「他人から見ると嫌な仕事でも楽しめるんです」FiNC副社長・元みずほ銀行常務・乗松氏、67歳のベンチャー魂【Part1】
スマートフォンで専門家のオンラインヘルスケアサポートが受けられる「FiNCダイエット家庭教師」や、法人向けのウェルネスサービス「FiNCプラス」などを提供する、モバイルヘルスに特化したテクノロジーベンチャー、FiNC。
同社は創業4年目にして社員も100名を超え、急成長を続けている。今年の4月に設置したアドバイザリーボードには、元ミクシィ社長の朝倉氏、元LINE社長の森川氏、他19名の実績豊富な錚々たるメンバーが就任し、注目を集めた。
代表取締役副社長の乗松氏もまた、みずほ銀行常務、協和発酵キリン常務、協和発酵フーズ社長、総合商社ミヤコ化学社長など、幅広い企業経営の経験を持つ人物だ。
しかし乗松氏が同社に加わったのは、2年前。FiNCの成長ストーリーが描かれ始めたばかりのタイミングである。
36歳年下の創業社長・溝口氏の理念と熱意に惹かれ、14番目のメンバーとして常勤で入社し、同社を牽引してきた乗松氏に、その物語と人生観・仕事観を伺った。
いつの間にか親衛隊ができていました
—今回のインタビューでは幼少期から今に至るまでのストーリーをお伺いして、乗松さんの「人となり」を知りたいと思っています。元々どのようなお子さんだったのでしょうか?
戦後に静岡県の天竜市という田舎から出てきた両親で、貧しいながらも楽しい、そして真面目な家庭でした。あまり勉強をしろと言われたこともありませんが、成績は常に一番でした。
小学生の頃は目黒区の科学コンペで優勝したり、表彰をされることが何度かありました。顕微鏡や望遠鏡が大好きだったので、星や花粉を研究してスケッチしたりして、勉強らしい勉強ではなく、身の回りのことを自分から研究していました。
—没頭するタイプだったんですね。
そうですね。今でもそうなのですが、意外と引きこもりじゃないかと思います。友達と遊ぶというより、一人で図鑑の全ページを何十回も見返すとか、自分の世界に入って何かを作るとか。
—それは中学校でも変わらずですか?
そうですね。中学校でも集団で遊ぶタイプではありませんでしたが、話し始めるとめちゃくちゃ喋りますし、お茶目だし、責任感もあるということで、だんだんと有名になっていって、2年生の後半くらいに断トツの得票率で生徒会長になりました。
先生に目をつけられるような不良からも妙に人望があって、頼んだわけでもないのに『乗松くんを守ろうの会』という親衛隊が自然にできていました。笑
—成績優秀な生徒会長を守る会ですか?普通逆ですよね。笑
そうなんです。秀才は生意気だから何かしてやろうという話はよくありますが、不良たちの相談を聞いたり、そんなことしちゃダメだと諭したりしていたら、いつの間にか親衛隊ができていました。僕が外部の模試に行く時も、親衛隊は受けもしないのについてくるんですよ。他の学校の生徒にイジメられないか見張っているんです。笑
生徒会の選挙の時も「乗松を選ばないと承知しねえぞ!」ってヤジがすごくて。
—珍しいですね。
帰り道、コロッケを片手にくだらないことを話しながら、ついてくるんですけど、それが彼らも楽しかったのでしょうね。
嫌味な秀才ではなくて、静かだけど聞けば教えてくれるし、遊べばけっこう楽しいということで、人望はあったのだと思います。
—高校時代はどうでしたか?
入学した都立戸山高校は当時高校御三家と呼ばれていて、東京大学に年間130人くらい合格する進学校だったので、中学校まではずっと1番だったのが高校に入るといきなり学年で150番になって泣きました・・・。
でも学校の中では順位が低くても、東大に年間130人入る学校ですから外の模試を受けるとそこそこ良い線を行くんです。現役の時に東大以外の大学を受けると言うと「どうしたの?何か事情があるの?」と言われるような学校でした。
それで1年目は落ちて、2年目に受験しようとすると、安田講堂闘争で歴史上初めて東大の入試が中止になりました。
—私の父もちょうどこの時でした。東大を受けられなくて地方の大学に行きましたが、受けたら受かっていたと言っています。笑
なるほど。この時代はそうやって屈折した人が多いんですよ。笑
僕も受験が中止になったと決まった日から勉強はやめて、一人でスケート場に行ってクルクル回りながら、あーでもないこーでもないと人生を考えていました。
与えられた環境で生きるしかないと考えていました
それで慶應義塾大学の経済学部に進みました。大学時代は自分で言うのもなんですがすごく真面目で、授業は最前列で欠席なし、サークルは経済新人会金融研究部、ゼミは金融論。当時の経済学部は女性がほとんどいなくて、僕の周りは男性だけでした。
諦めきれない高校の同級生はいわゆる仮面浪人をして、もう一度東大を受け直していましたが、僕はここでベストを尽くそう、与えられた環境で生きるしかないと考えていました。これは今でも活きていて、例えば人が足りない時には人を揃えてから戦えるとベストですが、あらゆる戦いは迫ってきた敵に対して、今いる手勢で戦術と戦略を整えて努力するしかないですよね。
僕はあまり人をクビにするタイプでもなくて、その人の能力を最大限活かす、そのためにはどうすれば良いのかを考えますが、これは当時から備わっていたのだと思います。
—その考え方はスタートアップですごく活きますね。贅沢を言い出したらキリがないですからね。
キリがないですし、例えば外資系ではすぐに切るという厳しい競争の中にあって、それはある意味で緊張感を生むので重要なことだとは思いますが、だいたい組織はバリバリ仕事ができる人、普通に働ける人、あまり仕事ができない人の2:6:2に分かれます。そういうものと考えて、組織にいる以上は気持ちよく働けるよう、あまり仕事ができない人にもその人なりのやりがいを与えてあげたいと思っています。
ただ理念が合わなかったり、働きたくない人の場合はお互いのためにならないので、お引き取り頂きます。
出身や性別、家柄も全く気にしません。その人がどのような人で、どのように仲間として戦いに挑んでもらえるかしか見ませんね。
—さらっとお話されていますが、一般的にはそうでない方が多いですし、難しいことなのだと思います。
そうですね。
—大学卒業後は日本興業銀行に入行されますが、興味をもたれたのはなぜなのでしょうか?
元々、将来は興銀しかないと思っていました。銀行はいろいろな企業と付き合って、いろいろな夢を見ることができるのではないかと。
更に興銀は日本の産業を興す銀行ですから、当時は自動車産業だったり、化学工業だったりで「俺が世界を作ってやる!」という、いわゆるベンチャースピリットに溢れていた点が、非常にピッタリきました。ちなみにもし今同じ立場なら、FiNCしかないですね。当時の興銀は、今のFiNCでしょう。
—良いですね。
そんなわけで進路については全くブレなかったですね。目標から逆算して、こうすれば興銀に入れるというのをとことんやったので、就職の時も何の迷いもありませんでした。ただ入った瞬間に第一次石油危機が訪れまして、社会人生活は波乱の幕開けでした。
—興銀ではどのように働かれていたのですか?
興銀は全員が優秀で、日本を変えてやるという意気込みを持っていました。
当時は『人材派遣銀行』と言われていて、同期が60人しかいない時代で、会社の大小はあれど最後は8割くらいが常務や専務や社長になってキャリアを終えていました。
非常におおらかな銀行で、年齢に関係なく何ができるかで判断されていましたね。
興銀の看板があればどんな人でもだいたい会ってもらえるので、利用できる看板は利用しろと言われ、若い頃から企業の理事や役員や経理部長に会って可愛がってもらいました。そしていつの日か気がつくと、看板がなくても会ってもらえるようになります。有難い銀行でしたね。
—僕たちがイメージする銀行員とは全く違います。
銀行員を描いた作品はいろいろありますが、笑っちゃいますね。興銀は支店勤務でも全く問題ない、新人の時にどこの配属になったかなんて全く関係ない銀行なんです。
民間の企業にも出向したりして、若いうちは苦労した方が良いという考えです。僕も突然アラスカパルプに出向と言われた時は、ひっくり返りそうになりました。だからといって、めげることは全くありません。与えられた仕事で嫌な顔をしたことはありませんし、他人から見ると嫌な仕事でも楽しめるんです。
何が起きても驚かなくなりました
例えばニューヨーク支店にいた時、僕は経理のバックを務めていて、赤伝票と青伝票が合わないと決算ができないのですが、日本人なら合わない原因を突き止めようとするところを、向こうの人は片方捨ててしまいます。そうすると合うんです。苦笑
どうもおかしいということで、夜中にゴミ箱から全部のゴミを出して伝票を探しました。手伝ってくれるのは黒人のお姉さんだけ。そうするとそのお姉さんのキングコングみたいなボーイフレンドが外で待っていて、怒り狂った顔でドアをドンドンと叩いているんですよ・・・。
—めちゃくちゃ怖いですね・・・。
仕方がないので話に行って「君がそうやると彼女はなかなか帰れない、ただここでもし君が手伝ってくれたなら、彼女は早く帰れるよ」と。そうすると「そうか。じゃあ俺、手伝う」って。笑
—巻き込んじゃったんですね。笑
夜中にキングコングみたいな太い手で一生懸命伝票を数えて、ゴムでまとめてくれました。3時半くらいに終わって、嬉しそうにベタベタしながら”See you tomorrow , Mr.Norimatsu !”とか言ってニコニコ帰って行きました。最初会った時は殺されるかと思いました。笑
—そうやって仲良くなっていくんですね。
そうですね。何でも嫌がらないという姿勢だったので、結果的にいろいろと任せてもらえたのだと思います。銀行では支店にもいましたし、審査、営業、海外、企画、債券のチーフディーラーをやって、出向先のアラスカパルプから戻ってきて、最後は個人部門の統括をして、その後、三行統合してみずほ銀行の発足となりました。
ところが初日に悪夢のトラブルが起こりました。
—これはよく覚えています・・・。
ATMの前で役員が並んで、マスコミも来て、これからいよいよというテープカットの時に、広報が耳元で「動かないんです!動いていないんです・・・!」と言うんですよ。ハサミがぶるぶる震えました。
—すごかったですよね。メディアでもかなり取り上げられて。
はい。処理できない件数が毎日どんどん増えていくんです。個人・法人問わずお客様は大激怒で、営業部門担当常務として最初はお詫び行脚の日々です。
いろいろな経験を経て、何が起きても驚かなくなりましたね。どんなことでもそこで全力を尽くすというDNAが体に染みついていて、多少のことではめげなくなりました。若いからつまらないことをやらされたとか、雑用だとかで文句を言わず、どんなつまらないことでもちゃんとやることが将来に結び付くという精神は当時から持っていましたね。
—お仕事観、非常に勉強になります。ほとんどの人が腐ることってあると思うのですが、乗松さんは何でも本当に楽しそうです。
そうですね、仕事の面ではあまり腐りません。ただ後悔しているという点では、留学しなかったことですね。自身の世界を広げるためにも留学しておけば良かったと、今になって思います。英語も一応は喋れますけど、留学して徹底的に学んだ人とは全く違います。子供には自由にさせて、留学もさせました。
—お子様はおいくつですか?
娘が2人で、上が39歳、下が36歳です。結果、2人とも旦那が外国人になりました。超グローバルです。笑
婿たちと居酒屋で飲み交わして説教してやりたいんですが「ボンジュール」とか言われちゃうんですよ。笑
銀行員として順調にキャリアを築いていった乗松氏。仕事に、家庭に、安定した日常を手に入れていた最中、転機は突如として訪れた。そしてFiNC創業社長・溝口氏との出会いに繋がっていく・・・。
-Part2に続く-