吉本隆明は「戦後最大の思想家」と呼ばれることがある。その過剰とも思える賛美には当然の反発があり、しばしば過度に逆走する傾向にある。吉本隆明とその思想への侮蔑的とも言える否定やわざとらしい無視、あるいは上品に学問を装ってはいるものの稚拙な誤読に基づく軽視なども。吉本隆明を巡る賛美と否定の光景は、この思想家が戦後の思想の世界に存在したという事件の派生にすぎない。
ではとりあえず、吉本隆明を「戦後最大の思想家」という一面だけ捨象して、賛辞を裏付けそうな思想的な果実は何かと問うなら、しばしば物議を醸した個々の状況論(例えばオウム真理教への擁護論や原発肯定論など)を除けば、理論的な主著と呼ばれる三書、『言語にとって美とはなにか』(1965)、『共同幻想論』(1968)、『心的幻想論序説』(1971)がまず挙げられる。これらは「思想」と呼ぶに耐えられるものだろうか。
主要三書の中でなぜ『共同幻想論』なのか
『心的幻想論序説』はあくまで序説である。本論はそれから30年近く、だらだらと彼が主催する同人誌『試行』に連載され最後は未完に放置されたが、とりあえず形ばかりはマルクスの『資本論』に匹敵するほどの大著として2008年に出版された。これを高く評価する人もいるが、『試行』での連載を漫然と長期に読み続けてきた私としては評価しづらい。私の「心的幻想論」の理解では、むしろ本論よりもコンパクトにまとまったように見える、1995年の『母型論』のほうが「序説」の帰結に思える。またそうでありながらも、『母型論』はおそらく哲学や精神医学のメインストリームにおいて顧みられることはないだろう。ヴィルヘルム・ライヒの再評価や三木成夫の隠喩など、どちらかと言えば奇っ怪な学説によって独自に裏打ちされているためである。
『言語にとって美とはなにか』はどうか。吉本隆明自身はこの作品を最初の理論的な著作として自負していたものだが、私を含め多少なりとも言語学のメインストリームを学んだものからすれば、言語学の基本概念のレベルからの倒錯を含んでいて、およそ読むに堪えない。ただし、そうした前提を踏まえた上で、この著作を評価して良いのではないかという、言語学者・川本茂雄の肉声を言語学の学会で私は若い日に聞いて驚いたことがある。川本には何か訴えるものがこの著作にあったのだろう。ずっと気になっているが今もわからない。
では「私にとって」と限定して、残された吉本隆明の思想的達成は何か。『共同幻想論』である。この書籍のどこに思想の達成があるのだろうか。結論だけを先に言えば、「性意識が国家を生み出すまでの人類の無意識的な過程を描くことで、逆にその解体の展望を示したこと」にある。
最大の功績は「共同幻想」概念そのもの
本書『共同幻想論』だが、一般的には、国家論の文脈で、「国家を解体すべき共同幻想であることを説いた」という点にあるとされている。偽悪的に言えば、左翼的な国家解体論の亜流でもあるが、重要性はより「共同幻想」という概念の提出そのものにある。吉本隆明が思想家であることは、「共同幻想」という概念を構築した点にあると言ってもよいだろう。
「共同幻想」とは何か? 通常、「共同の幻想」と読み下されることが多く、そうした読み下しは吉本自身も行っている。だがその先の通解は、「人々が共有している願望的な幻想」といったものになりがちである。あるいは、精神分析学者・岸田秀のように、人々が共通して無意識に押し込めた意識といった理解もある。さらには、哲学者・廣松渉の『唯物史観と国家論』に示された「幻想的共同体」と同一視する理解もある。だが、岸田の理解は吉本自身との対談で示されたこともあるが、気の利いた洒落程度の話でしかない。
廣松の「幻想的共同体」と吉本の「共同幻想」は同じだろうか。吉本と同様にマルクス主義に特有な疎外論に根を共有しながらも、廣松は、基本的には、個々人の意識の幻想のなかでの公約数的な理解に傾きつつ、その議論展開は論集『世界の共同主観的存在構造』が示すように、近代的世界観のなかでの国家に集約されていた。しかし吉本の「共同幻想」は直接的には、廣松が対象視したような、私たちに現前する、歴史上の国家を扱っているわけではない。「後記」に明言されている。
本書では、やっと原始的なあるいは未開的な共同の幻想の在りかたからはじまって、〈国家〉の起源の形態となった共同の幻想にまでたどりついたところで考察はおわっている。つまり歴史的な時間になおしていえば、やっと数千年の以前までやってきたわけである。
吉本隆明の『共同幻想論』が扱っているのは、「やっと数千年の以前」の人類の意識様式に現れた、ある共同幻想であり、そこでようやく国家の起源と見ているだけである。通常「国家」とされる、直接的で近代的な国家の本質や形成過程をそのまま扱っているわけではない。
『共同幻想論』は進化心理学に近い
こうした対比を現代的な学問に近似させるなら、吉本隆明の『共同幻想論』は「進化心理学」に近いと言えるだろう。進化心理学では、人間の心理のあり方は、類人猿から人間に至る生物学的適応によるとしている。なにより進化心理学では、通常、更新世の石器時代の人間の適応環境を強調する。石器時代は長い時期であるが、終わりを青銅器時代と見るなら、吉本隆明の『共同幻想論』の最終的な歴史地点と概ね重なっている。ただし、吉本は石器や青銅器といった生産手段・武具を重視しているわけではないし、青銅器時代のない地域での人間心理も包括しようとしているかには見える。もっとも吉本は農耕生産を必然的な段階とも見ているが、この扱いはナイーブ過ぎるだろう。
それでもさらに「進化心理学」との対比で『共同幻想論』をとらえるなら、進化心理学が現代人の心理傾向や行動を無意識である動物的な種特性として説明するように、吉本の「共同幻想」も、人の心のなかの無意識の重層性を迂回して現代人の国家意識に潜む、おもにその呪縛的な側面を説明している。つまり、私たち現代人の無意識に潜む国家意識がどのように、古代人的な心性に根ざす国家意識に通底しているのか、という問題意識のなかで、吉本の共同幻想という概念が提出されている。
だが、進化心理学と『共同幻想論』との対比からは、吉本の共同幻想という概念の痛烈さは示せない。この概念の思想的な威力は、「対幻想」と呼ばれる性の幻想領域と生成的な関連を付けたことにある。もちろん進化心理学も、生物進化の観点から人間の生殖(つがい形成)を重視しているが、それはあくまで進化の選択から、性行動を、いわば物語の脚本のように解き明かそうとしているだけだ。吉本の「対幻想」では、暗黙裡に類人猿的な生殖行為を自然的な前提とはしながらも、その行為の背景にある性の意識あるいは性の無意識は、「共同幻想」との関係において、幻想(意識のなかに疎外された対象)として生成的に取り出されている。それが「対幻想」であり、「対幻想論」で明瞭に宣言されている。
〈性〉としての人間はすべて、男であるか女であるかのいずれかである。だがこの分化の起源は、おおくの学者が言うように、動物生の時期にあるのではない。すべての〈性〉的な行為が〈対なる幻想〉を生み出したとき、はじめて人間は〈性〉としての人間という範疇をもつようになった。〈対なる幻想〉が生み出されたことは、人間の〈性〉を、社会の共同性と個人性のはざまに投げ出す作用をおよぼした。そのために人間は〈性〉としては男か女であるのに、夫婦とか、親子か、兄弟姉妹とか、親族とかよばれる系列のなかにおかれることになった。いいかえれば〈家族〉が生み出されたのである。
この指摘は、同語反復的な悪文のようにも見える。だが、原点の「すべての〈性〉的な行為」はいわゆる類人猿の生殖と解して、対幻想と区別してよいだろう。吉本は、人間の生殖行動を進化心理学のように外部から観察的に見るのではなく、その内部の意識と無意識の仕組みとして関心を寄せている。
繰り返そう。吉本は、人間の行動を、単純にそれを支配する意識の表出として見るのではなく、無意識を含めた意識の総体が、むしろ個の意識に背く(疎外する・逆立する)ような行動を導く意識(幻想)の生成過程として見ていた。