ダウンタウンさん、ウッチャンナンチャンさん、清水ミチコさん、野沢直子さんによる伝説のバラエティ番組「夢で逢えたら」が全国的な人気を得始め、それぞれが時代の顔として輝きだしていた、あの頃。
必要に応じてボケとツッコミが入れ替わるウンナンさんや、それぞれがピン芸人のミチコさん、直子さんはともかく。
大げさに聞こえるかもしれないが、マンザイブームを見て育った僕からすれば、役割が明確に分かれているにもかかわらず、ボケもツッコミも消えそうにないという漫才コンビの存在は、おとぎ話に等しかった。
だから——。
ダウンタウンさんの登場は、冗談抜きで、お世辞抜きで、僕にとっては「UFO見た!」ぐらいの衝撃だったのだ。
ツッコミの浜田さんは、それまでの誰よりも激しい「どつき+罵詈雑言」ツッコミを携えて世に打って出た。
無論、その傍若無人なスタイルには批判も多かったが、その絶大なるインパクトと面白さは、賛否両論どちらにおいても「この男は消えそうにない」という想いを共有させた。
ツッコミでも、生き残れる。
少なくともテレビの世界において、漫才コンビはボケの方しか必要とされないという常識を、マンザイブームが定着させた視聴者の一般常識を、ダウンタウンさんは、ツッコミの浜田さんは、これからの非常識に変えたのだ。
そんな浜田さんは、あっという間に僕ら世代が目指すべきツッコミの教祖となり、浜田さんの破天荒なスタイルに若手芸人のほとんど全員が感化された。
その結果、漫才やコントのツッコミが日毎に激しさを増し続けるという波が、一気にお笑い界の底辺に押し寄せたのだ。
そこかしこに溢れかえる罵声、怒号、暴力。
その光景を見た師匠たちは一斉に眉をひそめていたが、しかしそれは、僕ら世代の芸人にとっては当然の選択だったと思う。
ボケと同等にツッコミが輝くためには、どうすればいいのか。
その教本は「著・浜田雅功」一冊しかなかった。
正確に言えば、本棚の奥の方には「著・横山やすし」と「著・オール阪神」も置いてあったが、どちらの師匠も子供の頃からお笑いコンテストの常連として有名で、プロになることがニュースになるほどの逸材だったから、スタートから違うし、世代も離れているし、そもそも「やすし・きよし」と「阪神・巨人」の漫才スタイルは、今風にいうと「Wボケ」だ。その教本は一般向けではないような気がして、進んで手に取ろうとは思えなかった。
年齢も近いし、わかりやすいし、ツッコミに徹しているし、何よりもズバ抜けて面白い。
そんな浜田さんのツッコミを真似するな、憧れるな、意識するなというのは、僕ら世代のツッコミにとっては「おとなしく消えなさい」という業界からの早期退職者募集にしか聞こえなかった。
だから、誰もが唯一無二の教本となった「著・浜田雅功」を片手にツッコミを研究したのだ。
やがて叩きツッコミは、跳び蹴りや体当たりなど、より過激なツッコミを派生させた。
言葉使いも暴力的なものから、オネエ口調や意味不明の電波系まで、様々なアプローチに枝分かれしていく。
そうやって続々と現れる、浜田さんテイストのツッコミ芸人。
師匠たちから何と言われようと。
ダウンタウンの粗悪コピーと揶揄されようと。
浜田さんにどう思われているのかも置いといて。
ツッコミにも「個性」が求められる時代に突入した以上、それを浜田さんが証明した以上、そこから目を背けるわけにはいかないのだ。
この世界で生き残るために。
ボケより先に消えないために。
同世代のツッコミ芸人はみんな、試行錯誤を始めていた。
そんな時流の真っ直中で。
僕は完全に出遅れていた。
基本ができていないのだから。
ど真ん中のボールにバットが当たらないのだから。
いや、そもそもツッコミの言葉というバットを持っていないのだから。
バッターボックスに入ることの方がおかしいのだろう。
ましてや、僕は生まれてこの方、殴り合いの喧嘩をしたことがない。
単純に、人を叩いた経験がなかった。
しかも、中学時代にバスケ部で「捕虜」というあだ名がつくほどの運動音痴だったから、いざツッコミで後頭部を叩けと言われても、叩き方からタイミングから腕の振り方からスナップの利かせ方から、とにかく全てがちんぷんかんぷんで、何ひとつ上手くいかない。
諦めるわけにはいかないけれど、どう練習しても、僕に浜田さんのようなツッコミはできなかった。
だからといって、浜田さん風のツッコミ以外に光明は見えない。
「漫才コンビのツッコミは、いずれ消える」
せっかく浜田さんが剥がしてくれた張り紙を、僕は漫才が終わる度に黙読しなければならなかった。
そんなある日、博多温泉劇場にふらりとやってきたのが、大木こだま・ひびき師匠だった。
オーソドックスなしゃべくりを基本とするこだま・ひびきの漫才は、当時みうらじゅんさんが「大阪の最終兵器」として各メディアに紹介するほどで、僕は師匠たちがやってくるのをイチお笑いファンとしても心待ちにしていた。
舞台袖の音響テーブルで。
初めて目撃した大木こだま・ひびきの15分ネタ。
この15分が、僕の固定観念を根本から覆す。
何でこんなことに気がつかなかったのだろう。
それは灯台下暗しというよりも、コロンブスの卵のような15分だった。
ツッコミのひびき師匠は、15分の持ち時間でただの一度も、こだま師匠を叩かなかった。
叩けなかったのではない。
明らかに、叩かなかったのだ。
叩けないのなら、叩かなければいい。
言葉と身振り手振りだけで、ツッコミは成立する。
なんやキミ、こんな漫才、見たことなかったんかいな?
そんなんで漫才師を名乗られたら、往生しまっせ~!
15分という持ち時間を爆笑のうちに終わらせた師匠たちの背中が、僕にそう語りかけてくれたような気がした。
元々、面白くなかったから。
素材そのものが悪かったから。
僕たち福岡芸人には大阪で完成されたパッケージが、ボケは派手にボケて、ツッコミは派手にツッコむというマニュアルが与えられ、その施行を義務づけられていた。
博多温泉劇場は新喜劇がメインの公演だったから、お客さんはドタバタしたわかりやすい笑いを求めている。ならば自分たちの漫才も、その期待に応えなければならないと意気込んでいた。
ましてや、テレビの中では浜田さんが時代の寵児になりかけている。
恥ずかしながら憧れていたし、周りもみんなそこを目指していた。
何度も何度も舞台袖からこだま・ひびき師匠の漫才を見ているうちに、そんな状況証拠の積み重ねが、僕に漫才の定義を決めつけさせていたことに、ふと気づく。
まだ何者でもないのに。まだ何も出来ないのに。
漫才とは? という、人生をかけて出さなければならない設問の答えを、僕は勝手に導き出していた。
もう一度、最初から考えよう。
ダウンタウンさんばかりを見ていたけれど。
ダウンタウンさんの流れを汲む同世代について行こうと必死だったけれど。
劇場にはこだま・ひびき師匠のような漫才もあるんだ。
この選択が正しいかどうかはわからない。
だけど、土台、僕には無理だから。
僕には叩けないし、僕の博多弁には切れ味がないし、どうやったってストレスしか溜まらないから。
浜田さんのような激しいツッコミは、やれる人はやればいい。
それでいいんじゃないのかな?
それに、ダウンタウンさんのルートはこの先きっと大渋滞する。
だったら、いっそのこと引き返して、こだま・ひびき方面にハンドルを切ろう。
不安なのは、こっちのルートは叩かない分、わかりやすくない分、ツッコミ側に説得力がないと話にならない。
それは言葉だけの問題ではなくて、ある程度のキャリアや年齢が絶対に必要だ。
できるできないは考えないとしても、華丸はそれまで待ってくれるのだろうか?
「俺も好きやけど、なんでなん?」
最初に華丸がこだま・ひびき師匠みたいになりたいと言い出した時、僕はそんな思いを隠して聞いてみた。
「だって、漫才の合間にゴルフしたり競馬したりパチンコしたり、楽しそうやん。しっかり笑い取って、他は遊びよっちゃけん。あれが本物の漫才師バイ!」
それが本音だったかどうかは、わからない。
ただ、振り返ってみれば。
あの頃の状況を、あの頃の空気感を、あの頃の日常を、あの頃の僕たちをじっくりと思い返してみれば。
この提案は華丸からの「お前、そげん焦るな」という間接的なメッセージだったような気がしてならないのだが。
真相は藪の中。今さらつつく必要もないだろう。