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未開の地「蝦夷地」だった頃から紐解く、北海道の歴史

日本の歴史の中でも、北海道と沖縄は南北離れているせいか、歴史の歩みも異なります。今回は北海道にスポットライトを当て、どのような歴史を歩んできたのか、なぜ本土と違う発展の仕方をしたのか見ていきたいと思います。

未開の地「蝦夷地」としての北海道

未開の地「蝦夷地」としての北海道

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北海道はかつて蝦夷地と呼ばれた未開の地でした。数万年前の氷河期に人類が定住し始めましたが、気候などの関係もあってか、弥生文化の稲作が広がりませんでした。この先住民がアイヌです。

アイヌは徐々に和人(本州以南の日本人)と交易を開始し、狩猟や農業・漁業を行うアイヌ文化を作り上げました。日本書紀には、北海道は「渡島」として記載されています。

 

室町・戦国時代になると、本土から和人が流入してきましたが、やがてアイヌと対立してしまいます。その中でコシャマインの戦いなど和人対アイヌの戦いが起こりますが、アイヌがすべて負けてしまうことになりました。

アイヌに勝った人物武田信弘は蠣崎氏を継ぎ、後に松前氏へと改名します。そして1604年に松前慶宏が松前藩を創設したのです。

藩はアイヌとの交易を積極的に行いましたが、利益独占のために関所を設け、アイヌに松前藩以外との交易を禁じました。このため、なかなか本土の文化が浸透していかなかったと思われます。

 

ただ、江戸時代後期になるとロシア人が来訪し日本に接触を図りました。幕府は鎖国を維持するために、間宮林蔵や伊能忠敬らに蝦夷地を探検させています。

蝦夷地から「北海道」へ!

蝦夷地から「北海道」へ!

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しかし鎖国も長くは続かず、ペリーが来航した後の1854年に日米和親条約が結ばれ、箱館港が開港されました。これによって欧米人が渡来し、洋館や教会などが建てられ、西洋文化が流入したのです。1869年には名前を函館と改めました。

 

ところが、榎本武揚らの旧幕府軍が函館の五稜郭に立て籠もり、戊辰戦争の激戦「箱館戦争」が行われました。ここで新選組副長の土方歳三も戦死しています。

旧幕府軍の降伏後、蝦夷地はここでようやく「北海道」となりました。北海道開拓使が設置され、11国86郡が置かれます。1882年には函館県・札幌県・根室県となり、1886年には北海道庁が置かれることになりました。

 

ところで、北海道の名前の由来をご存知でしょうか。

当時、蝦夷地を探検しアイヌと交流のあった松浦武四郎が提案した6つの名前のうち、「北加伊道」を採用し、律令制時代の五畿七道に基づき、東海道や南海道、西海道にならって「北海道」としたのだそうです。

なお、武四郎の建白書によると、アイヌが自らを「カイ」と名乗っており、「蝦夷」は「カイ」と読んだために「北加伊道」としたということですが、諸説あるようですね。

北海道を開拓した屯田兵

北海道を開拓した屯田兵

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北海道開拓使が置かれると、北海道には多くの人々が移り住むようになりました。これには明治政府の方針もあり、まだまだ未開の地だった北海道の開拓と警備、それに加えて明治維新で失業した士族の救済措置という意味合いがありました。

このようにして移住してきた人々が、屯田兵です。彼らの家族も共に移り住み、第1陣は札幌郡琴似村に入りました。山形・宮城・青森から約970人がやって来たそうです。

 

しかし屯田兵の生活はとても厳しいものでした。極寒の北海道だというのに、粗末な家には暖房はありません。毎日のように荒れた土地を開墾し、兵役としての軍事訓練もこなしたのです。そのため、屯田兵は時に遠くの地へ兵隊として派遣されました。西南戦争、日清戦争、日露戦争にも参加しています。

 

1904年の屯田兵終了まで、37の屯田兵村が北海道に設置され、約4万人が入植しました。

非常に厳しい労働ではありましたが、このおかげで北海道が開拓され、後の発展につながったといっても過言ではありません。本土からやって来た人々は、多くが北陸・東北の出身でした。彼らによって、さらに奥地へと文化が浸透し、北海道文化の基礎ができていったわけですね。

北海道開拓のために-札幌農学校、そして網走刑務所

北海道開拓のために-札幌農学校、そして網走刑務所

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同じく、北海道の黎明期に重要な役割を果たしたのが、札幌農学校です。

1872年、北海道開拓の人材育成を目指して東京に開拓使仮学校が設立されました。1875年に屯田兵が北海道に入植し、開拓使仮学校も札幌へ移転することになります。これが札幌農学校(後の北海道大学)です。屯田兵が入職する前に札幌本府の建設が始まっていましたが、この時札幌に住んでいた和人家族はわずか2家族だったそうです。いかに未開の地だったかがわかりますね。

 

札幌農学校は、日本初の学士号を授与したことでも有名です。また、札幌の人気ナンバーワン観光スポットの札幌市時計台や北海道大学植物園は、現在のキャンパスに大学が移る前の貴重な建物です。

 

農学校には、マサチューセッツ農科大学で学長を務めていたウィリアム・スミス・クラークが教頭として招かれました。彼の教えを受けた人物には新渡戸稲造や内村鑑三などがおり、多くの優秀な人材が輩出されたのです。

そして、あの名言「Boys Be Ambitious(少年よ大志を抱け)」が生まれたのですね。この言葉が刻まれたクラーク像は、さっぽろ羊ヶ丘展望台に設置されています。

 

 

また、北海道開拓に必要な労働力を囚人で補うことが考え出されました。

1881年に囚人を労働力とする集治監が設置され、1890年に釧路集治監から網走へと囚人を移動させ、網走刑務所が開設されたのです。発足当初、囚人は重罪人ばかりでした。

彼らは北海道のインフラ整備のための労働力となりましたが、その環境は過酷だったそうです。1894年には囚人使役が二重の刑罰ではないかと議論が沸き起こり、廃止されました。

戦後と復興、北海道が歩んできた道

戦後と復興、北海道が歩んできた道

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太平洋戦争時には、北海道の各都市はアメリカ軍の空襲にさらされました。札幌はあまり被害を受けませんでしたが、航路の船舶も爆撃を受け、機能を失ったのです。そして、戦後は樺太(サハリン)と千島列島がロシア領となり、現在も北方領土問題として残っています。

しかし戦後復興は確実に進み、1972年には札幌オリンピックが開催され、今では国内トップクラスの観光地となりました。アイヌ文化以来の自然や食文化が注目を集め、知床は世界遺産に登録されています。

近年では北海道新幹線が開通し、本土からのアクセスがさらに容易となりました。

 

政治の中央から遠かったために人が行きわたらず、先住民アイヌとの争いもあり、北海道の発展は本土に比べると遅いものでした。松前藩時代にアイヌたちが交易を制限されたこともそうでしょう。しかし、開国以降、明治維新の屯田兵などで北海道はあっという間に開拓され、もはや未開の地ではなくなりました。

とはいえ、北海道には今もまだ素晴らしい自然や絶景が手つかずで残されています。発展が遅れたことは、決してマイナスだけではなかったのですね。
いかがでしたか。

北海道には、本土とは異なる独特の歴史があったことがおわかりいただけたかと思います。昔からある先住民の文化を大切にし、これからも共存していけるといいなと思いますね。観光地として人気の北海道ですが、その歴史もとても魅力的ですよ。
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