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弱者、下流、底辺、マイノリティ、貧乏人は階層を上がれるのか

思うこと web日記

話題のブログに書かれていた「底辺から階層を上がる」って何なのか、一日考えていた。

 

元エントリーの書き手はステイタスになる仕事に就くことは階層が高く、セックスワークや肉体労働など差別される職業に就いていることは収入の多寡によらず階層が低い、すなわち底辺と考えた。書き手は「底辺と接触すると自分の人間性や社会生活に影響するから接触してはならない」と主張する。

 

つぎに「底辺出身者は元いた階層への差別意識が強くなりがちだ」と書いた書き手があらわれた。こちらは底辺を学歴の低さと結び付け、自身の私立中学進学を脱底辺と結び付けていた。また公立小学校の暴力的ないじめを底辺社会のありようと結び付けている。

 

元エントリーを読んだとき、書き手はおそらく個人的に見下している相手と衝突して、腹立ちまぎれに感情任せなエントリーを上げたのだろうと思った。しかし続くエントリーの書き手は面白半分の炎上目的ではなく、どうやら本気でそういう構造を現実と結びつけているようだった。

 

もっと驚いたのは後者の「自分が底辺から階層を上がれた幸運を棚に上げて、底辺にとどまらざるをえない不運の人を見下すべきではない」というエントリーが上がったとき、多くの人がこの意見を擁護していたことだ。わたしはちょっと頭がこんがらがった。元エントリーへの非難は偏った差別意識への非難だと思っていたけれど、違うのか。「確かにそういう人たちは底辺だけど、不運にも底辺でいる人を見下すのはよくない」という話だとしたら、わたしはこれにとても同意できない。

 

「底辺」はいかにして「階層を上がる」のか

二人の書き手の主張はだいぶいろいろなものがごっちゃになっている。そもそも底辺とは何を指すのか。

 

上流、下流ということでいえば、卑劣な暴力で人を追い込むのは下流社会お家芸ではない。いわゆる上流階級にも陰湿ないじめはある。日本のセレブの頂点に立つ美智子皇后陛下がどれほどご苦労なさったかを見れば一目瞭然だ。もともと上流階級というのは封建的なところで、とうていあらゆる人を温厚に受け入れる用意はない。どんなに努力したところで出自を書き換えることはできないのだから、下流から上流に上がるのは不可能だ。どれだけ人間的に素晴らしかろうが、収入がよかろうが、いいお家に生まれ育った坊ちゃん、嬢ちゃん以外は上流階級の仲間入りはできない。上流下流という点では下流が「階層を上がる」ことはありえない。お情けで末席に座ることを容認してもらえる程度だ。

 

環境でいうなら下流の人間がそろって不誠実かといえばそうではないし、上流階級が倫理的な誠実さを持ち合わせているかといえばもちろん違う。*1また上流、下流問わず機能不全家庭は存在する。DV、不倫、児童虐待は経済的、文化的素養で必ずしもなくならないし、人間的な誠実さは学歴やキャリアによって保証されない。つまり人間関係の良好さや円熟という点でも社会的ステイタスによって「階層を上がる」ことはできない。*2

 

残るは経済的安定と教養、学歴、家庭内の文化的素養で、これらはあれば確かに武器になる。挑戦できる仕事も増えるし、交際の範囲も広がる。要するに出世するチャンスに繋がる。経済的な支援と学歴と文化的土壌の豊かな生育環境は大きな財産になる。いわゆる「育ちのよさ」の利点はこれだ。

 

この点で階層を上がるために自力で働き、学歴と教養を身に着けることまではまずまずできる。文化的な土壌が家になければ名門校の坊ちゃん嬢ちゃんとお近づきになる。*3昔はいいお家に奉公へ上がったりしたのだろう。

 

こうして既得権益を得ている体制側に好かれる人間になるコース、これが「階層を上がる」ということなのだろう。この道をがんばって走り続けた方はご苦労様でした。夢がかなってよかったね。でもそれが万人が目指すべき正しく賢い道か、といったらそれは違う。

 

王道礼賛の弊害

関心される学歴、聞こえのいい仕事、飾りになる配偶者と競争に勝つ子供。それにランク付けをして他者を見下す幼稚さが元エントリーにはよくあらわれていた。webに匿名でこういうことを書くのは別に珍しくない。いちいち拾ってブクマするなんて猛暑すごいなと思ったくらいだ。

 

わたしが驚いたのは後続のエントリーがその価値観を追認し、自分たちの世界での理想に達することができない人たちに理解をしめすべきだとしたこと、そこに共感の声が集まったことだ。学歴とキャリアによって貧困から脱したのなら恵まれたことだ。しかしどの階層にも見られる残酷な子供のいじめを底辺社会特有の文化とすることは、差別そのものではないのか。そして感情的で幼稚な差別意識を開陳したエントリーを指して「書き手は底辺出身者だから」とするのはあまりに露骨な差別ではないのか。

 

「弱い者たちが夕暮れ さらに弱いものを叩く」という歌があったけれど、目糞が鼻糞を笑い、耳糞がそれをいさめて爪の垢が呆然としている感じ。これが底辺の地獄というものか。 

 

元エントリーの問題はその視野の狭さだ。

 

キャリア志向ですばらしい肩書を持てた人は幸せだけれど、それ以外の夢を叶えて生きている人も幸せだ。両者に貴賤はない。1円にもならないウルトラマラソン百人一首に打ち込む人、地方で親子三代子育てする人、信頼される日雇い職人で一人暮らしをとことん楽しむ人、名家を飛び出し遺産を放棄して愛する人と家庭を築く人、いろいろな幸せがある。聞こえがいいかどうかを根拠に人を見下す理由はない。

 

自分のキャリアから世間的な階層を位置づけをはかり、それによって自己価値をはかっている人たちは、そこから外れたところで人生を謳歌する人たちをどう見ているのだろう。そして人生の荒波にのまれてそこから投げ出されたとき、社会が真っ向から自分を否定するとき、どうやって自分を支えるのだろう。常に社会が正しいとは限らないのに。

 

kutabirehateko.hateblo.jp

*1:表面的な繕い方は洗練されているだろうけれどね。

*2:西原理恵子は「地元中学のスクールカーストの頂点は喧嘩の強いDQNDQNが崇めるのはヤクザで、DQNとヤクザに目をかけてもらうことが女子のステイタスだった」と書いている。少女らは早くに妊娠、結婚、DV、離婚、母子家庭と判で押したようなコースをたどったという。これは本当にひどい。では富裕層の高学歴な子弟が異性関係に誠実かといえばそうではない。西原は代々医者の家系である恋人の高須克弥が、学生時代身の回りの世話をする女子を囲っていたこと、気まぐれに山の中に放置して車で逃げたことも書いている。上流の子らは親の力と表面的な小賢しさによって隙だらけのDQNより足が付く回数が少ないというだけだ。

*3:バックにスポンサーがいればね。