過去のデータが示すもの
2016年の名人戦七番勝負は、佐藤天彦八段(28)が羽生善治名人(45)を1勝4敗で降した。第1局の羽生完勝の後、第2局は大逆転で佐藤の勝ち。振り返ってみれば、その第2局の星が大きかったのか、第3局以降は、佐藤が終始押していたようだ。堂々たる内容で、佐藤が新名人の座に就いている。
現在の実力制名人戦は、1935(昭和10)年6月16日、「名人位決定八段リーグ戦」の花田長太郎八段-金子金五郎八段戦をもって始まった。将棋盤のマス目の数である「81」は将棋界の吉数であり、今年2016年は、実力制名人戦81周年ということになる。
81年の間、熾烈な競争を勝ち抜いて名人位に君臨することができたのは、1937年に名人位に就いた木村義雄から、2016年の佐藤天彦に至るまで、わずかに13人しかいない。比較として数えてみると、相撲の横綱は39人、総理大臣は43人だった。
佐藤天彦は、新しい時代にふさわしい、新しいタイプの名人であろう。
冒頭の写真は今から10年前の2006年9月、佐藤が四段昇段を決めた時のもの。「名人候補」と呼ばれながら、三段リーグや、C級2組ではいささか苦戦しているように見えたが、そこを抜けると、あとは頂点に駆け上るまで、あっという間だった。
新名人の風貌については、筆者は「エレファントカシマシの宮本浩次さんに似ている」と説明することが多い。宮本さんは名人戦の対局場にまで足を運ぶほどの愛棋家として知られている。いずれ両者の対談など見たいものだ。
今期の名人戦第5局の話に戻ると、朝日新聞のウェブ上では、佐藤の封じ手(1日目最後に決めて、2日目最初に指される手)と、羽生の2日目の昼食の予想が、クイズとして出題された。
佐藤の封じ手は、強気に戦いを受けて立つ、意外なものだった。筆者はまず、この予想の段階ではずれた。
そして、羽生の昼食は、五目あんかけ焼きそば(かた焼きそば)だった。前日が天ぷらそばだったので、二日続けての麺類は前例が少ない、という理由から、別のメニューを予想していたのだが、それもまたはずれた。
一方でネット上では、この対局場(天童ホテル)で羽生が五目あんかけ焼きそばを何度も頼んでいるという過去のデータを踏まえ、予想の本命としていた人も何人か見られた。さすがとしか言いようがない。
羽生は名人戦が終わった後、休むまもなく、今度は棋聖位保持者として、棋聖戦五番勝負を戦っている。第1局の対局場は、ホテルニューアワジ。羽生は昼食にきつねうどんを頼んでいた。天ぷらうどんの年もあったが、ともかくも、うどんは6年連続だという。こちらの予想は、多くの棋界通が当てていたことだろう。
棋聖戦の挑戦者は永瀬拓矢六段(23歳)。第1局は千日手指し直しの末、永瀬挑戦者が勝った。名人戦同様、棋聖戦も、始まる前は羽生乗りの予想が多かったと思われるが、さて、この後、どうなるのであろうか。
手堅い選択肢としてのカレー
司馬遼太郎は、日本全国を旅して回った作家だが、食に関してはあまり冒険をしない。その著書を読んでみれば明らかだが、どこに行っても、そばやトンカツ、カレーライスなどを頼んでいることが多い。旅が多い人の知恵であり、要するに、こうしたメニューであれば、はずれが少ない。
タイトル戦の常連であるトップ棋士もまた、日本各地を旅して回る。その際に、どのような食事を頼むかは、棋風が現れるところだ。中にはかなり、選択肢を限っている棋士もいる。
「第1~3局の2日目の昼食は必ずカレーでしたよね」
名人戦第4局が始まる前、以上の質問に、佐藤天彦八段はどう答えたか。
「いや、狙いがあってというか・・・まあ、でも、カレーって言えば、出てくるのはだいたい、予想がつく範囲じゃないですか(笑)。食べたことも、見たこともないものではないので。まあ、ある程度、安心できる食べ物というところはあるかな、と」
佐藤は第4局、第5局ではカレーを頼まなかったが、そこに至るまでは、比較的手堅い選択を心がけた、ということだろう。
将棋界でカレーと言えば、森内俊之九段(18世名人)の名前が挙がるだろう。盤上では「鉄板流」と称される森内。タイトル戦での昼食の予想すれば、カレーで鉄板に近い。
2013年の竜王戦七番勝負(渡辺明竜王-森内俊之挑戦者)、森内の2日目の昼食を、第1局から順に並べてみよう。
カツカレー、カツカレー、カレー、カツカレー、ビーフカレー。
森内は著書『覆す力』(小学館新書)でこう語っている。
<この竜王戦において、私は二日目の昼食はすべてカレーを選ぶことにしていた。理由はとても簡単だ。カレーが好きだということと、どこで食べてもおいしいということ。そして、緊張感の高まる二日目の昼にメニューのことであれこれと悩みたくないというものだ>
七番勝負は森内が4勝1敗で渡辺を圧倒し、竜王位に返り咲いている。
森内の手堅いスタイル、2日目カレーの系譜は、佐藤天彦に受け継がれつつある。
名人戦が始まって以来81年。名人位を5期以上獲得して、永世名人の資格を得た棋士は、木村義雄14世、大山康晴15世、中原誠16世、谷川浩司17世、森内俊之18世、羽生善治19世の6人しかいない。
佐藤天彦はこちらの系譜にも、名を連ねることはできるだろうか。
ところで以前、東京の将棋会館の地下には、「歩」(あゆみ)という名のレストランがあった。ベテランの棋士に聞いた話では、このレストランを経営していた業者は、こう言って嘆いていたという。
「将棋の先生は、カレーばかり頼んでいる」
カレーは、どちらかと言えば安いメニューである。経営者側からしてみれば、カレーが好きなのはわかるけれど、もっと高いものを頼んでくださいよ、というところだろう。
写真は将棋会館近くのそば屋「ほそ島や」のカレー。棋士が出前で注文する、定番メニューの一つである。そして、そば屋のカレーは、だいたい美味しいのが定跡だ。