『ゆれる』(’06)『ディア・ドクター』(’09)などで、映画ファンからも評価が高い西川美和監督の最新作、『永い言い訳』が公開された。西川本人が執筆した同名小説をもとに作られた。過去に西川の映画は日本アカデミー賞(脚本賞)を受賞しており、さらには小説も直木賞候補に選ばれるなど、幅広い才能の持ち主である。
『永い言い訳』の主人公は、小説家として成功し、知名度もある46歳の男性。彼は、妻が親友の女性とスキー旅行へ出かけた隙を見て、愛人を自宅に呼び入れ一夜をすごす。しかしその間、妻の乗ったバスは雪山で事故を起こし、彼女は帰らぬ人となっていた。主人公は、同じく事故で犠牲となった妻の友人の夫と出会い、彼の幼い子どもふたりの世話をすることとなる。出演は、本木雅弘、深津絵里、池末壮亮など。
映画冒頭の散髪場面に、物語のテーマは凝縮されている。自宅で床に新聞紙を敷き、主人公(本木雅弘)の髪を切る美容師の妻(深津絵里)。主人公は終始やけに不機嫌である。彼は、人前で夫の本名を呼ぶ妻に腹を立てているのだ。主人公は、本名を衣笠幸夫(きぬがささちお)という。漢字は違うが、有名プロ野球選手の衣笠祥雄と読みが同じであり、彼は小さな頃からその名前をからかわれてきた。大学を卒業した彼は、紆余曲折ありつつも小説家となり、津村啓という筆名を手に入れた。「衣笠幸夫が作家という職業を選択したのは、ひょっとして、この名前を捨てるためであったのか」(原作引用)*1。主人公はみずからの名前を恥じていたのだ。
小説家・津村啓となった主人公にとって、編集者の前でも「幸夫くん」と彼を呼びつづける妻は、苛立たしい存在であった。作家として食えなかった時代を10年に渡って支えた糟糠の妻は、津村啓として人前に立つ主人公をあざわらうかのように、「幸夫くん」と呼びつづける。妻はいっけん、明るく気さくな女性に見えるが、内面には忸怩たる思いを抱えていることが、原作小説では明かされる*2。いまではテレビのクイズ番組に呼ばれる有名作家かもしれないけれど、あなたは私に10年も養われていたのよ、といわんばかりに、妻は人前で夫を「幸夫くん」と呼ぶことを止めない。
主人公が拒否するのは、決してその名前だけではない。彼は自分自身のずるさ、身勝手さ、弱さを恥じ、そこから逃避するほかに術のない男であった。筆名を得ることは、自分自身から少しでも遠ざかるための手段である。「先生は、ずっと傷ついてきたんだってわかったの。それを奥さんにぶつけることはもちろん、誰にも言えずに来たんだなと。男が女に十年食わされ続けることの恥の深さに、めためたに打ちのめされながら、ずっと地面を見つめながら、誰にも助けを求められずに」(原作引用)*3。
ことほどさように繊細な衣笠幸夫は、ほんの些細なきっかけで逆上し、見るも無残な失態を次々に晒す。花見の席での泥酔、大宮の家族との食事場面での不始末。場の空気が凍りつくような描写の連続に、監督の底意地の悪さがうかがえる。
さらに主人公を困難にしているのは、津村啓としての人生もまた窮屈である点だ。津村啓はつねに清潔でなくてはならない。津村が口にして許されるのは、理性的な意見や誰もが納得する正論、文学的で洞察に満ちた言葉のみであり、そこでは主人公ほんらいの屈折は抑圧されるほかないためである。インターネットに津村啓の悪評が書かれていないか、執拗に検索を繰りかえす主人公。やがては憂鬱がつのる。衣笠幸夫としても、津村啓としてもじゅうぶんに生きられなかった主人公は、妻の友人の子ども、真平と灯のふたりと出会うことで大きな変化を迎えることとなる。
12歳の少年と、5歳の少女。彼らから「幸夫くん」と呼ばれた主人公は、そこに安心感とやすらぎを覚え、彼らの身の回りの世話に没頭していく。本作でもっともあたたかく、胸踊る場面である。そこには仮面を脱ぎ捨てた、ほんらいの衣笠幸夫がいる。
それにしても、ふたりの子どもたちとすごした時間の、何と美しいことか。少女を後ろに乗せた自転車が坂道を登っていくロングショットのみごとさ。たとえ、彼の内部からふたたび恥の感覚がせり上がり、自分は無価値な人間であるという考えから逃げられなくなったとしても、真の他者と出会う瞬間がここには確かに存在している。このひとときを嘘だといってしまったら、もうわれわれは何もできないではないか、といわんばかりに、スクリーンに映る子どもたちと中年の小説家はまぶしく輝くのだ。自分を恥じることを止めて、堂々と他者と向き合うほかないと、作品は観客へ訴えかける。「人生は、他者だ」とノートに書きつけた主人公。その言葉は彼の偽らざる気持ちだと、観客は深くうなずくのである。
*1 西川美和『永い言い訳』(文春文庫)p15
*2 原作小説における、衣笠夏子の内面描写はこのようである。「私は結局、妬いていたのだと思う。私は幸夫くんの成功をおそらく心の芯では、素直に喜んではいなかったのだ。誰のおかけで、という意地汚い言葉が、喉元まで上がって来ては、ごっくん、と飲み干す」西川美和『永い言い訳』(文春文庫)p28 – 29
*3 西川美和『永い言い訳』(文春文庫)p45
『永い言い訳』
公開日:2016年10月14日
劇場:全国ロードショー
監督:西川美和
出演:本木雅弘/竹原ピストル 藤田健心 白鳥玉季 堀内敬子/池松壮亮 黒木華 山田真歩/深津絵里
配給:アスミック・エース
© 2016「永い言い訳」製作委員会 PG-12