祖父は人を殺していないと思う。
ルネおじいちゃんを前にしながら、私は亡き祖父に想いを馳せた。昭和8年生まれの祖父は、第二次世界大戦当時、まだ少年だった。戦争体験を語ってくれたことは、私の記憶にある限り、ただ一度きりである。
その朝、祖父はNHKの連続テレビ小説を見ていた。私はまだ8歳くらいの子どもで、よく意味が分からないままテレビ画面を眺めていた。どこかの学校の校庭が映し出され、子どもが車輪のようなものの中で手足を突っ張ってぐるんぐるん転がっていくシーンになった。
私は、ハムスターみたいだな、と思った。昭和の子どもたちは、人間用の回し車で遊んでいたんだろうか、と。
「おじいちゃんもヨカレンであれをやったんだぞ」
急に、祖父が画面を指さした。
ヨカレン?
意味がわからないなと思っている間に、回し車に入った子どもは画面の外へ転がっていってしまった。場面が切り替わり、厳しそうなおじさん俳優の顔が大写しになった。ヨカレンって何、とは言い出せなくて、私はそのよくわからない言葉を頭の中で「よか連」という文字に変えた。
「すごいね」
とりあえず私がそう言うと、祖父は、ふすん、と鼻息をもらした。祖父のほうに目をやったが、しかし祖父は私でなくテレビを見ていた。そして緑茶を飲み干すと、急須のふたを取り、またテレビを凝視しながらお茶っ葉の出涸らしを箸で食べた。
祖父は決して食べ物を残さなかった。メザシの苦い頭、舌に刺さる甘海老のしっぽ、魚の臭いを吸った刺身のツマ、もそもそと口に残る焼き芋の皮。そういったものまで祖父は残さず食べたし、孫の私にも食べるよう言い聞かせた。ここにも栄養があるんだぞ、もったいない、と。
「“よか連”ってなに」
祖父が仕事に出てしまってから、私は母にそう聞いた。祖父は書道家で、自宅の敷地内に離れを持っていた。祖父が離れに続く金属の階段を登っていく重い足音が、どん、どん、どん、どん、と窓の外に聞こえていた。
「ヨカレン?」
「おじいちゃんがNHKのドラマを見ながら、ヨカレンって言ってたの」
「ああ、予科練か。戦争の訓練をするところのことだよ」
私の口の中に、焼き芋の皮の舌触りが広がった。おじいちゃんに聞かなくてよかった、と思った。私にとって、戦争、というのはお説教でしかなかったのだ。
みんな食べ物がなくて、さつまいもの茎まで食べたのよ。
(だから食べ物を大事にしなさい)
子ども達は戦争で疎開に出され、落ち着いて勉強することもできなかったんだ。
(だからしっかり勉強しなさい)
まだ二十歳にもならないような若者たちが、特攻隊で大勢亡くなりました。
(だから命を大事にしなさい)……
戦争放棄、とか、非核三原則、とか、社会のテストに書くときの鉛筆のにおい。赤ペンで丸をつけられるから、算数や理科や国語のテストと同じように点数をつけられるから、私は四百字詰め原稿用紙を大人の期待通りに埋めていく。
「戦争はいけないと思いました。平和を守らなければいけないと思いました」
先生が教える通り、右手で鉛筆を正しく持って右側から縦書きで作文を書いていくと、鉛筆の粉がこすれて右手の小指側が黒くなる。私はそれが嫌いだった。黒く汚れる手も含め、大人の言うとおりにしなければならない子どもでいることが嫌でたまらなかった。
ヨカレンのまま実戦を交わさずに終戦を迎えた祖父は、晩年を書道ひとすじに捧げ、いつも黒い墨の匂いをまとっていた。やがてガンを患い、もう二度とベッドから出られることはないと知っても、祖父は右手人差し指を筆がわりにして左手の手のひらになにか書いていた。その光景が忘れられない。
祖父の手は、書く手だった。
つめたく硬直して、棺に眠る祖父の手は、白木の蓋の下に隠れ、見えなくなった。身体のどの部分ともしれない骨を拾いながら、私は、あの手が燃やされて消えてしまったのだ、という事実を受け止めかねていた。
もう二度と焼き芋の皮を無理矢理食べさせられることはない。
もう永遠にヨカレンの話が聞けることもない。
お説教を嫌ったのは私自身だったはずなのに、失ってみると、寂しくて寂しくてしかたがなかった。
あの手は、もう、この世にはない。
ふと、ルネおじいちゃんの手が動いた。
その手がつかんだナプキンの、品のよい金と緑に、清潔な白。そしてなにより、ルネおじいちゃんのその手の、血色の良さと力強さ。私は息を吸い込んだ。ワインとコロンとパイプの煙草が香り、一気に今に引き戻される。
食事の時に使うナプキンのことを、フランスではセルヴィエットと呼ぶ。いかにも高級そうなセルヴィエットで、遠慮なくミラベルの実のコンフィチュールを拭き取ると、ルネおじいちゃんの手はそれをくるりと結んで皿の横に置く。結んだセルヴィエットは、洗濯をたのむ、とお手伝いさんに伝えるしるしだ。
「Alors, ma belle ?(どうかな? 私の美しい人よ)」
日本語にしたら気恥ずかしくなるようなフランス語で、ルネおじいちゃんはかたわらのルネおばあちゃんを気遣った。ルネおじいちゃんが語る間、ルネおばあちゃんは話の腰を折らないようにと、口をはさむのを我慢している。普段は「Tiens, écoute(ねえ、聞いて)!」が口ぐせの、おしゃべり好きなルネおばあちゃんが、何時間も我慢してひたすら聴くというのは、確かにくたびれることだろう。
私はお礼を言って、また日をあらためることにした。母方の祖父も父方の祖父も亡くした私が、共に生きる女性と結ばれたことで、また「おじいちゃん」と呼べる人と出会えたことをありがたく感慨深く思った。
「Papi(おじいちゃん)」
そう呼びかけると、ルネおじいちゃんは私を腕に抱き、頬の横でキスのような音をさせるフランスの挨拶“ビズビズ”をした。いかにもフランス的だった。それから、背中をとんと叩いてくれた。ルネおじいちゃんの手の感触が、私の背中にあたたかく残った。
——それは、生き残るためでしたか。それとも、殺すためでしたか。
背中をとんと叩かれて、飲み込んだままの問いかけが喉元まで出かかった。
戦争の学校・PMSに、武装解除拒否、ナチスドイツ軍包囲網突破作戦、レジスタンスとしての武器輸送、そして、パリ解放のための決戦。
わかっている。そうしたことを乗り越えてきたルネおじいちゃんの手が、人を殺していないわけはないのだ。わかってはいるのに、やはり恐い。決戦の話を聞くのが恐い。
憎しみに駆られ、無抵抗のナチスドイツ兵を殺そうとする部下を、ルネおじいちゃんが止めた理由は「国際法」だと言っていた。ドイツ人は敵だった、日本人も敵だった、そして、人を撃つことは「なんとも思っていなかった」……そう、ルネおじいちゃんは過去形で答えた。
ルネおじいちゃんの手を思い浮かべている。
私に触れた、あのあたたかい、ルネおじいちゃんの手を思い浮かべている。
あの手が銃をとったのは、生き残るためだったのだろうか。
それとも、殺すためだったのだろうか。
「Salauds de Boches(うすのろドイツ野郎)!」
若き日のルネおじいちゃんが叫ぶのを聞いた気がした。
“わるいナチスドイツに負けずに、ユダヤ人を助け、フランスの自由を取り戻したやさしいルネおじいちゃん”
頭の中のクレヨンで、私はやさしいルネおじいちゃん像を描く。けれど、その手を、その青い瞳を描き出すとき、私のパステルカラーな妄想はあまりにもリアルな色彩となって私に迫りくる。
——ヨカレンってなあに。
あの日に飲みこんでしまった質問が、もう私の祖父には——おじいちゃんには永遠に届かなくなったことを私は思い起こす。喉の奥で言葉がわだかまる。
——それは、生き残るためでしたか。それとも、殺すためでしたか。
飲みこんだままの質問を胸に、私は、ルネおじいちゃんのパリ解放決戦についてあらためて聞きに行く決意を固めようとしていた。あまたの映画や小説や歴史本や教科書で語られる、1944年8月、パリ解放(リベラシオン)の10日間を、白黒フィルムでも文字の羅列でもなく、ルネおじいちゃんの話として聞ける時間のどれだけ貴重なことか。
パリのメトロ6番線が、線路を駆けのぼり、地上に顔を出した。車窓から街並みを眺めていると、やがてエッフェル塔が見えてきた。ふと、乗客たちのほうに視線を戻す。いかにもパリというエッフェル塔を、黒い肌の青年が見やり、金髪巻き毛の少女が指さし、日本人のバックパッカーが「やべぇ!」とばかりにスマホで撮っている。
あの塔のふもとを、ヒトラーが歩いたのだ。
次回、『ナチスドイツ軍が焼き払った秘密資料』は12月20日(火)更新。
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