怒り』 かけがえのない何かを喪失した者の慟哭

渡辺謙を筆頭として人気俳優がずらりと揃い、早くも話題を呼んでいる映画『怒り』。複数の物語が織り成す本作の注目すべき点について、ブロガーの伊藤聡さんが論じます。

吉田修一の原作を李相日が監督し、高い評価を得た『悪人』(’10)から6年。ふたたび李の手がけた吉田作品の映像化が、今作『怒り』である。渡辺謙、森山未來、松山ケンイチ、綾野剛、宮崎あおい、妻夫木聡、広瀬すずといった人気俳優を揃え、シリアスな原作のニュアンスを力強く再現した意欲作だ。本年度、『シン・ゴジラ』『君の名は。』と質の高い作品をヒットさせて波に乗る東宝だが、同じ東宝作品である『怒り』の本格的な作風を見ると、下半期もその勢いは続きそうである

物語は、東京、千葉、沖縄にそれぞれ流れ着いた3人の男性を描く。彼ら3人は素性が知れず、いずれも東京都八王子市で起こった殺人事件の犯人に容貌が似ている。テレビの公開捜査番組をきっかけに、周囲は彼らを事件の犯人ではないかと疑い始めるが、確証は得られない。果たして事件の犯人は誰かという謎を軸としながら、作品は同時に豊かな人間ドラマを発生させる。膨らんだ疑惑は、3人の男性とその周囲にどのような結末をもたらすのか──。

『怒り』は、人びとが社会や他者をどのように見るのかを問う。果たして「ものごとを客観的に見る」などということが可能なのか。いったいどのような立場から、人は他者を認識しているのか。原作者の吉田によれば、殺人事件の報道を見た人びとから、かなりの目撃情報が寄せられたという事実に驚いたことが執筆のきっかけだという。事件とは無関係な者を犯人だと思い込む人びとが、これほどいるのかと感じたそうだ*1。劇中で、恋人の素性や本心がわからないと悩む登場人物の葛藤を原作はこう説明する。

「敢えて言えば、信じられるか、信じられないか。そういうとても主観的なものだ。であればその主観は何から生まれてくるのか。たぶんそれは自分に直人(筆者注:恋人の名前)を信じる自信があるかないか」*2

こうして述べられるように、人は世界をあくまで主観的に見ることしかできない。周囲を信頼できない人間から見た世界は、おのずと不安定な場所に映る。誰もが社会や他者を自分の見たい角度から見てしまうし、思い込みからくる狭い尺度で拙速に判断する。そこでは、各自のコンプレックスや不安、無意識に隠された本音といった「主観」があからさまに露呈されるほかない。

劇中、同性愛者の藤田(妻夫木聡)は、みずからのセクシャリティが周囲に知られることを怖れるがゆえに、恋人の素性を正視できない。軽度の知的障害を持つ娘*3の父、槙(渡辺謙)は、娘が幸福になれないと心のどこかで決めつけており、結果として娘の可能性の芽をつんでしまう。彼らはあらかじめ歪んだ前提をもって他者と向かい合うため、必然的に現実はねじ曲がり、目の前にいる相手の姿はいびつに変形してしまうほかないのである。

ことほどさように、『怒り』おいて登場人物たちは、他者を通じて自分の醜い内面と対峙させられる。本作の重苦しさとは、決して他人事にできない失敗、過ちを犯したのは他ならぬ自分である、という事実の厳粛さにある。劇中、登場人物たちが見せる慟哭は、彼らがかけがえのない何かを喪失してしまった当事者であることの証左だ。相手を信頼できなかった自分に憤り、狭い主観でものごとを判断した未熟さを思い知る。

そして『怒り』がすぐれているのは、彼らが失ってしまった何かが、真にかけがえのないものであったと観客に伝わる点にあるだろう。このふたりにだけは幸福になってほしい、豊かな未来へ向かってほしいというていねいな描写があってこそ、それが失われた際の悲しみが際立つ。そして最終的には、誰もができごとの当事者として、避けがたい苦しみや喪失に直撃されながら生きていくほかないのだと痛感させられるのだ。

*1 http://top.tsite.jp/entertainment/book01/i/280533...
*2 吉田修一『怒り』(中公文庫)下巻 p42
*3 原作では、「支援を必要とする子供」(上巻p154)という表現が登場し、前後の文脈から娘の知的障害を示唆する。また、性風俗において軽度の知的障害を持つ女性が雇われるケースがあり、労働環境や待遇の改善を要求する交渉能力がないことから過酷な状況下で搾取される問題は、NHKでも報道されている( http://www.nhk.or.jp/heart-net/tv/summary/2013-12... )。本作における槙愛子(宮﨑あおい)は、こうした背景を反映させた登場人物であると予想できる。

『怒り』
公開日:2016年9月17日
劇場:全国東宝系にてロードショー
監督:李 相日
出演:渡辺謙、森山未來、松山ケンイチ、綾野剛、広瀬すず、佐久本宝、ピエール瀧、三浦貴大、高畑充希、原日出子、池脇千鶴、宮﨑あおい、妻夫木聡
配給:東宝
© 2016映画「怒り」製作委員会

ケイクス

この連載について

初回を読む
およそ120分の祝祭 最新映画レビュー

伊藤聡

誰しもが名前は知っているようなメジャーな映画について、その意外な一面や思わぬ楽しみ方を綴る「およそ120分の祝祭」。ポップコーンへ手をのばしながらスクリーンに目をこらす――そんな幸福な気分で味わってほしい、ブロガーの伊藤聡さんによる連...もっと読む

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード

コメント

campintheair cakes連載更新、今回は 約3時間前 replyretweetfavorite