この世界の片隅に』 生活はしぶとく続く

片渕須直監督のアニメーション作品『この世界の片隅に』に対して、公開直後から称賛の声が相次いでいます。なぜ、ここまで話題を呼び、高い評価を得ているのか? 「およそ120分の祝祭」でも、本作の魅力と見どころを論じます。

試写の段階から高い評価が続出し、公開後は熱狂的な反応を巻き起こしつつあるアニメーション作品が、片渕須直監督『この世界の片隅に』である。映画そのものの質の高さに加えて、クラウドファンディングによる製作資金の一部調達、能年玲奈(のん)の声優起用など話題性もあり、都内の劇場は平日も満席が連続。今後、上映館は拡大してく予定だという。

先の大戦を題材にしつつ、ステレオタイプな反戦の訴えかけに陥ることなく、市井の人びとの日常生活を緻密に描いた本作は、全編が豊かな驚きに満ちている。過去の地図や資料、聞き取りを元に、当時の広島市、呉市を完璧に再現した劇中の街並みにも注目したい。今後、終戦記念日には毎年テレビ放映してほしいと切望したくなる優れたフィルムだ。昭和8年12月の広島市から始まる物語は、主人公の成長、太平洋戦争への突入、結婚と呉市への転居といったエピソードを描きつつ、昭和20年8月の原爆投下へ向かって進んでいく。

主人公の浦野すず(結婚後の姓は北條)は、おっとりとした口調や従順な性格が特徴である。趣味は絵を描くこと。まるで自己主張がなく、厳しい兄や義姉にどやしつけられても、どこ吹く風といった表情で佇んでいる。瀬戸内の海を描いた彼女が、白い波をうさぎに見立てて耳としっぽをつけくわえる場面は、主人公の無垢な視点を示す印象的なモチーフだ。

なぜ彼女はこのように美しい絵が描けるのか。人はみな、年齢を重ねると共にイノセンスを失っていくほかない。しかし彼女は何かの拍子で、そのたぐいまれなる無垢を保ち続けていられるのだ。すずは世界をつぶさに観察する。その純粋さゆえに、時には座敷わらしやバケモノとすら言葉を交わせるほどだ。手帳を取り出し、鉛筆を動かすとき、彼女の見た世界はいきいきと再現される。草花や動物を、呉の段々畑から眺めた風景を、彼女は自由にスケッチしていく。すずの描く絵は、どれほど強力な為政者にも決して蹂躙しえない聖域のようである。

劇中、ほぼ面識のない男性から求婚された主人公は、この唐突な縁談をすんなり承諾し、相手の名字すら知らないまま呉市へ嫁いでいくこととなる。物語の中心人物にしては、あまりに主体性に欠けていないかと気を揉むが、彼女はあいかわらずのんびりした態度で、呉市での生活を始める。新しい環境にも慣れ始めた主人公だが、開戦と共に暮らしは厳しくなる。配給される食料も日に日に減っていき、しまいには道に生えている雑草を煮て食べるほかなくなってしまう。

かかる困窮にもかかわらず、工夫を凝らした料理場面は実に楽しく、胸躍るシーンでもある。ここには生活がある。米を研ぎ、洗濯をする。裁縫をし、防空壕を作り、農作業をする。昭和19年に、人びとはこれほど手を動かしながら生活していたのだと再確認させられる描写の連続である。

生活を営むことの厳しさ、美しさ、優雅さ。空襲で爆弾が落とされたからといって、食事の準備をしないわけにはいかない。人びとの暮らしはしぶとく続いていく。やわらかいタッチのアニメーションで描かれる生活の重みに、しばし唖然としてしまった。

戦況が悪化するにつれ、軍事工場のある呉市には空襲が絶えなくなる。爆弾や焼夷弾の降ってくる毎日は、誰よりもほがらかだった主人公を、重苦しい沈黙の女性へと変えてしまう。戦争は人を無垢なままではおかない。目に止まった風景を好きなようにスケッチしながら自由にすごせたら、どれほど楽しかったか。あれほど機嫌のよかった主人公から、明るい表情とのんびりした時間を奪っていくのが戦争なのだ。

物語後半、すずが家の庭先に迷い込んだ白鷺を追う場面は、何やら白昼夢のようである。彼女が失った無垢と自由そのもののように白く美しい鷺を追って、夢中で駆け出す姿のすばらしさ。「そっちへずうっと逃げ! 山を 山を越えたら広島じゃ」*1。そして観客は、米軍の機銃掃射を逃れ、優雅に飛び去っていく白鷺の姿を奇跡のように感じ、ただ言葉を失うのである。

1 こうの史代『この世界の片隅に』(下)/双葉社 p66

『この世界の片隅に』
公開日:2016年11月12日
劇場:全国ロードショー
監督:片渕須直
出演:のん/細谷佳正/稲葉菜月/尾身美詞/小野大輔/潘めぐみ/岩井七世/牛山茂/新谷真弓
配給:東京テアトル
©こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

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およそ120分の祝祭 最新映画レビュー

伊藤聡

誰しもが名前は知っているようなメジャーな映画について、その意外な一面や思わぬ楽しみ方を綴る「およそ120分の祝祭」。ポップコーンへ手をのばしながらスクリーンに目をこらす――そんな幸福な気分で味わってほしい、ブロガーの伊藤聡さんによる連...もっと読む

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