『週刊文春』2016年10月27日号の報道によれば、三浦弘行九段が、将棋ソフトが示す指し手を参考にしていたのではないか、と疑われているのは、以下の4局である。
・久保利明九段戦(7月26日、竜王戦決勝トーナメント準決勝)
・丸山忠久九段戦(8月26日、竜王戦挑戦者決定戦三番勝負第2局)
・丸山忠久九段戦(9月8日、竜王戦挑戦者決定戦三番勝負第3局)
・渡辺 明竜王戦(10月3日、A級順位戦4回戦)
対局者の姿を、盤側で見つめていた観戦記者は、どう感じたか。竜王戦挑決第2局▲三浦-△丸山戦を担当した、藤田麻衣子さんに話を聞いた。
(元女流棋士であり、デザイナー、観戦記者など、多方面で活躍する藤田さん)
私にしては珍しく、観戦記は掲載される日までに、全部書きました。[編注:藤田さんは締め切りギリギリまで推敲を続けるライターとして知られる]
それまで(三浦九段が「ソフト指し」の不正を疑われていることは)全然知らなかったです。(第2局は大差で、盤上の変化を詳しく書く代わりに)七番勝負で金属探知機で通信機器をチェックする話を書いたりしました。
観戦記を掲載されないと担当者から伝えられたのは(10月12日、将棋連盟による、三浦九段の竜王戦不出場の)発表の直前です。観戦記を掲載しないのは、重い事態だということです。観戦記は五輪があっても何があっても掲載が無くならない、だから心して書くように、と昔ある記者に言われたことがあります。前例がないことが起こったんだ、一体何があったのだろうかと発表を注目して待ちました。ところが身構えた割には、曖昧な発表でした。挑戦者が変更になったとしても、七番勝負第1局の第1譜で説明してもよかったはず。経緯を無かったことにした理由は未だにわかりません。この騒動がどう決着しても、指した将棋がなかったことになり、両対局者が精魂込めて戦った様子を発表できなかったことに関して、とても残念に思います。
盤側で見た記憶と、当時のメモを振り返りました。対局は8月末で、三浦先生は残暑が厳しいのにひざかけをして、ウールのセーター。丸山先生も出前を二人前頼むなど、いつも通り普通じゃなかった。対局者は一般の人から見たら、言葉は悪いですが、みなさん挙動不審と言ってもいいと思います。対局に臨む心境はとても非日常なもので、なりふり構っていられません。
対局者が席を立つのもいつものことで、自分の手番でもよくあることです。私はむしろ、丸山先生の離席が多いと、メモに書いていました。というのも対局は途中からは大差(三浦よし)で、丸山先生はあまり盤上に気が入ってなかったように見えたからです。控室も検討を打ち切るほどの局面でしたが、三浦先生は最後まで時間を使って考え、時に空を見つめたり、没頭している様子でした。手にした魔法瓶をそのままにしたまま、考えが閃いたのか固まった様子もありました。
感想戦も、不自然さは感じませんでした。(帰る際に、わざわざ追いかけてきて)今ので大丈夫ですか?わからないことがもしあれば、何日は空いているので、連絡してもらえますか、と、言われました。電話では、こちらが聞いてない変化まで、丁寧に教えてもらいました。
(電話では)竜王戦七番勝負で観戦記を担当するのは、いつなのか、ということを尋ねられました。私が「第6局です」というと、「うわっ、そうですか。(早々に負けて第6局が開催されなくならないように)がんばらなきゃ」と笑っておっしゃっていました。明るく快活な様子から、一変した今の状況に驚いています。
(三浦九段の不正疑惑については)ひとりの棋士生命がかかっていることですし、もっといえばプロアマ問わず将棋を志す人全てが最も大切にしていた将棋の良いところ、誇りが揺らぐ非常事態です。ですので状況証拠ばかりでは棋士もファンの方も誰も納得できないと思います。棋士同士はライバルですが、戦う者同士の絆や信頼感が根底にあるのではと思っていました。それが崩れて、話し合いができない状況となっているのが悲しいです。
今回の真偽はわかりませんが、丸山先生のコメントは、対局者同士の絆を感じてどこかほっとするものがありました。[編注:丸山九段は「三浦九段との対局で不審に思うことはなかった」(朝日新聞)、「発端から経緯に至るまで(連盟の対応は)疑問だらけです」(報知新聞)とコメントしている]
どうするのが正着なのか全くわからないのですが、勝手な意見を言えば、将棋指しなのだから、正々堂々、盤上で決着をつけるというわけにはいかないでしょうか。ここからでも、渡辺-三浦の七番勝負が見たいです。お互いに疑念を払拭するには、戦うしかないのでは。(ネット中継では)金属探知機でチェックする様子から伝えて、不正が絶対ない環境にして。一番大きな舞台でそれを証明して欲しい。逆に将棋界のクリーンさをアピールする機会になるのではないでしょうか。
(10月23日・談)
(将棋のネット中継草創期、記者として活躍していた藤田さん)