加藤紘一—総理になり損ねた男と、彼を追い落とした男たちの真情

波乱の人生を歩んだ政治家・加藤紘一が亡くなりました。自民党内きってのリベラル派として鳴らし、経世会に対して小泉純一郎、山崎拓と組んだ「YKK」で立ち向かったことでも知られます。また、「加藤の乱」や秘書のスキャンダル事件などを記憶している人も多いでしょう。「一故人」では、彼の歩みをたどり、その実像を探ります。

自民党のその後を決定づけた「一瞬」

《一瞬に意味がある時もあるし、十年、二十年に実のない時間もある。歴史というのは奇妙なものだ》とは、1978年の自民党総裁選で勝利し、首相の座を射止めた大平正芳の会見時の言葉である(『大平正芳—人と思想』)。大平はこのとき、現職首相だった福田赳夫と争い、大方の予想を覆して予備選で大差をつけて勝利し、福田に本選への出馬を断念させた。

当時の自民党は派閥抗争に明け暮れ、1972年以来、田中角栄、三木武夫、そして福田と続いた各政権はいずれも志半ばで退陣を余儀なくされた。大平としてみれば、そんな「実のない時間」に自らの代でピリオドを打ち、政策の実現に専念しようとの思いがあったはずだ。だが、大平の政権下、派閥抗争はいっそう熾烈さを増す。1980年5月には、野党の提出した内閣不信任案が、衆院本会議への自民党内の反主流派の欠席により思いがけず可決されてしまう。これを受けて大平は衆院を解散し、戦後初の衆参同日選挙に打って出たが、選挙期間中に病に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。皮肉にもこれを機に自民党はひとつにまとまり、選挙では予想外の大勝がもたらされる。まさに大平の死という「一瞬」が大きな意味を持ったのだ。

さて、それから20年後、またしても一瞬にして自民党、ひいては日本政治のその後のゆくえを決したともいうべき事態が生じる。その主役となったのは、大平と師弟関係にあった加藤紘一(2016年9月9日没、77歳)だった。

2000年4月、時の首相・小渕恵三は急病に倒れ、辞任する。その後継となった森喜朗は、自身を含むわずか5人の自民党幹部によって密室で選ばれた。だが、森に対する国民の支持率は首相就任後の失言などもあいまって低下の一途をたどる。これに反旗を翻したのが、加藤と盟友の山崎拓だった。同年11月、加藤は森内閣を倒すため、野党が提出を検討していた内閣不信任案に同調することを示唆、国民の期待はいやが上でも高まる。

これに対し、森政権下で自民党幹事長となった野中広務は、水面下で加藤派・山崎派の切り崩し工作を進める。それでも加藤は、自分のもとに「自民党を変えてほしい」というメールが殺到し、インターネット上のホームページにも支持の書き込みがあいついでいたこともあり、国民の支持は強いものと信じて疑わなかった。11月17日の金曜日、加藤が不信任案賛成を明言する。このとき、加藤と連携した自由党の小沢一郎は、土日を挟むと加藤派を切り崩される可能性が高いと、金曜中に不信任案を提出すべきだと民主党代表の鳩山由紀夫に伝えた。だが、これを聞いた加藤は「逆に土日で派閥の議員を説得する。大丈夫だ」と、強気の姿勢を崩さなかったという(山崎拓『YKK秘録』)。

だが、加藤の見通しは甘かった。野中は、国対委員長で加藤派幹部だった古賀誠の同調を得て、同派の切り崩しに成功。週明けの20日、野党の不信任案提出案の採決を前に、加藤のもとからは24人が離脱し、残った21人では、山崎派と合わせても不信任案可決にはあきらかに数が足りなかった。加藤は都内のホテルに集まった同志の議員たちに採決を欠席するよう伝え、これから自分と山崎の二人だけで本会議場に行き不信任案に賛成票を投じると告げた。これには、加藤派の谷垣禎一が「あなたは大将なんだから、一人で突撃なんてだめですよ」と駆け寄るなど、思いとどまるべきだとの声があいつぐ。加藤のなかでも逡巡があり、いったんは同志たちの制止を振り切り、山崎とホテルからハイヤーで国会議事堂前まで赴くも、「やっぱり戻ろう……」と言って引き返した。結局、加藤はその後2度ホテルと国会のあいだを往復したあげく、本会議場にはたどり着かないまま、不信任案は否決される(山崎、前掲書)。

じつは加藤としてみれば、森内閣を倒しても自分が何がなんでも首相になろうとは思っていなかったという。仮に首相になってもせいぜい6ヵ月で終わり、けっきょく何もできないと予想されたからだ。だが、加藤への国民の期待は、彼が思う以上に大きかった。その状況判断の間違いに彼は、国会前よりホテルの玄関口に引き返してきたとき、若い女性記者から「国民の期待はどうするんですか!」と叫び声に近い質問を受けて、初めて気づいたという(加藤紘一『新しき日本のかたち』)。

「加藤の乱」とも呼ばれるこの自民党内のクーデターの失敗で、多くの国民は加藤に失望した。しかし、かろうじて延命した森内閣はその後も支持率の低下が止まらず、翌01年4月についに退陣する。このあと、圧倒的な国民の支持を背景に首相となったのは、加藤・山崎とかつてYKKとして手を組んだ小泉純一郎であった。「自民党をぶっ壊す」と宣言した小泉は、派閥や族議員などそれまで自民党を支配してきたものをことごとく解体し、自民党をつくり変え、5年にわたる長期政権を維持することになる。

60年安保で国会内外の落差に衝撃

加藤紘一は1939年6月、内務省の官僚だった父・精三の赴任先の名古屋で生まれた。以後、精三の転勤にともない各地を転々とする。やがて精三が内務省の外郭団体の国民徴用援護会に移ると、幼い紘一は両親と東京に転居した。太平洋戦争中の1944年、父親が出征してからは、母の実家のある山形県大山町(現・鶴岡市)に疎開し、終戦の翌年の1946年には鶴岡市立第二小学校に入学している。

精三は紘一が小学校に入った年に復員し、翌47年に官選の鶴岡市長となった。このあと2期、公選市長を務め、1952年には総選挙で初当選し、国政に進出する。精三はやや奇行癖のある人だったようだ。市長時代には、酔っぱらって木に登ったり、新潟県の港の起工式でモーニング姿のまま海に飛び込んだりしたこともあったという。よくいえばおおらか、悪くいえばずぼらで身なりに気を遣うこともなかった。そんな父親に紘一はあまり似ず、少年時代から聡明でクールな性格だったらしい。後年、紘一の選挙応援のため鶴岡を訪れた自民党のある先輩政治家は、何事にもきちんとしている彼が精三の息子と知って、本当かねと驚いたという話も伝えられる。

紘一は五男だったが、精三は頭脳明晰で沈着冷静な彼を東大に行かせ、ゆくゆくは自分の後継者にしようと早くから考えていたようだ。1954年には山形から上京して千代田区立麹町中学校に転入、さらに翌年、名門・都立日比谷高校へ進む。しかし、紘一には父親の敷いたレールの上を進むことに抵抗があったらしい。東大文系にストレートに入れる成績だったにもかかわらず、現役時には理科一類を受験して不合格となっている。

一浪して東大文科一類に入学したのは1959年。翌60年には、日米安保条約改定をめぐり、国会周辺では連日盛んに反対デモが行なわれた。いわゆる60年安保闘争だ。東大は当時の学生運動を主導した全学連(全日本学生自治会総連合)の中核を担い、安保闘争でも拠点のひとつとなる。加藤の通う駒場キャンパスにも立て看板が乱立し、革命前夜の様相を呈した。加藤自身は、精三から「デモに行くな」と釘を刺されていた。精三はこのとき、日米交渉の当事者である外相・藤山愛一郎の派閥に属していたのだから、当然だろう。

だが、加藤は父の言いつけを破って、何度か安保反対のデモに参加している。1960年6月15日、全学連主流派が国会構内に突入し、警官隊と衝突するなかで東大の女子学生が圧死したときにも、彼は国会の近辺にいたという。ただし、過激な行動には加わらず、座り込みをしながら仲間と時間をすごした。このときの加藤はじっと黙ったまま考え込んでいる様子だったという(『新潮45』1999年10月号)。

じつは60年安保のさなか、加藤は父のいる議員会館を訪ね、衆議院内にも入っている。このとき、野党議員たちが条約の強行採決を阻止するべく、議長を本会議場に入れまいと、議長室と本会議場のあいだの廊下に人の壁をつくっていた。その壁を崩そうとする自民党の議員や秘書らとのあいだで揉み合いが続くなか、ときには与野党が談笑する様子が見られたという。国会議事堂の外の緊迫した雰囲気とのあまりの落差に、加藤は強い衝撃を受ける。

後年、彼は学生時代を振り返り、「自分を苦しめた安保とイデオロギー」という言い方で、次のように自己分析している。

《家には自民党の代議士がいて、大学に行くと、マルクス・レーニンでないと人でないという空気の中で、どっちが正しいんだと考えたんですが、二十歳の青年に一年や二年で結論が出るはずがない。自分が正しいかクラス討論が正しいか決断がつかずに迷っていたというのがほんとうです》(『文藝春秋』1997年2月号)

日米安保の改定が成立したのち、一種の虚脱状態となった加藤は、大学のことも父のことも忘れて、裸の自分を試そうと和歌山のみかん農家で働いたり、水泳部に入って練習に没頭したりして、どうにか切り抜けた。この間、文科一類から法学部に進み、卒業後の進路も考え始める。高校時代からの親友で、ひと足先に外交官試験に合格していた法眼俊作(外交官・法眼晋作の長男)からは「一緒に日本の外交を牛耳ろう」と声をかけられていたが、加藤には新聞社の外報部記者になりたいとの思いもあった。考えた末、在学中に外交官試験を受けるも二次で落ち、一方で朝日新聞社の入社試験には受かった。だが、記者になっていた大学の先輩に相談したところ、必ずしも自分の希望する部署に行けるわけではないと言われたこともあり、卒業後にふたたび外交官試験に挑戦、今度こそ合格する。こうして1964年春、外務省に入省した。

外交官から政界へエリートコースを歩む

外務省に入って加藤は中国語を選択、日中関係をライフワークにしようと決意する。中国を選んだのは、イデオロギー問題から大学と親との板挟みになっていたこと、また法眼俊作に「日本の外交で一番重要なのは中国とソ連になる。自分はソ連をやるつもりだから、おまえは中国をやらんか」と言われたのもきっかけだという(当の法眼は加藤が入省してまもなく自ら命を絶った)。

加藤はまず当時日本と国交のあった中華民国(台湾)へ、台湾大学に留学という形で派遣されたのを手始めに、米ハーバード大学への1年間の留学を挟んで、1967年には英領だった香港領事館に副領事として赴任する。おりしも中華人民共和国では文化大革命が勃興しており、情報分析にあたった。あるとき中国南部で大洪水が起き、中国側から文化大革命の乱闘で犠牲になった死体が珠江を下って流れてきたこともあった。このとき加藤は「社会主義とはこういうこともあるのか」と悟ると、学生時代より抱いていた中国やソ連に対する幻想も消えたという。

前後して1965年には父・精三が急死し、加藤は出馬するか迷った末に断念している。地元の後援会はその後2回の選挙で加藤家以外から候補者を担いだが、いずれも落選。精三の七回忌にいたって、加藤は周囲に促されるようについに出馬を決意した。政界進出をめざすにあたっては、このころ日中関係の修復に尽力していた大平正芳に師事し、その派閥「宏池会」に入った。大平は田中角栄内閣の外相として1972年9月に日中国交正常化を実現する。加藤が初当選をはたしたのはその年12月の総選挙だった。加藤とのちにYKKを結成する山崎拓と小泉純一郎は当選同期にあたる。

加藤は早い時期から同期のなかでも頭一つ抜きん出て、「宏池会のプリンス」などと呼ばれるようになる。1978年、大平内閣が成立すると39歳にして官房副長官となり、大平の外遊にはすべて同行した。1984年、第二次中曽根康弘内閣が発足すると防衛庁長官に抜擢され、「60年安保世代の防衛庁長官」として注目される。2期にわたる長官時代には、国の基本を学びとるとともに国内外に多くのパイプを得た。とくにアメリカには次代のリーダーとして強い印象を与えたとされる(仲衞『加藤紘一・全人像』)。

その後、1988年のリクルート事件、1992年の共和からの闇献金疑惑など、スキャンダルに見舞われる一方で、90年頃からYKKを結成して、党内での存在感を強めていった。YKK誕生には、幹事長の小沢一郎を中心に当時自民党を牛耳っていた「経世会」に対抗するという意味合いがあった。91年には、小沢たちの推進する小選挙区制の導入を含む政治改革関連法案を廃案に終わらせ、ときの海部俊樹内閣を退陣に追いこんだ。これによりYKKの名は一躍政界で知られるようになる。海部の後任には宏池会の会長だった宮澤喜一が就き、加藤は官房長官となって、翌92年の天皇訪中などで大きな役割をはたした。

自さ社連立政権での活躍と落とし穴

自民党は1993年の総選挙で野党に転落したが、翌94年には社会党(のち社民党)と新党さきがけと連立して政権に復帰する。このとき自民党は社会党とさきがけと政策面で譲歩するなど協調に努めたが、その中心を担ったのが、社会党首班の村山富市政権下では自民党政調会長、続く自民党首班の橋本龍太郎政権下では党幹事長を務めた加藤だった。村山内閣期に社会党がとくに強く望んだ原爆被害者援護法の制定、水俣病認定患者の救済、また戦後50年の国会決議・首相談話が実現したのには、加藤の尽力によるところも大きい。まさに自民党きってのリベラル派の面目躍如であった。

なお、幹事長時代の加藤を補佐したのは、幹事長代理を務めた野中広務である。《加藤より一回り以上年齢が上の野中も、リベラルさと思考の柔軟さでは人後に落ちず、補佐役として十二分にその存在感を示していた》とは当時、自民党幹事長室の室長だった奥島貞雄の証言だ(『自民党幹事長室の30年』)。他方、このころ自民党では、右派の一部が小沢一郎を中心に発足した新進党との「保保連合」を画策する動きもあったが、加藤は終始これを退ける。数年後の加藤の乱にあって、加藤に対する野中と小沢の立場がまるで逆転してしまったのは、皮肉というしかない。

1996年の総選挙を前に、社民党とさきがけは分裂、そのあおりを受けて大敗する。以後、社民・さきがけの閣外協力という形で連立体制は維持されたものの、翌97年の参院選直前に3党の協力は解消される。このときの選挙で自民党は大敗、橋本内閣が責任をとって退陣したのにともない加藤も幹事長を辞した。後任の小渕恵三は政権基盤の強化のため、小沢が新たに結成した自由党との連立に向けて動き出す。

それでもポスト小渕として加藤の呼び声は高かった。それが狂い出したのは、1999年秋の自民党総裁選で、現職の小渕の対立候補として加藤が出馬したときともいわれる。このとき官房長官だった野中は「ここはおとなしくしてほしい」と申し入れたにもかかわらず、加藤は党の活性化のためにも出馬すると突っぱね、二人は決裂した。

じつはこのころ、加藤との関係がぎくしゃくするようになったのは野中だけではない。宏池会や地元・山形でも加藤周辺の人間関係は大きく様変わりしていた。宏池会からは、1998年に加藤が会長に就任して以降、離脱者があいついだ。長年宏池会の事務局長を務めてきた木村貢もそのひとりだ。木村は、このころ加藤が突如として事務所を移転させたこと、そしてそのあと事務所内の風通しがどんどん悪くなり、宏池会と加藤のあいだに距離が生じていたことを明かしている(木村貢『総理の品格』)。

加藤はエリート意識が高かったせいか、もともと人の話を聞くのが下手で、それが彼の命取りになったとの元政治記者の評もある(木村、前掲書)。ほかにも「真正面から向かわない人物」「臆病な政治家」との評もあった(『新潮45』1999年10月号)。それが小渕政権下での総裁選出馬、そして加藤の乱と思い切った行動に出たのには、いよいよ首相の座を目前にしてイメージを打ち破りたいとの思いもあったようだ。だが、それらがことごとく失敗したのは、やはり人間関係のあり方にも大きな要因があったと思われてならない。

地元の山形でもまた、後援会長など長年加藤を支えてきた人々が彼のもとを去っている。これというのも、加藤事務所の代表となったSという私設秘書が、地元の商店など零細企業にまで献金を要求したり、公共事業に口を挟んだりするようになっていたからだ。それにもかかわらず、父の精三と同じく資金集めを苦手とした加藤は、Sを重用し続ける。結果的にそれが裏目に出た。2002年、Sは所得税法違反で逮捕され、加藤はこの責任をとって衆院議員を辞職、翌年の総選挙で再当選するまで1年半、浪人生活を送ることになった。

自民党リベラル派の凋落

先述のとおり、森喜朗の後継首相には小泉純一郎が就いた。加藤はかつての盟友として、小泉の市場原理主義的な経済政策、また対米一辺倒で中国や韓国などアジア諸国を顧みない外交政策などに対して、警鐘を鳴らし続けた。そこには、浪人時代に地元の人たちと少人数のタウンミーティングを繰り返しながら、地方の厳しい現実を知ったことも大きい。2006年には、山形の実家が右翼団体の男によって放火され、全焼するという事件にも遭った。このとき加藤は、犯人を断罪するのではなく、その背景にある不穏な時代の空気にこそ原因があると訴えている(加藤紘一『テロルの真犯人』)。

加藤は「強いリベラル」を標榜した。彼によればリベラルは「他人を気遣う心」であり、これに対し保守とは、地域の共同体にあって、ときには自分の利益や主張を犠牲にしてでも、全体ないしコミュニティのために尽くしてきた人々の努力の積み重ねだという。すなわち加藤にとってリベラルと保守は同義であった。ここから彼は、市場原理主義によって崩壊しつつある地域共同体を、「他人を気遣う心」で再生し、糸の切れた風船のように足元のおぼつかない人たちの受け皿としようと考えたのである(加藤紘一『強いリベラル』)。その実現のため著述活動にも熱心だった。

だが、自民党は民主党に対抗して理念の明確化をはかるなかで、むしろ右傾化を強めていく(中北浩爾『自民党政治の変容』)。2009年の総選挙での民主党の大勝により野に下った自民党では、加藤に近かった谷垣禎一が総裁となったものの、右派を絶えず意識しながら党運営せざるをえなかった。こうした推移を見るかぎり、加藤にとってあの乱以後の15年あまりは実のないものであったのかもしれない。

加藤の乱の失敗をもっとも惜しんだのは、じつはそれをつぶした当事者である野中広務であり、古賀誠だった。両者は本来、加藤が首相となることを強く望んでいたからだ。野中は加藤の乱を収束させたのち、涙を流して彼のことを惜しんだという(NHK「永田町 権力の興亡」取材班『NHKスペシャル 証言ドキュメント 永田町 権力の興亡 1993-2009』)。

古賀もまた、本来は加藤政権をつくることを夢見ていた。それだけにこのとき加藤に大きな傷をつけてしまったと後悔し、後年にいたって次のように述懐している。

《逆に、あそこまで突っ込んだら、加藤先生だけでも議場に入って、そして堂々と自分の信念を貫かれていたら、カムバックも早いし、また1人の政治家として、私はそれなりに評価されたと思うんですね。結果的に中途半端だったと。(中略)加藤さんの内閣ができていたら、また違った自民党の歩みがあったと思いますよ。一番大きな人材を失ったということですよね。ひと口でいえば、あの局面で。リベラルを標榜していたし、そうした意味で加藤さんの失脚というのは、自民党にとって大きかったです》(NHK「永田町 権力の興亡」取材班、前掲書)

あのとき、加藤と行動をともにした議員のほとんどは、単独で不信任案に賛成票を投じようとする彼を止めた。そのなかにあって、《行きましょう。ここまで来て、行かなきゃ国民に見離されますよ。勝ったって、負けたって関係ないから、闘いましょう》と訴えた議員がいる。誰あろう、現在安倍内閣の官房長官を務める菅義偉だ(松田賢弥『影の権力者 内閣官房長官菅義偉』)。

山形の隣県・秋田の農村出身の菅は、二世議員の加藤とは対照的に、集団就職で上京したのち苦学しながらも、政治家秘書、地方議員から衆院議員へと這い上がってきた。先の加藤への言葉も、叩き上げゆえ、市井の人々の思いを肌で感じてきたからこそ出たものだったのだろうか。加藤の乱のあと、宏池会は親加藤の小里貞利派と反加藤の堀内光雄派に分裂するが、菅は堀内派に合流している。

いまや政権の屋台骨を支える菅と、ついに政治の中枢に復帰することなく逝った加藤。両者の行く末を決定づけたのも、16年前の「一瞬」であったとするのは、加藤にとってあまりに酷であろうか。

■参考文献
加藤紘一『新しき日本のかたち』(ダイヤモンド社、2005年)、『テロルの真犯人』(講談社、2006年)、『強いリベラル』(文藝春秋、2007年)
五百旗頭真・伊藤元重・薬師寺克行編『野中広務 権力の興亡』(朝日新聞社、2008年)
NHK「永田町 権力の興亡」取材班『NHKスペシャル 証言ドキュメント 永田町 権力の興亡 1993-2009』(日本放送出版協会、2010年)
奥島貞雄『自民党幹事長室の30年』(中公文庫、2005年)
木村貢『総理の品格—官邸秘書官が見た歴代宰相の素顔』(徳間書店、2006年)
公文俊平・香山健一・佐藤誠三郎監修『大平正芳 人と思想』(大平正芳記念財団、1990年)
塩田潮「加藤紘一にみる自民党「左派」の研究」(『文藝春秋』1997年2月号)
俵孝太郎『日本の政治家 父と子の肖像』(中央公論社、1997年)
中北浩爾『自民党政治の変容』(NHKブックス、電子書籍版、2014年)
仲衞『加藤紘一・全人像』(行研 出版局、1992年)
松田賢弥『影の権力者 内閣官房長官菅義偉』(講談社、電子書籍版、2016年)
森功『総理の影 菅義偉の正体』(小学館eBooks、2016年)
山崎拓『YKK秘録』(講談社、電子書籍版、2016年)
山村明義「知られざる「次の総理」加藤紘一研究」(『新潮45』1999年10月号)

イラスト:たかやまふゆこ

ケイクス

この連載について

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一故人

近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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