あの子の名前を知らないままだと、今でも時折考える。
その時私は5歳くらいで、地元のデパート・イトーヨーカドーの屋上で遊んでいた。あまり光景が思い出せない。ただ覚えているのは、強い恐怖と、あの子の歌だ。
“まくら たべたい カルシウムになるよ”
3拍子の歌を歌い身を揺らしながら、私よりもだいぶ大きなあの子は私に近づいてきた。意味不明だった。顔は私に向いているのに、黒目は天井を向いていた。体が震えた。私は混乱し、火がついたように泣いて逃げ出した。
その後の記憶が私にはない。大人になってから聞いたのだが、私が逃げたあと、私の親はあの子の親に平謝りしたらしい。あの子は、私の入った小学校にいた。すでに高学年だったあの子を怖がったり、じろじろ見たりする一年生たちに、先生はこう言った。
「障害のあるお友だちとも、仲良くしましょうね」
そんな私の地元・神奈川で、事件は起きた。
相模原、という漢字を「すもうばら」と読んじゃったことが人生で一回もないくらい私にとって相模原はド地元だが、その地元の津久井やまゆり園という施設で、植松聖という元職員が、重複障害者の入居者ばかりを狙って殺傷するという出来事がこのほど起こった。
ニュースに流れる地元の映像を眺めながら私は、またあの歌を思い出していた。“まくら たべたい カルシウムになるよ”。人生で一度しか聞いたことのないあの歌は今でも私の深いところに焼きつけられているし、あの時のままに歌える。あの子は元気だろうか。あの子はあの歌を覚えているだろうか。万一会話が通じなくても、あの歌を歌ってみたらいっしょに歌えるだろうか。5歳の私は、逃げてしまい、謝れなかった。だからこそだと思う。あの子のことが忘れられないのは。
そう思って調べてみたけれど、被害者の実名は一切公表されていなかった。
「女性(19)男性(66)男性(66)」……被害者の性別と年齢だけが、新聞記事に一覧にされていた。記事の見出しもまた、「障害者殺傷事件」となっていた。
どうしてこんなことになっているんだろう?
被害者が実名報道されないわけを調べてみると、どうも、神奈川県警が「遺族の意向と、被害者が障害者であること」を理由にしているらしいことがわかった。
神奈川県警はこの事件で、「実名報道が基本ということは承知している」とした上で、被害者氏名は非公表とした。「被害者が障害者であることと、ご遺族の意思」がその理由とされた。(産経ニュース)
「遺族から強い要望があった」として、神奈川県警が被害者を匿名で発表したことから、各メディアでは、実名など被害者の詳しいことは報じられていない。(J-CASTニュース)
私は、フロリダの銃乱射事件を思い出した。
6月に起こったフロリダ銃乱射事件と対照的だなと思った。2016年7月頭にニューヨークを取材したところ、街のあちこちに、フロリダ・オーランドでの銃乱射事件の被害者の名前リストが貼り出されているのを見つけたのだ。
アメリカのマスメディアは、ひとりひとりの名前と写真を並べ、どんな人物だったのかを伝えていた。「何度もガンと闘病して打ち克ち、最後は我が子をかばって凶弾に倒れた」「進学を控えているところだった」「撃たれる直前まで家族にSMSを送りつづけてくれた」……大事な人のことを語る遺族や友達に、マスメディアを通して人々は耳を傾けていたようだった。
9.11の事件現場、ワールドトレードセンター跡に作られたグラウンド・ゼロにも、犠牲者ひとりひとりの名前が刻まれていた。こんなふうに刻まれているのも見つけた。
「ルネ・A・メイと、彼女の生まれなかった子ども」
まだ名前もないうちに命を奪われた犠牲者のことまで、記憶にとどめておこうと刻み付けた人がいたのだ。
植松聖はこう言った。
「重複障害者は生きていくのは不幸だ。不幸を減らすためにやった。救ってあげたかった。後悔も反省もしていない」(日刊スポーツ)。
植松聖は目の前の人間を“重複障害者”としてしか見られなかったようだ。が、亡くなられた方の名は“重複障害者”ではない。女性(19)でも男性(66)でもない。そういったカテゴリ分け以前に、ひとりひとり名前を持ち、この地球のいかなる地域にもいかなる時代にも同じもののないたった一つの人生を生きていた、人間だ。
“障害者”はその人の名前じゃない。その人にはちゃんと、その人の、その人自身の名前がある。
「障害のあるお友だちとも、仲良くしましょうね」
私はあの子のことを、「障害のあるお友だち」としてしか認識できないまま小学校を卒業し地元を離れてしまった。あの子の名前を知らないままだ。
ワイドショーは泣き叫ぶ人を映していた。たしかこんなことを言っていた。
「みんないっしょに歌を歌って 計算したりもして なんでこんなことされなくちゃいけないんですか 障害者がなにをしたっていうんですか」
地元のカラオケ屋さんの店長はこんなふうに語っている。
「会話も困難な人が多かったが、歌えないなりに声を出して楽しんでいたのに。知っている人も亡くなったかもしれないと思うと…」(産経ニュース)
被害者の名前を公表しないでほしいというご遺族の意向は、もちろん尊重されるべきだ。名前を出した結果、(すでに逮捕されている島宗真之のような)模倣犯に狙われないとも限らないし、個人情報を漁り、あることないこと書いてPV広告料を稼ぐようなアフィリエイトブログも世の中にはある。知的障害者施設で働く三宅浩子さんは朝日新聞にこう語っている。「私には計り知れないつらい経験をされていると思うと、子どもを守りたいという保護者の気持ちも大事にしたいと思います」
ただ、実名報道がなされない中でも、私は「障害者」とか「男性(66)」とか書かれている向こうに、ちゃんとひとりひとりの名前を想像したいと思うのだ。それぞれ生きてきた道があり、それぞれの未来が続いていたことを想像したいと思うのだ。それを十把一からげに「障害者」と記号化し、「不幸」とかなんだとか言うようなことをしないためにこそ。
あなたは、記号じゃない。私も、記号じゃない。
男性とか障害者とかLGBTとかなんとか、いろんなカテゴリの下には、ひとつとして同じものがないそれぞれの人生がある。それぞれの名前がある。
そのことを、私自身の意思で、私は覚えているつもりだ。たとえ、ほんとうの名前を知らされないままでも。そうやってひとりひとりを尊重する態度こそが、ひとりひとりがいないことにされない未来に繋がっていると、私は信じている。
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