章を受章した。中世商業史・都市史を専門とした脇田は、従来、政略結婚の犠牲など暗いイメージを持たれがちだった中世の女性像をくつがえし、当時の女性たちが階層にかかわらず生き生きと活動していたことを史料からあきらかにした。

スタジオジブリのアニメーターの保田道世(10/5・77歳)は、宮崎駿監督の劇場アニメ『もののけ姫』(1997年)を手がけるにあたり、舞台となる室町時代について調べてみて、この時代の女性たちが活発であることに気づいた。アニメにおける色彩設計の第一人者であった保田は、同作のヒロイン・サンの顔に入れ墨のように描かれた模様の色を、その気性の激しいキャラクターを表すべくエンジに決めたという。

保田は1960年代、東映動画(現・東映アニメーション)で高畑勲と宮崎駿と知り合ったが、その後、いったん袂を分かった。それがふたたび一緒に仕事をするようになったのは、同僚との事実婚を機に、「これからの女性が生き生きと暮らしてゆくには、どうしたらいいのか」と考えたことがきっかけだったという(柴口育子『アニメーションの色職人』)。このとき高畑と宮崎が手がけていたテレビアニメ『アルプスの少女ハイジ』(1974年)に心を惹かれた保田は、二人のいたズイヨー映像(現・日本アニメーション)に移る。以降、スタジオジブリ設立後も彼らの作品づくりを職人として支え続けた。なお、ジブリでは保田とともに制作で重要な役割を担ったアニメーターの二木真希子も亡くなっている(5/13・58歳)。

保田道世が会社を移ったころ、登山家の田部井淳子(10/20・77歳)は女性だけでのエベレスト登頂を実現するべく、企業をまわって寄付を募っていた。だが、石油危機直後の不況下ということもあり、なかなか応じてくれる企業は現れず、「女だけでエベレストなんてできるわけがない」「そんなことより家庭を守り、子供をしっかり育てなさい」とよく言われたという。そうした壁を乗り越えながら、田部井を副隊長とする日本女子登山隊は1975年、女性では世界で初めてエベレスト登頂に成功した。

2016年には、匿名ブログに端を発して待機児童の問題があらためて議論されるなど、1年を通して子育てや女性を取り巻く環境の見直しを迫るできごとがあいついだ。AV女優を引退後、性に関する啓発活動を展開していた紅音ほたる(8/15・32歳)が急逝したのは、そのさなかのことだった。ライターの雨宮まみ(11/15・40歳)は、「かわいい女」「キレイな女」になれないと思いこみ、煩悶する自身について自伝的エッセイ『女子をこじらせて』(2011年)につづった。これをきっかけに「こじらせ女子」の語が生まれ、世に広まる。雨宮本人は「こじらせ女子」から脱却して新たな境地を拓きつつあっただけに、突然の死が惜しまれる。

さて、ここまでとりあげてきた人のうち、最後まで自分のスタイルやスピリットを押し通せた人物はどのぐらいいるだろうか。たとえば、永六輔にせよ大橋巨泉にせよ、「どうせこの世は冗談」をスピリットに生きてきたにもかかわらず、晩年になって反戦の思いをことあるたびに語るようになった。これについて「冗談を言っている余裕がなくなった時代になったから、最後に本音が出た」と、二人と同世代で同じく放送作家出身の小説家・五木寛之は評している(『朝日新聞』2016年8月19日付)

なぜ、「冗談を言っている余裕」が世の中から失われたのか? 政治や経済にも問題はあろうが、人々が互いに監視しあうような社会の風潮も大きいのではないか。SNSの普及後、その傾向はますます加速しつつあるような気がしてならない。

ラグビーの神戸製鋼コベルコスティーラーズの主力選手として日本選手権7連覇に貢献した平尾誠二(10/20・53歳)は、日本代表監督に就任した1997年、「これからは、いろんなものが変化してきている中で、基準は個人の幸せとか、個人の生活になってくる、と僕は思う」とインタビューで語っていた(毎日新聞大阪本社運動部編『男たちの伝説 神戸製鋼ラグビー部』)。それから20年近くが経ち、個人はどれだけ尊重されるようになっただろうか。思えば、ここにあげた物故者のなかには、個人が軽んじられる状況に置かれながら奮闘を続けた人も少なくない。そこから私たちが学ぶことは多いはずだ。人々がもっと互いを個人として尊重したのなら、きっと「冗談を言っている余裕」も取り戻されるに違いない。

最後に、ここまであげた人たちにあらためて哀悼の意を表したところで、擱筆としたい。

イラスト:たかやまふゆこ

ケイクス

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一故人

近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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コメント

oyamakumao 毎年恒例の近藤さんの名人芸。今年は芸にとどまらない部分が最後に出ていてグッときた。 約1時間前 replyretweetfavorite

nijimu こういった人たちが世の中を彩っていたんだ、と感じさせる良記事だと思います。ありがとうございます。 - 約4時間前 replyretweetfavorite

consaba 「最後まで自分のスタイルやスピリットを押し通せた人物はどのぐらいいるだろうか。」 約5時間前 replyretweetfavorite