私は詩人じゃなかったら「娼婦」になっていたのか?

大学から詩人として講義の依頼を受け、おそるおそる壇上にたった文月悠光さん。そこで「異端者」として紹介されるや、なんとも乱暴な質問をされてしまいます。その時うまく答えることができなかった文月さんは、胸の内にずっとモヤモヤを抱えてしまうのでした。一体あのときなんと答えるべきだったのか。なんでモヤモヤしているのか。臆病な風を払いのけ、気持ちの在りかを綴ります。

 その日、私は都内某大学の教壇に立っていた。〈現代の日本社会において詩人であること〉といった切り口で自由に語ってほしい、と知人の教授に頼まれたのだ。

 詩人であること、か。なんだかむず痒い気持ちだ。

 大学を卒業してから二年経つとはいえ、私は教壇よりも学生として席に座っている方がまだしっくりくる。でも、同世代の自分が教壇に立つことで、「詩人」を身近な存在として学生に受けとめてもらえるなら、と恐れ多くも講義のゲストを引き受けた。

 当日は緊張で冷や汗をかきつつも、40人ほどの学生の前に立った。詩を書きはじめたきっかけや詩人の仕事について話し、紹介がてら作品を朗読した。

 事が起こったのは、後半、教授による公開インタビューの時間に入ったときだった。教授は「ふづきさんにいくつか質問をします」を告げるなり、こう尋ねた。

「cakesの連載で『詩を書いていなかったら、キラキラした女子になれたのでは?』と編集者に言われた、とあるね。でも、果たしてそうなのか。逆のパターンもありえたんじゃないか。『女子大生風俗嬢』という本も話題になっていてね。詩人と娼婦は似た部分があると思うんだ。
 もしかしたら、ふづきさんも詩を書いていなかったら、風俗嬢になっていたんじゃないか。ふづきさんは娼婦についてどう思う?」

 一体何を言い出すのだろう。「それを聞いてどうするんですか?」と口走りそうになるのを、ぐっとこらえる。この質問は、教授の仕掛けた一種の「プロレス」なのだろう。怒りに身を任せて、学生たちの前で取り乱すのは得策ではない。さて、どう答えるべきか……。

 壇上で80あまりの瞳に見つめられ、ガラス張りの実験器具に入れられたような感覚に陥った。

壇上にいる間、私はひどく息苦しかった

 私は「きわどい質問ですね……」と言葉を選びながら、次のように答えた。

「性風俗や水商売などのナイトワークに就く女性の多くは、経済的な事情を抱えていますが、その内情は多種多様です。『どう思うか?』と問われても、今ここで、その立場にいる女性の気持ちを想像するのは難しいですし、実情を知らないまま語るのは暴力的に思えます。向き合ってみないとわからない、というのが本音です」

 私は学生時代、風俗嬢ライター・菜摘ひかるのエッセイを愛読し、一種の中毒のように何度も読み返していた。文章に描かれた、労働することの辛さや歓び、激しい渇望は、風俗嬢という職業の枠を超えて、私を強く惹きつけた。魅了される気持ちの中には、働くことへの憧れと、性の仕事に対する下世話な好奇心も入り混じっていたように思う。その「好奇心」の中に差別的な目線はなかっただろうか、とのちに深く恥じた経験がある。

 だからこそ「どう思うか?」という質問に対する答えは、そうやすやすと見つからない。教壇の上では「向き合ってみないとわからない」と、距離を取るような言い方しかできなかった。

 教授の表情は不満げだった。

「どうも、ふづきさんと娼婦の間に壁を感じるね。壁の向こうから語っているみたい」と納得できない様子。
 私は内心ゲンナリしつつ、「壁、というか。当事者ではないのに、外側の印象だけで勝手に語ることはできません」と淡々と告げた。


 あの無遠慮な質問に、どう振る舞うべきだったのだろう?
 講義から数ヵ月が経った今も、私は嫌悪感に苛まれ、原稿を書き出しては手が止まっている。セクハラじみた質問に対して、私はあの日、動揺を隠すので精一杯だった。なぜもっと率直に反応できなかったのか。怒りと悔しさが渦巻いて、意識を離れない。

 私は苦笑いなどするべきではなかった。あの場で、きちんと生の声で怒りを表明するべきだったのだ。

「娼婦ってなんですか? 自分の意志で性風俗の仕事を選んだ女性もいれば、やむにやまれず、その仕事に就いた女性もいるでしょう。それを『娼婦』とひとくくりにして、私がどう答えたら満足ですか?
『興味がある』と答えたら、私を『性に奔放な女』にカテゴライズするんですか? 『無理です。やりたくない』と答えたら、『性風俗業を蔑視する女』にくくるんですか? 誰もそんな風に一方的に決めつけられたくないんです」


 今思えば、教授の用意した環境自体が、いささか勝手なものだった。
 事前に講義の段取りを打ち合わせした際、私はある新聞記事を取り出し、こんな提案をした。

「学生の興味を引くような自己紹介が必要だと思うんです。先日、東京新聞でcakesの連載のことや、私の活動を取り上げてもらったので、この記事を学生に見てもらうのがわかりやすいんじゃないかと……」

「記事は見たよ。でも今日は、あえて事前情報なしに文月さんをぶつけてみようと思って。生の詩人を見せて、学生たちの目を覚醒させたいんですよ」と教授はしたり顔で、にやりと笑う。
 ぶつける? 私は強いプレッシャーを感じ、思わず目を伏せた。

 講義の開始時、教授からは次のように紹介された。

「この教室の中には、今就職活動に励んでいる方もいますが……。あなた方の先輩には、その道からあえて外れた『異端者』が存在するのです! 今日はその『異端者』を連れてきました!」

 力強い教授の言葉とは裏腹に、私は顔からサーッと血の気が引くのを感じた。一方的に「社会を逸脱した異端者」のレッテルを貼られてしまった。

「私は詩人として、企業に就職せず、フリーランスで生活しています。……先ほど『異端者』と紹介していただきましたが、私自身はごく慎重に『どうしたら執筆を中心とした生活を維持できるだろう?』と考えて、この状態に落ち着きました」

 私は教壇に立った瞬間、「異端者」のレッテルを剥がすところから話を始めた。仕方がない。とにかく「詩人=特殊な人」という印象を払拭しなければ。

 壇上にいる間、私はひどく息苦しかった。「詩人」という偶像を介して話すことを強いられているようで、もどかしく、不自由な心地がした。今振り返ると、単なる緊張とも違う、一方的な負荷をかけられていたように思う。

 講義の終了後、教授はとりなすように「あの質問は、場の空気をほぐそうと思って敢えてぶつけてみたんだ」と弁解した。
「ぶつけ」ないと気がすまないのか、「手渡す」気がないんだな、と思いながら、私は曖昧に苦笑いするしかなかった。

乱暴な質問で答え合わせをする人々

 講義の一件にとどまらず、私は無遠慮な発言に反論することが苦手だ。目上の相手を怒らせたり、場の空気を壊したりすることが怖くて、半ば無意識にひるんでしまう。
 その気質と、大人しそうな見た目のせいか、公私問わず、乱暴な質問をぶつけられることが少なくない。

 朗読会に出演すれば、初対面の男性客に「朗読にエロスが感じられないね。最近セックスしてる?」と尋ねられ、父親ほど年の離れた人から「子宮のことを詩に書いているけど、産んで育てるという自分の女性性を意識しはじめたのは何歳から? 生理がきっかけなの?」と無邪気に質問される。

 悪意なくそんな言動をとる人は、どこか無神経であるか、ひどくロマンチストなのだろう。彼らは相手の気持ちを汲むことなく、「こうであってほしい」という願望、支配欲を無自覚に“ぶつけ”てくる。
 もちろん人は、男女問わず誰しも、他者に自分の願望を投影する。それ自体はごく自然なことで、なんら人を傷つけるものではない。ただし、自身の幻想を一切疑わず、「正しいもの」として誰かに押しつければ、その人の意思を踏みにじることになる。

 私は乱暴な質問をぶつけられるたび、「私の意見を聞きたいのではなく、自分の求める幻想の〈答え合わせ〉をしに来たのだな」と虚しい気持ちにかられてきた。


 私はどうしても納得がいなかった。なぜ大学の教室という公の場で、教授に「幻想」を“ぶつけ”られなくてはいけなかったのか。

「詩人と娼婦は似た部分があると思うんだ。ふづきさんも詩を書いていなかったら、風俗嬢になっていたんじゃないか。ふづきさんは娼婦についてどう思う?」

 そもそもこの発言は、あまりに短絡的ではないだろうか。女性詩人という「社会の枠から外れた少数者」であるだけで、「娼婦」になる可能性を公然と問いただす……。仮に私が男性の書き手ならば、売春の可能性など教授は思いもしないだろう。

 けれど本音を言えば、こうして丁寧に解きほぐすまでもなく、あの発言は「気持ち悪い」ものだった。

「ふづきさんも詩を書いていなかったら、風俗嬢になっていたんじゃないか」

 その言葉は、私の耳にはこのように響いた。

「今は詩人の顔をして教壇に立ってるけど、お前は娼婦なんだぞ! 私とそういう関係になってもおかしくないんだぞ!」

 大げさではなく、そんな風に聞こえたのだ。

 講義の翌日も怒りを引きずっていた私は、質問の音声をそのまま録音・ループ再生して、「この気持ち悪さ、わかりますよね?」と教授本人に聞かせてやりたい衝動にかられた。だが、そうしてみたところで、彼は自分の言葉を疑わず、自身の幻想を肯定するだろう。

 心の中でひっそりと幻想を温める分には、その人の自由。場によっては、それは「微笑ましい」こととして受けとめられる。けれど、それを公然と誰かに「ぶつけ」たら、相手は決して微笑まない。「どうかしている」と呆れ果てるだけだ。


 あの日、私が教壇で見つめていたのは、教授の顔ではなく、20歳前後の学生たちだった。教室の後方で、所在なげに腰かけていた女子学生たち。そこに、かつて学生として座っていた過去の「私」の姿を見たのだ。

 教授の言葉に違和感を抱きながらも、手を挙げることができず、うつむいてしまう20歳の「私」。彼女の手を引いて、教室の外へ連れ出したかった。息苦しい教室を脱し、広やかな街へと導きたい。

 私は今、ここで改めて口を開こう。

〈現在の日本社会において詩人であること〉って?

 言葉による暴力を許さないこと。この瞬間を切り取るためにペンを走らせ、声を上げること。醜い言葉を撃ちつづけること。
 窒息しそうなこの世界に、言葉で風穴を開けること—。

 そう、これが私の答えです。

文月悠光の初エッセイ集『洗礼ダイアリー』は、9月6日ポプラ社より刊行予定!

洗礼ダイアリー

文月 悠光
ポプラ社
2016-09-06

この連載について

初回を読む
臆病な詩人、街へ出る。

文月悠光

〈16歳で現代詩手帖賞を受賞〉〈高校3年で中原中也賞最年少受賞〉〈丸山豊記念現代詩賞を最年少受賞〉。かつて早熟の天才と騒がれた詩人・文月悠光さん。あの華やかな栄冠の日々から、早8年の月日が過ぎました。東京の大学に進学したものの、就職活...もっと読む

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード

コメント

km1121_k |文月悠光 @luna_yumi |臆病な詩人、街へ出る。 早く先を読みたい。頭はそう求めるのだけど、どうにも息苦しい感じがある。心は嫌がってた。好き。 https://t.co/yDiIIJMSt3 約2時間前 replyretweetfavorite