こんばんは、台風がそれたのはいいけれど各所の地震が凄いですよね。海辺の方は津波に注意して余震などの事も警戒は必要ですね。今日はカンフー映画の主役を書きます。
初めはテンテンです。金おじいさんの孫娘です。恵まれた血筋と特殊な出自により、幼いながらも優れた法術の才能を発揮します。おしゃまな一面を見せるが、孤児4人組の手綱を取るしっかり者であり、生来の優しさから仲間思いでもあります。決め文句は「天罰!」、「天誅!」、「昇天!」など。キョンシー退治用の道具「霊罰棒」(れいばつぼう)を得意武器とし愛用している。名前の由来は、テンテン役を演じる劉致妤の誕生日(10月10日)によるものとされ、同シリーズ中で明かされるテンテンの誕生日にちなんでます。『キョンシーズ』というタイトルでビデオ発売し、また『幽玄道士』のタイトルでTBS系列で放送されると、たちまち大ブレイクしました。映画の続編やテレビシリーズ『来来キョンシーズ』も次々とヒットし、一躍時の人となりました。
次にチャウシンチーです。映画『少林サッカー』で一躍その名を知られるようになった。2002年に日本ブルーリボン賞を受賞しました。この映画は世界32カ国で上映され、イタリアで公開されたアジア映画として最大のヒット作となりました。
『カンフーハッスル』で、香港と台湾の歴代興行収入の記録を塗り替え、その年のアメリカ放送映画評論家協会賞を受賞し、ゴールデングローブ賞と英国アカデミー賞の外国語映画賞にもノミネートされたみたいです。この映画は世界72カ国で上映され、2005年度にアメリカで公開された外国映画として最大のヒット作となりました。
『DRAGONBALLEVOLISION』の制作にも参加しているが、自分の意見が全く採用されないなどの待遇への不満や、作品の出来に対する不満からプロモーション活動には参加せず、一切手を引いた形となっているらしいです。
次にブルースリーです。1970年に、香港の大手映画会社のショウブラザーズ邵氏兄弟有限公司)から独立したレイモンドチョウ鄒文懐)が設立したばかりのゴールデンハーベスト(嘉禾娯楽事業有限公司)と1本1万香港ドルで2本の映画出演の契約をする。翌1971年に、成人後の初主演映画『ドラゴン危機一髪』が公開され、香港の歴代興行記録を塗り替える大ヒットになりました。リーは、一躍、香港のトップスターに躍り出るようになりました。主演第2作の『ドラゴン怒りの鉄拳』(1972年)では主演と武術指導を担当し、3作目の『ドラゴンの道』(1972年)では、自ら「コンコルド・プロダクション」(協和電影公司、ゴールデン・ハーベストとの共同出資)を設立し、製作・監督・脚本・主演の四役を担いました。この3作によって、リーは香港で不動のトップスターの地位を築き、ゴールデン・ハーベストは興行収入で香港最大の映画会社となったようです。
次はジェットーリーです。1974年、中国全国武道大会で個人総合優勝を果たします。以降、5年連続で優勝する(未だその記録を破る者はいない)。その身体能力を活かして1982年に『少林寺』で映画デビュー(本名のリーリェンチェ名義)。1988年の『ファイナルファイター鉄拳英雄』において初監督を果たし(リーヤンチュン名義)、1991年のツイハーク監督作品『ワンスアポンアタイムインチャイナ天地黎明』の大ヒットでスターの座を確固たるものにしました。
最後にジャッキーチェンです。ジャッキーは製作側に注文し、ストーリーやアクションにコミカルさを交え、自身のキャラを生かした作品を作ることを目指す。これが『スネーキーモンキー蛇拳』(1978年)、『ドランクモンキー酔拳』(1978年)といったヒット作の誕生につながった。『クレイジーモンキー笑拳』(1979年)では監督業にも進出。1979年にはゴールデンハーベスト賞社に移籍し、監督・主演作の『ヤングマスター師弟出馬』(1980年)をヒットさせました。1980年代に入ると、『プロジェクトA』(1984年)や『ポリスストーリー香港警察』(1985年)に代表される、自ら命懸けのスタントをこなす監督・主演作品が大ヒットしました。香港映画界を代表するアジアのトップスターとなりました。