高校2年生になりたての頃を、覚えてますか?
新しい環境にも慣れ、1年次の人間関係からもクラス替えで解放され、こわそうな旧3年の先輩も卒業し、おまけに可愛いがるべき後輩もできる。
多くの新2年は、悠々自適の4月を迎える。
だけど、新しい人間関係をイチから築くのは大変。クラスで「浮かない」か、友人とはうまくやっていけるか? 4月、教室は「静かな戦場」でもある。
そして、2年目の4月は担任教師側も大変。クラスの人間関係や雰囲気にとことん気をくばる必要がある。「イジり」が「イジメ」に発展する気配はないか? 今何かと話題のクラス・カースト(クラス内の階級)が、目にあまるものになっちゃいないか?
あの定番スローガンとは正反対の学級目標
僕の受け持つ新しいクラスでは、さしあたりそうした心配はなさそうだった。むしろ昨年度に比べて、ちょっと静かすぎとも思えた。こうなると今度は、文化祭とか体育祭をちゃんとこなせる(盛り上がれる)かが頭にちらつく。
教育業界でいう、「クラスの〈核〉になる生徒」が、どうも僕のクラスには見あたらなかった。簡単にいえば、クラスを盛り上げ、引っ張り、教師と協調して動いてくれる生徒のこと。
そうした生徒がいなければ「創ればいい」との考えもある。教師が「こいつは!」と思った生徒にいろいろ働きかけ、〈核〉として覚醒させる。けど、生徒は教師のあやつり人形ではない。そもそも教師は、神じゃないし。
そんなだから、まずは静かなクラスをじっと見守ることにした。そしてクラスのスローガンには、こう掲げた。「社交的たれ、されど群れるな」。心は開いていてほしいけど、無理に他人へ合わしてほしくない。
これは、スポーツ界から教育界に黒船としてやってきたあの定番スローガン、One for All, All for One(一人はみんなのために、みんなは一人のために)とは正反対。
僕自身、高校生の頃けっこう「ぼっち」だった。独りでいたい生徒が、クラスで安心していられることだって、地味だけど大事だ。
うん、それでいい。自画自賛の4月。
あまりにもさびしくて、スポーツ大会に一縷の望みをかける
とはいえ、やや心配になってきた5月。
自分のクラスで授業をやっても、盛り上がるべきところで盛り上がらず、淡々と進めるほかなく、他クラスに比べてスムーズすぎる。ジョークも自主規制……。授業をやってて、あまりにさびしい。
なんでだ? ひょっとして、「群れるな」の部分がゆきすぎて、生徒たちが全然打ちとけてなかったりして? 懸念が深まった。
でも! GWあけにはスポーツ大会がある。チャンス!
結局、スポーツ界から学級目標の定番に横すべりしたあのスローガンが大嫌いなくせに、そのスポーツに、クラスの雰囲気改善を期待する自分がいた。
サッカーやバスケで、盛り上がるべし。そして、クラスの仲や雰囲気を、今よりかはよくするべし。祈った。背に腹はかえられぬ!
スポーツ大会当日。いろいろなクラスを観察すると、そんなに飛ばすか?というほど不自然な声援が、総立ちになった生徒から飛びかっていた。男子に向けても、女子に向けても。グループにかたまって、どこか不自然な声援を送りつづける。
その姿は、ちょっぴり痛切だった。
新たな人間関係を創るべき新学期の5月。十代なかばは、大変だ。日々、人間関係の渦の中でもがいている。そこで「浮かない」よう、へとへとになって気を配る。
その一方、脇には、体育座り(なつかしいでしょう)になって、一人ずつ、じっとプレーを見物する「抵抗者」もちらほら。彼らの存在は頼もしいけれど、教員という立場からは、その子たちがクラスで「浮かない」か心配になる。
じゃ、我がクラスは? 結果としては、わりと盛り上がった(ホッ)。俗にいう「黄色い声援」も、男子のゲームの際には大きかったようだ。クラスにお目あてがいようがいまいが、こういうとき、男子の多くはがんばる。そういう生き物らしい。
なんだ、普通じゃないか。いい意味で。
放課後、職員室を訪ねてきたクラス委員
やっぱりスポーツの力は偉大だ。スポーツは、ある種の「ことば」だ。口数が少なかったり、口下手だったりする子どもにとっては、仲をほぐすための気軽な手段。
おかげで、クラスの生徒も、だいぶ打ちとけたようだった。
そしてその日の放課後。クラス委員が、職員室に訪ねてきた。
「センセー、今日、打ち上げ行くんですけど……」
どうやらその委員は、カンパを期待してるらしい(目がらんらんとしている)。
何だなんだ、展開が早いじゃないか。僕は心の中でいぇーいと思った。
40人クラスで1万円だと、一人250円の援助。何だか、ありがたみというか、「援助感」にとぼしい気がした。財布に余裕はないけれど、ここは一つ、ということで、福澤先生を2枚寄付した。スポーツ大会を終えてホッとしたからこそなせる、大盤振る舞いだった(薄給なのです)。
ホームルームで生徒たちから受けた衝撃の仕打ち
子どもはすごい。一度打ちとけると、あとは早い。授業でも、「うるせー!」とリズムよく言い放つ機会が増えた。子どもじみたイタズラごと、生意気な口ぶりも増えた。いちいちムカっとさせられるけど、教師「ごとき」に服従するだけの生徒よりは、いいなと思う。
後日、ホームルームの時間、クラス委員が教卓に寄ってくる。「先生、今からちょっと時間もらっていいですか?」
OKすると、何やらジャラジャラと、コインを一人ずつ配布している。なんだ?
500円玉だった。そう、その委員、というかクラス全員は、僕の援助した2万円分を、打ち上げ当日に使うことを面倒くさがった。会費から一律に500円引くと計算が面倒だから、という言い分らしい。
そこで後日、委員が2万を500円玉40枚に両替してきて、各生徒に配布したのだ! しかも、援助者たる僕の目の前で。これは、なかなかにシュールな光景なのでした。
ムカムカムカムカムカムカムカ。「失望」「あ然」「怒り」(以下省略)の混じった、生まれて初めての感情がわいてきた。
大人の世界ではまず考えられない、無礼千万なこの仕打ち。非常識・オブ・ザ・イヤー。甘く見られたものだ、僕も。こっちとしては、せめて休み時間にやってくれれば、と思った。わざわざホームルームの時間に返したのは、みんなが着席しているときのほうが楽だと考えたからだろう。
「先生、ありがとうございました」の一言もなく、カンパを当然視しながら500円玉を受け取る子どもたち。そいつらに怒り声をあげるのもむなしくなって、ぎこちなさ100%の苦笑いでその光景をスルーしちゃった僕。
生徒なんてものは、可愛くもあり、可愛くもない。まぁ、担任と生徒の関係なんて、それくらいで、ちょうどいいのかもしれない。
そんなこんなで、今日もあいつらと、丁々発止のやりとりをしている。