聲の形 監督 山田尚子
知っての通り、10代そこそこの青春がなんの屈折もなく上手くいくことなんて希少ですよ。上手くいった青春ばかりがシネコンでは毎年映画にされるわけなんですけど、大多数の人にとってはそんなのありえないわけですからね。とりわけアニメの書き散らしなんて最悪で暇なことやってる類にいたっては、世間には希少とされる10代という期間の上手くいかなさの代償を膨大な映画や音楽、漫画やらで埋め尽くし、うそくさく上手くいった青春ばかりを描く有名俳優ばかりがでる映画に唾を吐き、一切観なくなるか、挫折や破綻ばかりを暴く呪いに満ちた青春映画に感情移入するようになるのです。
そして挫折や破綻を描く青春映画というのはほんとうに観終わった後とぼとぼ歩きながら家に帰るような体験で、おおむね暗く、露悪的なのです。挫折や破綻を美しく描くことは難しい。だがその可能性がある作品が現れました。それが『聲の形』です。
社会問題枠として障がい者といじめの描写が政治的に正しいかどうかで観ていると本当に美的な点を見誤る
『聲の形』がフックとしている要素は聴覚障がい者といじめを中核に置くこと、さらにはいじめ加害者と被害者の恋愛で興味を引くという一見、社会問題風、道徳教材風に見せかけたスキャンダラスなものです。『小公女セーラ』や『ロミオの青い空』のハウス世界名作劇場作戦と最初は思うんですよ。テレビドラマの野島伸司作戦と言い換えてもいいです。すいません、完全に30代を超えた人間にしか伝わりませんね。ともかく社会問題をとりあつかって耳目をあつめるという部分で、いくらでも露悪的になりえる題材です。
正直あまりにこのフックは強力過ぎて、すでに語られてる感想の一部では障がい者といじめの加害者・被害者という社会問題の取り扱い方の政治的な正しさに足をとられており、一般の書き散らしだけではなく批評を生業にしている一部の人たちさえ *1もひっかかっているのです。
原作や映画が公に売りとしているのもあるし、多少はしょうがないところはあるのですが、そこに囚われるとこの作品の本当に美しい点を完全に見誤ります。では山田尚子監督による『聲の形』ではなにが美しいのか?というと、脚本的には実は障がい者やいじめがテーマではなく、誰にでも起こる普遍的な他人との距離感がわからなくなることを極端に描いた物語であり、それを障がい者も健常者も等価に起こるものとして描いている点です。そしてデザイン的にはなににもまして、水が美しいことです。
この水が、障がいやいじめという題材のスキャンダラス性を抑え、他人との距離感で初めて出くわした挫折や破綻を描く青春映画を露悪的でなく、とびきり美しいものに仕上げた最大のエレメントとしているのです。
水の中
冒頭から水面の波紋のエフェクトが展開されます。全ての支度をおえた主人公・石田が橋から川の中に飛び降りる。このシーンが自殺しようとしていたことであるのがあとでわかるのですが、最初のこのシークエンスの段階で水の中はとても美しく描かれる一方で、誰とも関わりをもたないことを意味し、他人との距離感がまったくわからなくなってしまうネガティブなものとして現れるのです。
たまこラブストーリーで一転してシリアスになる、川の飛び石の上での告白のシーン
水が美しく描かれ、一転して他人との距離感がわからなくなるシリアスな緊張感に変わる衝撃は山田監督の前作『たまこラブストーリー』を思い出してください。たまこにもち蔵が告白する、飛び石のある川のシークエンスです。愛の告白に驚いたたまこは川の中にへたりこんでしまう。この水の中のカットは映画中でも屈指の完成度を誇っています。それから先の展開ではたまこはもち蔵との距離がまったくわかんなくなってしまい、緊張感が一転してしまうのです。
『聲の形』は『たまこ~』が一転してシリアスになるあの水の中の瞬間を2時間を重ねているともいえる驚異的な作品であり、水のイメージを通して「ある日までうまくいっていたのに、初めて他人とのまともな距離感がわからなくなってしまいどうしようもなくなる」ことを描いているのです。小学生のころは他人との距離感なんてなにも考えなくても自然に上手くいくものだった、しかしある日全然距離感が図れない相手が転校してきた。水を浴びせたり筆談のノートを池の中に投げ入れたりする。しかし学級会以降に今度は自分がやられる側になり、池の中に落とされる中でまったく他人との距離感がわからなくなっていくのです。
この美しさと不穏さが同居した水のイメージは、なんとキャラクターを描く描線を意図的に途切れさせることから淡い色調、さらには牛尾憲輔氏のエコーの深いエレクトロニカの劇伴に至るまで徹底しています。京アニ必殺の被写界深度の浅いカメラワークも、ここでは淡い水の中にいるかのように作用しています。さらに言えば聴覚障がい者である西宮が外から聞こえる声や音はまるで水の中から聞いているかのようでもあるのです。*2
そう、聴覚障がい者といじめという題材はきっかけに過ぎず、さらに恋愛映画でもないのです。石田と西宮はじめ全登場人物たちがささいな行き違いで他人との距離がわからなくなり、描線から色彩、美術と劇伴に至るまで、まるで水の中にいるかのように外からの関わりがくぐもってしまうことを巡る物語なのです。
手を合わせる
聖域のような橋の上。川の中のたった一匹の鯉はベタすぎるくらいの暗喩
そういう水の中のイメージと、他人との距離感がわからなくなるというテーマは新海誠の『言の葉の庭』を思い出します。実際に何度も石田と西宮たちが出会う、桜の咲く橋の上で、パンを鯉にあげる場所の聖域みたいな感じは、新宿御苑の聖域のような感じとかなり構図が近いと言えます。
では徹底したディスコミュニケーションを示す水の中のイメージから救い出すのは、ほんとうにそのまま手をとりあうシンプルなことなのです。西宮とコミュニケーションをとる、こまやかな手話のアニメートや、石田が永束と手のひらをなぞりあうアニメートなのです。それは水のデザインと対比される形で重要なシークエンスに差し挟まれる、そのままコミュニケーションそのものです。
当然全てがよいものではありません。ある時には植野は西宮の母親と殴り合いもするのです。マンションから落下した西宮を石田が手を握りしめるありがちなクリフハンガーですが、他人との距離がわかったかもしれない瞬間に一転してまた水の中に落ちるのです。
水の中の終わり
批判の中に「障がい者を無垢でおとなしい美少女として描いている」というものがありましたが、実際にはやさしさというより保身ゆえの態度であり、西宮は石田や川井、植野、永束らと同様にやはり他人との距離感がつかめないひとりだったことが後半に分かってくるため、ベストではないでしょうがけっして記号的なやりかたで終わってはいないのではないでしょうか。と、いうか露悪的にいくらでもできるテーマなので美的にデザインするほうがずっと難しいと思うんですよ。この原作が湊かなえの映画みたいにされてしまう可能性も他の監督やスタジオがやったとしたら十分にあったのですよ。
『たまこラブストーリー』ではついにもち蔵との距離感がわかったたまこの告白で終わります。それを引き継ぐような形で『聲の形』では石田が西宮や永束らと手を取り合う中で、完全に見失っていた他人との距離感をもしかしたら回復できるのかもしれない、すこしましになるのかもしれないというところで耳をふさぐのをやめ、他人の顔を見られるようになるところで終わるのです。そのさきはもう水の中ではないのです。観たアニメは忘れましょう。限界まで培った技術とモードはそのままに、次回にお会いしましょう。
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*1:個人的にはこういう題材をつかい「報復を行わないのか」という需要に湊かなえの小説と映画の全てがある、と「少女」の予告編を観ながら思った
*2:ここの一文は、聴覚障がいの中でも耳の中の器官に問題がある感音性難聴の症状を参照した。どんなふうに聞こえるのかと言うと視覚化するとこんな感じのようだ。間違ってたらすいません