とにかく町田樹が好きだ

以前、前園真聖を取り上げた際にも触れていた町田樹。一段落だけの町田樹論でしたが、武田砂鉄さんの文章から溢れ出る樹愛を感じた方もいらっしゃったのではないでしょうか。今回の「ワダアキ考」は、お待ちかねの町田樹一本勝負。武田さんの止まらない町田樹への思いをご堪能ください。

良さげなコメントで済まさない

今回の文章は長くなります。とにかく町田樹が好きなのだ。2014年末の全日本選手権で引退を発表してから2年が経とうとしているが、技術よりも精神で競技に挑んでいった彼のことを頻繁に思い出す。その理知的な発言の数々を受けて「氷上の哲学者」と呼ぶのは結構だが、それを面白がる向きが最後まで抜けきらなかったのはなかなか残念だった。現役引退後の2015年4月、プリンスアイスショーに久々に登場した町田は、マスコミが要望した取材を一切受けずに、文書でコメントを発表した。そこには「作品のコンセプト等に関しましては、私のオフィシャルウェブサイトにて情報を公開しております」とあり、奥へ奥へと進ませるロールプレイングゲーム的構造にうっとりした。スポーツ番組や新聞が欲する「良さげなコメント」を適宜撒くのではなく、自分の想いを綴った長文へ誘い込むのが町田樹である。

そこに記された、シューベルトの楽曲を用いた『継ぐ者』への想いはこうだ。「人間は誰もが何らかの『継承者』と言え、その人生を全うする過程で、『受け継ぐ者』と『受け渡す者』の両者を経験することになるはずです。人から人へと連なる、過去へも未来へも永遠と続く、その連綿たる連鎖の中に存在すること」、これが久々に人前で滑るにあたっての態度表明である。「引退されて、その後どうですか?」的なざっくり質問をかわすために、こういう長大なコメントを用意する。自らを「連綿たる連鎖の中に存在する」と定義付けるスポーツ選手を他に知らない。

ジョン・スタインベックに大きな敬意

2013年グランプリシリーズの事前記者会見で、各々の出場選手がパネルに書いた目標を発表するなか(例:浅田真央「ソチへ前進」)、町田樹は「Timshel…汝、治むることを能う。自分の運命は自分で切り拓く!」と書いた。その日の司会は松岡修造。困惑する松岡と飄々と語る町田の構図は会場の笑いを誘ったが、笑いで済ますべきではない。分からない事を差し出された時に笑って対応するって、「気合い」の力学のみで乗り越えようとする人が使う作法で、好きじゃない。そのグランプリシリーズの初日、ショートプログラムで1位になると、町田は「まずは僕のショートプログラムのプロットにもなった、『エデンの東』の作家であり、アメリカ文学を代表するジョン・スタインベックに大きな敬意を」と語った。4分冊されているハヤカワ文庫の「第3巻24章2節」が自身の演技の心臓部であり、ここに「ティムシェル」という言葉が出てくる。好成績に終わった日、観衆やコーチよりも、真っ先にスタインベックに謝辞を述べるのが町田だ。

町田を評するのに、ジャンプやスピンの精度などの技術面を語るのではなく、まずは精神面から見定めるべしというのは、見るべき人には分かっている。鈴木明子は『プロのフィギュア観戦術』(PHP新書)の中で、町田の事を「自分の個性を確立して、作品としてプログラムを作る芸術家」と評しているし、八木沼純子は『アイスモデリスト』(文春文庫)の中で、彼の演技を「内側にあるものを一斉に集合させて表面に出した感覚」と評している。八木沼は、アイスショーで町田の後に滑ったエピソードを明かし、それは「なかなか気が引ける」経験だったとする。なにせ、その日、照明チームが町田の演技に見とれてしまい、明かりを間違えるほどだったのだから。

彼の愛読書、ヘーゲル『美学講義』を読む

2014年のソチ五輪を5位で終えた町田、競技が終わってから1週間後に「(五輪に)もう一度出たいという意欲も湧いてきたのでは?」とサラリと問われたものの、町田は当然、「はい」「いいえ」では答えない。「もし僕の人生が無限で、老化することもないのであれば、何回でも出てみたい。けれど人生には限りがあるものです」(『Number PLUS FIGURE SKATING TRACE OF STARS SOCHI 2014』)が彼の答えだ。スポーツ選手は頻繁に「自分との戦い」などと言うし、それを何人もの選手が繰り返すものだから、聞く方も答える方も、さほど実体がなくとも頷き合う。でも、町田はこういう言葉を安易には使わない。

彼が事あるごとに、自身のスケート観の軸となる書物だと語ってきたのが、ドイツの哲学者・ヘーゲル『美学講義』である。『Get Sports』が彼の自宅に潜入した時の映像を細かく追うと、本棚に、上・中・下で1300ページを超える『美学講義』(長谷川宏・訳/作品社)が置かれている。彼は、ヘーゲルが「人間の精神活動の最高位を占めるものとして、芸術と宗教と学問の三つを考える」ことを受けて、芸術にスポーツを加えたものがフィギュアスケートなのだと語る。この長大な『美学講義』の、とりわけどこに影響を受けたのかについての詳細を語らないが、先述の番組で、その書からほのめかすように、上巻の序論「Ⅲ 芸術美の概念」をカメラに収めさせている。ならば、この箇所を重点的に追ってみよう。

「感覚的要素は、外から精神にあらわれる」

ヘーゲルは芸術作品の特質として三点を挙げる。「a.芸術作品は自然の産物ではなく、人間の活動によって成就されるものである」「b.芸術作品は大なり小なり感覚的なものを素材として、人間にむけて、しかも、人間の感覚にむけて作られる」「c.芸術作品は目的をうちにもっている」。まさに町田が感覚を重視し、外に見せつける技術よりも内に持つ感覚を何よりも鍛え続けてきたルーツと言える。しかし、フィギュアスケートが採点競技である以上、その内的な感覚をそのまま留めておくだけではいけない。それだけでは、試合には勝てないからだ。

ならば、『美学講義』からもう1ヶ所、やや難解な箇所を引用する。芸術作品は「観念的といっても、思想ほど観念的ではなく、同時に物として外界に存在もします。精神が対象の本質的な内面に降りていくことなく(降りていけば、対象は個物として外界に存在するものではなくなる)、その存在をそのまま受けいれるとき、見せかけとなった感覚的要素は、事物の形や外見や音として、外から精神に立ちあらわれます」。町田が拠り所にしてきたのは、この箇所ではないか。

調査名「フィギュアスケートと文化芸術の接点に関する調査」

引退した町田は、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科に在籍して研究者の道を歩みつつも、時折アイスショーに登場している。7月のアイスショーでは、入場者に向けて、自分の研究に活かすため、社会調査のアンケートを配っている。質問数は21問、その調査名は「フィギュアスケートと文化芸術の接点に関する調査」である。痺れる。自身が選手として取り組んでいた試みを、今度は学問で解き明かそうとしているのだ。

今回はもう、引用ばかりになってしまう。2014-15シーズンからボーカル曲の使用が解禁されたが、この事について町田は「果たして選曲の幅が拡がると同時に、『振付(Choreography)』における個性の創出が促され、『音楽の解釈(Interpretation)』は深度を増したのでしょうか」と疑い、「私たちはボーカル曲を選択するときはいつでも、言葉と旋律によって構築されてすでに完結しているその作品を、さらに身体で表現する— ということの意味を、自らに問う必要がある」(公式サイトより)と注文を付けた。

町田樹に向かう世間の反応がそうだったように、私たちは突飛な言動を前にすると、周囲の人たちと一緒になって笑い合うという悪癖を持つ。町田の「氷上の哲学者」というテーゼにも、その手の「(笑)」「(失笑)」が付着していることが多かった。それは町田樹を根本から誤解している。そういう誤解を払拭すべく、130回ほど続いている連載史上、最も真摯に、該当人物の魅力を伝えることに専念してみた。

(イラスト:ハセガワシオリ


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365日四六時中休むことなく流れ続けているテレビ。あまりにも日常に入り込みすぎて、さも当たり前のようになってしったテレビの世界。でも、ふとした瞬間に感じる違和感、「これって本当に当たり前なんだっけ?」。その違和感を問いただすのが今回ス...もっと読む

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consaba 武田砂鉄  良さげなコメントで済まさない  約1時間前 replyretweetfavorite