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2016
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[No.388] シン・ゴジラ <83点>
CATEGORYモンスターパニック
キャッチコピー:『現実<ニッポン> 対 虚構<ゴジラ>。』
“日本”を、なめるなよ…!
三文あらすじ:東京湾横浜沖で発生した原因不明の崩落事故を受け、政府は各幕僚を招集の上、緊急会議を開催。事故原因について“地震や海底火山の噴火といった自然災害によるもの”との推測が立てられる中、体長100mを超える巨大不明生物が出現、鎌倉市への上陸後、甚大な被害を出しながら首都圏への進行を開始する。日本と大怪獣“ゴジラ”の存亡をかけた戦いが、今、始まる・・・
※以下、ネタバレあり。
<ゴジラ 対 エヴァ>
1954年に第1作目が公開され、その後、現在に至るまでシリーズ計28作(及び2作のハリウッド・リメイク)を生み出した大ヒットコンテンツ、大怪獣“ゴジラ”。本作は、そんな怪獣王が銀幕で主役をはる29作目の作品である。
総監督は、あの傑作ロボットアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』を生み出した庵野秀明。この人はもう…『ゴジラ』やってる暇あったら早く『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』やってくれよ…。まぁ、本作が作られた経緯としては、まず、2014年に公開されたギャレス・エドワーズ版の『ゴジラ』が世界的にヒットしたことを受けて、よし、日本でももう一回ゴジラやってみるか!という話が持ち上がり、『エヴァQ』と同時上映のショートフィルム『巨神兵東京に現る』で特撮愛を爆発させた庵野さんに白羽の矢が立ったらしい。しかし、『エヴァQ』製作後、鬱になっていた庵野さんは、このオファーを一度断る。それから、本作で監督を務めた樋口真嗣とかが庵野さんの背中を押し、結局やることになったそうだ。まぁ、庵野さんの中でゴジラとエヴァのどちらを優先させるかという葛藤や対立があったのかは知らないが、エヴァファンからすれば、冨樫と双璧をなす“ぐーたらクリエーター”こそが、庵野秀明という男なのである。
ちなみに、タイトル『シン・ゴジラ』の“シン”が意味するところであるが、単純に最新作という意味での“新”、または、原点回帰という意味を含んだ“真”、あるいは、“神の巨人”たるゴジラを表した“神”などが順当な候補であろう。これは、『シン・エヴァ』で予測されているものとだいたい同じである。まぁ、“新”と“真”は比較的しっくりくるからいいとして、“神”っていうのはどうなんだろうな。個人的には、掛詞として成立していると思う。本作のゴジラはいかなる攻撃も受けつけない“完全生物”として描かれているし、それどころか「もしかしたら、“死”すらも超越しているかもしれない…。」というセリフがあったりする。また、空気と水さえあれば体内で無限にエネルギーを生成できるというその性質が判明する終盤で、「ゴジラは、我々にとって“福音”でもあるというのか…」と言及された。人智どころか“死”という概念すら超越し、人類にとって“厄災”でもあり“恵み”でもある存在、それはもう“神”と呼んで差し支えなかろう。
また、英語版タイトルは、『Godzilla Resurgence』(ゴジラ・リサージェンス)という。“リサージェンス”と聞いてSFファンが思い出すのは、当然、2016年を代表する“ダメ続編”、『インデペンデンス・デイ:リサージェンス』。もちろん、本作と『ID4 2』に関連性があるわけではない。“リサージェンス”とは、“再起”とか“復活”とか、なんかそんな意味の単語。“再起動”という意味の“リブート”とは違い、どうやら思想とか信仰とか、そういったニュアンスの文脈で使用されるようだから、やはり原題の“シン”も、先ほど言及した“新”、“真”、“神”あたりが妥当なのだろうな。変わり種では、人類の“罪(Sin)”ではないか、という意見もあるようだが。
まぁ、そんな感じで、公開前から色々な思惑や様々な憶測が右往左往していたゴジラ最新作。7月29日(金)の公開初日に早速鑑賞したファンたち(この時点ではおそらく“熱狂的なファン”だろうな。)からは絶賛の嵐を浴びせかけられている本作であるが、まずは、新生ゴジラの概略から見ていこう。
<ゴジラ 対 ゴジラ>
『ゴジラ』という作品の、そして、キャラクターの歴史は長い。彼が銀幕に初めて登場したのは、今から60年以上前の1954年。この初代ゴジラ、いわゆる“初ゴジ”のキャラクター設定は、ジュラ紀から白亜紀にかけて生息していた海棲爬虫類と陸上獣類の中間生態を持つ生物の生き残り、というものだった。そんな生きた化石が、人間の度重なる水爆実験によって住処を追い出され、挙句の果てに日本に上陸した、というのが、第一作目の基本的なプロットだったのである。
本作の新生ゴジラは、この“初ゴジ”に大きくオマージュを捧げたキャラクター。その出生も、確か、太古の海洋生物の生き残りが核廃棄物を大量に投棄された環境に適応し、異常進化を遂げた、という設定だったはずだ。
“初ゴジ”と本作のゴジラは、そのルックスもかなり似ている。特に顔面部分。キョロッとしたつぶらな瞳なんかは、両者共通の要素だ。
しかしながら、両者では、そのボディ部分が大きく異なる。まず、本作のゴジラは、これまでのどのゴジラよりもデカい、体長118.5mの巨人。しかし、その割に、前足がすごく小さい。そして、体全体がところどころ腐敗しているような雰囲気。「街中に残されたゴジラの体組織は“腐敗臭”がすごい」というセリフもあったように記憶している。まぁ、要所要所が赤く発光しているところは、過去のゴジラで言うなら“バーニング・ゴジラ”へのオマージュだろうか。1995年公開の『ゴジラ vs デストロイア』に登場した“バーニング・ゴジラ”は、体内炉心の核エネルギーが暴走し核爆発寸前の状態にある、という設定だった。本作のゴジラは、核爆発寸前とまではいっていないものの、めっちゃ熱いという部分では同じだ。
この辺りのキャラクター造形は、過去のゴジラへのオマージュに、庵野監督の独自性たる“巨神兵”をミックスしたということなんだろうか。
あと、本作のゴジラは、形態変化を行う。これって事前に発表されていた設定だったのだろうか。少なくとも、筆者はそんなこと全く知らずに観たので、ゴジラ初登場シーンでは、完膚無きまでに度肝を抜かれた。要は、フリーザ様みたいに形態を変化させつつその度に強くなっていくわけであるが、初登場時は、我々が一度も見たことの無い、なんかステゴサウルスみたいなゴジラが登場するのである。よし、頑張って絵にしてみよう。
どーん! 筆者の画力ではこれが限界だ。とにかく、ウネウネ動きながら前進するクリックリの目のステゴサウルスが、いきなり登場する。これはビックリした。ちなみに、こいつは、首の横に付いた“エラ”から血みたいな液体を吹き出すが、これはおそらくエラ呼吸を捨てて肺呼吸の形態へと順応していく過程の演出なのだろうな。なお、本作のゴジラが披露する変体の推移は次の通り。第一形態:キモいステゴサウルス(水中生物)⇒第二形態:ステゴサウルス直立(陸上生物、あるいは、両生類)⇒第三形態:いったん退化して再びキモいステゴサウルス(水中生物、あるいは、両生類)⇒第四形態:新ゴジラ完全体(戦闘力“無限”)。
それから、本作のゴジラ、その完全体は、なんとレーザー・ビームを放射できる。ギャオス風に表現するなら“レーザー・メス”だ。これもすごくビックリした。自衛隊による総攻撃でも傷一つ付かない最強の怪獣ゴジラは、アメリカ軍が投じた地中貫通爆弾(MOPと言うのかな?)によりやっとこさダメージを負う。しかし、これにブチ切れた怪獣王は、それまでの赤から紫色に発光。大きく開いた口からまず(おそらく)可燃性のガスを大量放出し、すかさず火炎放射を行うのである。これだけなら、まぁ、往年のゴジラでも盛んに使われていた“放射熱線”なのだろうか、むしろ、それより劣化しているじゃないか、という感じだが、彼はその後、炎の出力を上げ、レーザー・ビームを口から照射し始める。たぶん、溶接トーチみたいな構造になっているのだろう。で、上空を飛行中のアメリカ軍戦闘機を撃墜してしまうのである。
しかも、本作のゴジラが有する能力はそれだけじゃない。なんと彼は、口からの“レーザー・メス”に加え、背中から無数のレーザーを四方八方に放射できるのである。さらに、しっぽの先っちょからも同じくレーザーを放つ。よし…よし!頑張って絵にしてみよう。
どーん! まぁ…筆者の画力はともかくとして、個人的に、この“ところ構わずレーザーを出せる”という新設定は、少しだけ微妙だった。リアル路線の、あくまでも“生物”としてのゴジラ像からちょっと突き放されたと感じたからである。とはいえ、これもゴジラを“神”として描くための一環なのだとすれば、まぁ、ある意味で筋は通っているだろう。
さて、そんな本作の鑑賞後第一報の感想として、以下では、とりあえず2つの視点から述べておきたい。それは、本作のキャッチコピー『現実<ニッポン> 対 虚構<ゴジラ>。』を分解した2つ。すなわち、“現実 対 虚構”と“ニッポン 対 ゴジラ”という両観点からである。
<現実 対 虚構>
まずは、“モンスターパニック”としての本作のビジュアル的な部分について、一言言っておきたい。
“モンスターパニック”というジャンルの本質や醍醐味については、拙いながら当ブログ内で幾度も言及してきた。もちろん、それは、名も無き鑑賞者の独断によるただの“こだわり”の域を出ないものではあるのだが、とにかく、筆者が思う“モンスターパニック”のアイデンティティというのは、“非日常による日常の浸食”である。
実在しない架空のギミックが物語の核を担う、という点において、“モンスターパニック”は“ファンタジー”である。しかし、『ネバーエンディングストーリー』や『ロード・オブ・ザ・リング』、あるいは『ハリー・ポッター』などを見ても分かるように、純粋な“ファンタジー作品”は、基本的にその世界観全体を架空のものとして楽しむというジャンルだ。
一方の“モンスターパニック”では、原則としてモンスターのみが架空の存在という点が、その本質である。『ジョーズ』における巨大鮫、『トレマーズ』におけるグラボイズ、『ザ・グリード』における深海の怪物、『遊星からの物体X』における物体たち、『グエムル -漢江の怪物-』のキモイ魚、『クローバーフィールド』のクローバー。枚挙に暇はないが、個人的には、現代社会に侵入する唯一のファンタジーギミックとしてモンスターが登場する作品群を“モンスターパニック”と呼びたい。そういう意味では、ゼノモーフ以外も全体として現代科学の延長にある架空のギミックで構築された『エイリアン』シリーズは、“SF”と言うべきだろう。つまり、“モンスターパニック”においては、モンスターのみが“非日常”の存在なのである。
そして、“モンスターパニック”の醍醐味は、そんな非日常的ギミックが我々の“日常生活”を侵食していく、という点にこそある。もちろん、日常生活の侵食よりも、どちらかと言えば“人間 vs モンスターのバトル”に重きを置いた作品だって数多存在する。上記の例で言えば、『トレマーズ』、『ザ・グリード』、『遊星からの物体X』は、どれもいわゆる“日常生活”から離れた一種の“閉鎖空間”が舞台だ。『ジョーズ』も後半の展開では、勇敢な3人の男と巨大鮫との一騎打ちに焦点を絞るべく、日常生活を離れた洋上が舞台となる。しかし、『ジョーズ』の前半や『グエムル -漢江の怪物-』、あるいは、『クローバーフィールド』で我々が興奮したのは、非日常の存在たるモンスターが日常生活をかき乱していく、その様であった。言い換えれば、我々が日々生活する“現実”にモンスターという“虚構”が侵入してきたらどうなるのか。これが“モンスターパニック”というジャンルの肝なのである。
ここで重要になってくるのが、ビジュアル的な“リアルさ”である。世界観全体を架空の存在で固めれば良い“ファンタジー”とは違い、“モンスターパニック”における架空のギミックはモンスターのみである。つまり、モンスターという虚構の存在と我々が暮らす現実を違和感なく融合させる映像的なリアルさが、このジャンルの大前提となる。“モンスターパニック”の歴史は“リアルさ追求の歴史”と言ってしまっても良いだろう。
そして、そういった視点から観た本作は、本当に素晴らしい!
古くは、『原子怪獣現る』に代表されるようなストップ・モーション。『アビス』、『ターミネーター2』、そして、『ジュラシック・パーク』の成功以後は主にCGが担ってきたモンスターのリアルさ。これを一段上のレベルにまで引き上げたのが、POVと融合させた『クローバーフィールド』であろう。一方の日本では、古来より主にスーツアクト、いわゆる“着ぐるみ”が、怪獣映画のビジュアル的リアルさを支えてきた。しかし、個人的に鳥肌だったのは、『クローバーフィールド』の2年前に公開された『グエムル -漢江の怪物-』である。一番ビビッ!と来たのは、冒頭、高架上を走る電車内から芝生を爆走する怪物を撮ったシーン。ここでは、なんというか、怪物が本当にその芝生にいたのである。筆者の知識量や語彙力では説明が難しいのだが、芝生の広場とそこで逃げ惑う人々を俯瞰の視点から広く捉え、あくまでも怪物がその中にいる、という描写。まぁ、そういった描き方はそれまでにもあったのかもしれないが、とにかく、怪物を寄りで捉えるのではなく、その空間全体を広く捉えた上でその中に怪物をナチュラルに配置するという描写が、大変“リアル”だったのである。
そういった“俯瞰から空間を広く捉える”というシーンは、本作にも多く登場する。監督である樋口真嗣が「邦画の歴史上一番ヘリを飛ばしたんじゃないだろうか。」とインタビューで言っていたが、東京という街を広く視界に捉えた上で、その中にゴジラが本当にいる、というシーンが、本作にはいくつも存在する。中でも筆者がゾクゾクしたのは、予告編にも登場しているこのシーン。
これは素晴らしい。おびただしい数の住宅が密集したこの空間に、ゴジラは本当にいる。もちろん、このような俯瞰からのカットというのは、これまでのゴジラ作品にもあった。しかし、ここまで高い高度からのシーンというのは、着ぐるみゴジラ及びジオラマのセットでは表現の難しい、本作独自のリアル・ポイントであろう。シリーズ史上初めてフルCGで描かれたゴジラが、ここで活きている。また、(おそらくは)あえてゴジラを画面中央でなく上端の方に持ってきたのも、製作者が意図した“リアルさ”追求の表れだと思う。こういった趣向も、往年のゴジラ映画ではあまり見た記憶が無い。さらに付け加えるなら、本作のゴジラのしっぽがやたら長いのは、俯瞰で撮ったときの見栄えを考えて、あえてそうデザインしたのではないかな。往年のゴジラ作品くらいの俯瞰撮影ならそうでもないが、本作くらい引きの位置から空撮すると、ゴジラは黒い塊にしか映らない。だから、遠くから見ても動きが出るように、わざとしっぽをめちゃくちゃ長くしたのだと、筆者は個人的に推測している。
それから、俯瞰ではなく、逆に地上にいる人々の目線からゴジラを捉えたリアル・シーンがこれ。
ゴジラ登場を地上からの視点で描くというシーンも、俯瞰シーン同様、過去のゴジラ作品に多く登場する。しかし、このシーンのポイントは、しっぽしか映さないというところだ。ゴジラ上陸という事象をリアルに想定すれば、何も彼の全身がしっかり見える位置からの目撃者ばかりが存在するわけではない、ということに思い至るだろう。モンスターを市民の視点から描き、かつ、その全景を映さないことでリアルさを演出するというこの方法論は、『クローバーフィールド』で大々的に用いられた手法である。
以上のようにして、本作では、“モンスターパニック”の神髄の一つである“現実”と“虚構”の戦いが、これまでのゴジラ作品では見られなかったような圧倒的リアルさで描かれているのである。
なお、本作の感想では、よく“CGが若干ショボい”と書かれているが、個人的にはそこまで気にならないと感じた。確かに、ステゴサウルスが暴れまわるシーンとか、爆炎の中歩き出すゴジラ完全体を背後から撮ったシーンとかで粗さは垣間見える。また、ゴジラの純然たる初登場シーン、すなわち、東京湾からそのしっぽが突き出す場面は、モンスターの初登場がゆえに最も力を入れてほしいにも関わらず、大変ちゃっちい。しかし、その他、大半のシーンでは、CGの安さなど微塵も感じない。むしろ、ゴジラ完全体の戦闘シーンに全力を投じるためいくつかのシーンを捨てたのだとしたら、天晴な好判断だと筆者は思う。
<ニッポン対ゴジラ>
続いては、“モンスターパニック”としての本作におけるストーリー面に言及したい。本作で神の化身“ゴジラ”と対峙する主人公は、内閣官房副長官である矢口蘭堂(長谷川博己)という男。わきを固めるキャラクターたちは、例えば、内閣総理大臣である大河内清次(大杉連)だったり、内閣総理大臣補佐官である赤坂秀樹(竹野内豊)だったり、米国大統領特使であるカヨコ・アン・パタースン(石原さとみ)だったりといった、要は、“政府上層部”の関係者たちである。
つまり、本作でモンスターと対峙する主人公たちは、小さな漁村の保安官でもなければ、テキサスの集落に暮らす何でも屋でもない。もちろん、密輸船の船長や川辺で露店を営むダメ家族でもなければ、ましてや、マンハッタンでパーティの真っ最中だった一介のサラリーマンなどではないのである。要するに何が言いたいかというと、本作でゴジラと戦うのは、個人ではなく、日本という“国家”なのである。この点を表したのが、本作のキャッチコピー“ニッポン対ゴジラ”なのであろう。
実際、本作では、“個”の描写が非常に浅い。主要人物たちの悩みや葛藤などは一応あるものの、それらだってあくまで日本という“国家”を守るための苦悩として描かれている。この手の映画でありがちな、主人公はかつて父親を怪獣に殺された過去がある…みたいな展開は、終ぞ描かれない。また、ゴジラによる“被害”という点でも、徹底して“個”の排除が行われている。本作では、『ガメラ3』における渋谷シークエンスのような“リアルな犠牲者”が描かれない。それどころか、実際に市井の人々が犠牲になっている描写は、ステゴサウルスに押し倒されたマンションのあの家族だけなんじゃないだろうか。個人の生命・身体、または、精神における被害を極力描かず、本作では、やはりあくまでも世界の中での日本の立ち位置だったり、経済的なダメージだったりといった“国家”としての被害が中心的に描写される。
しかし、これは別に“モンスターパニック”としてダメな趣向ではない。“モンスターパニック”の醍醐味は、先述の通り、“非日常による日常の侵食”なのであって、そこではいかにして非日常と日常とを“リアルに”同化させるか、というところが争点の一つであった。しかし、“モンスターパニック”に必要とされる“リアルさ”は、ビジュアル的な部分のみにあるのではない。“非日常が日常を侵食してきたとき、日常はどうなってしまうのか”というシミュレーションもまた、“モンスターパニック”の本質なのである。
本作は、日本という“国家”全体について、この点のシミュレーションを周到に行っている。そして、それは十二分に成功していると言って良いだろう。念入りなリサーチと緻密なライティングによって描かれるゴジラに対した日本の対応は、ある意味でポリティカル・サスペンスと言ってもいいような抜群の緊迫感。有事に際してほとんど機能しない“ザ・お役所仕事”の描写もシニカルでいてややコミカルだし、安保条約に象徴される日本と“かの国”との力関係なんかもきちんと描かれている。ともすれば催眠導入映画になっていたかもしれない会議のシーンだって、矢継ぎ早のカット割りと多彩なカメラワークによって、可及的にエンターテイメント性を保持できていると言って良いだろう。
しかし、悲しいかな、個人的にこれはいささかガッカリだった。本作の映画としての出来には、何の文句も無い。全く以て筆者の個人的な趣味嗜好の話である。いらないんだよ、庵野さん。そんな辛気臭い会議室の話なんて、俺は求めてないんだよ。
確かに、大枠としては、“日本 対 ゴジラ”というコンセプトでやってくれても全然かまわない。でも、もうちょっと、せめて一くだりくらい、魂を完全燃焼させるベタな“漢”たちの物語を入れ込んでくれてもよかったんじゃあないだろうか。しかも、本作には、それを可能にするフレームが既にあったような気がする。
それはすなわち、本作のクライマックスたる“ヤシオリ作戦”である。これは、言ってしまえば“ヤシマ作戦”なんだな。エヴァのテレビシリーズ第6話「決戦、第三新東京市」及び新劇場版『序』において、鉄壁の防御と最強の火力を誇る正八面体の使徒“ラミエル”(新劇では“第6の使徒”)に対処するため、日本中の電力を陽電子砲<ポジントロン・ライフル>に集積の上、エヴァによる遠距離・精密狙撃で対象の一点撃破を狙ったのが、“ヤシマ”作戦。本作の“ヤシオリ作戦”は、ネーミングも含めて“ヤシマ作戦”を彷彿とさせる。
要は、“ヤシオリ”っていうのは、たぶん古事記にある“八塩折”のことなんじゃないだろうか。古事記によれば、スサノオノミコトがヤマタノオロチを倒す際、オロチに飲ませたのが、“八塩折之酒(やしおおり/やしおりのさけ)”。本作のクライマックスで繰り広げられる“ヤシオリ作戦”は、ゴジラに血液凝固剤を飲ませるというものだから、古事記からの引用であることはおそらく間違いないだろう。本作の主人公であり作戦のリーダーでもある矢口さんは、自衛隊が上げてきた正式作戦名を“長い”と一蹴し、もう一つの候補は“子供っぽい”と無下にし、とっさに古事記から絶妙なネーミングを引っ張ってきたというわけだ。まぁ、こういう“突然の博識”っていうのは、庵野作品ではたまにあること。“ヤシマ”作戦だって、普段飲んだくれてばかりいるミサトさんが、突然、日本の古名である“八島”と平家物語に登場する遠距離狙撃の話“屋島”を引っかけて、「以後、本作戦を“ヤシマ作戦”と呼称します!」って言いだしたのだし。
まぁ、ネーミングは別にいいとして、問題は、この“ヤシオリ作戦”がけっこう不完全燃焼だというところである。もちろん、決して悪くは無い。むしろ、本作全体の雰囲気やテーマからすれば、これ以外には無い素晴らしきシークエンスだとも言えるだろう。ギミック的にも、特に爆弾を積んだ電車を何本もゴジラにぶつけるシーンは、中々画期的かつ迫力のある名シーンだったように思う。
でも、もうちょっと現場の描写を入れてくれていたら、もっと熱くなれたんじゃないだろうか。先述の通り、本作では作中一貫して“個”の描写、つまりは、現場の描写が省かれている。それは、クライマックスたる“ヤシオリ作戦”においても同様だ。電車に爆弾を積み込んだ話とか、ゴジラの周囲のビルに爆薬を仕掛けに行った話とか、そういう現場での準備は、一切描かれない。また、日本中の製薬会社協力の元で血液凝固剤を準備する、という話も、描かれるのは、主人公サイド、すなわち、会議室側での交渉過程のみ。まぁ、確かに、“ヤシマ作戦”においても、実際の準備過程が詳細に描かれることは無かったのだが、同作戦ではその代わり、シンジくんの心の葛藤がクライマックスを大いに盛り上げるギミックとなっていた。もちろん、本作では、同じように主人公の個人的な悩みを起爆剤にすることはできないだろう。しかし、本作には“ヤシマ作戦”では前面に押されていなかった“日本という国家の総力を結集する”というテーマが一応あるのだから、逆に作戦準備の過程を詳細に描き、ゴジラ…“日本”を、なめるなよ…!っていう大団円にしてくれたら、ものすごく盛り上がっただろうに…。
まぁ、それは本当にあくまでも筆者の個人的な注文だし、そんな展開など無くとも、いや、そんな“ファンタジー”な展開を採用しなかったからこそ、本作は、世界に対しても堂々と宣戦布告できる“傑作怪獣映画”に仕上がったのであろう。
点数:83/100点
冒頭で少しばかり文句を吐いたが、『シン・エヴァ』の滞りへの免罪符に十分なり得る秀逸な“モンスターパニック”作品。子連れで観に行くと子供が寝てしまうか、あるいは、何かしらのトラウマを負ってしまうかもしれないが、来るべきお盆休みに観るべき作品を探している、という人には、ぜひオススメしたい良作である。あ、それと、アメリカ特使のパタースンさんを演じた石原さとみは、相変わらず強烈に可愛い。なぜか少し前からゴリ押ししている英語力も存分に活かされている。筆者同様、石原さとみファンのおっさんは、お盆休み中に何度も劇場へと足を運ぶべきであろう。
(鑑賞日[初]:2016.7.30)
(劇場:OSシネマズ ミント神戸)
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