読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ポジ熊の人生記

好きなことを、見てもらえる情報にして発信する、そんなブログを目指しています。

添削され、お上品で没個性的な文章を書くくらいなら野良で行く

ブログ ブログ-テクニック

個性的な文章を書く野良でいい

ブログをひたすら書いていれば、文章は上達する。そんな風に考えていた時期が俺にもありました。

文章上達の近道は添削を受けること

ひたすら書いて書いて書きまくったブログが当サイトなのはご存知の方もいらっしゃると思う。1日1記事を通常のペースとすると、その5~6倍の量を更新し続けてきて、さて文章は上達したのかというと・・・まぁ「した」といえばした。ただ、誰が見ても読みやすく、かつ流暢な文章であるとは形容しがたく、書いた量に比すると上達速度は決して早くないと思う。 これで然るべきスキルや知識をお持ちの方が僕の文章を毎度添削してくれたのなら、きっと物凄い速さで上達したのではないかと思われる。

つまり、文章を手っ取り早く上達させたいのなら、どのような手段にせよ添削者を見つけて実際に添削してもらえばいいのだ。どんなに下手くそで読みにくい文章を書く人でも、1日1記事について真っ赤になるほど添削され続け、へこたれずに半年繰り返せば形になるだろう。大手メディアには多数のライターが在籍しており、そこでは記事を公開する前に添削・チェックする管理者がいて、未熟な文章を朱に染めるらしい。このような環境で毎日文章を書き続け、上司に推敲され続ければ、嫌でもスキルは磨かれるのだろうし、いっぱしのライターへの道も着実に歩んでいると言える。

だが、そこに「個性」というものを考えたとき、それが流暢で上手な文章と相いれるのかというと、少々疑問に感じる。

利口な文章

添削者の指導を受けて、荒が削られた上手な文章を見ると、いつも思う。「なんて綺麗な文章だろうか」と。同時に、「味気ないな」とも。失礼を承知で言うと、良い子ちゃんで面白みがないのだよ。確かに読みやすいし、適切な接続詞や表現が織りなすそれは自然と読み進ませる正しさを持っている。文句のつけようがない。だけど、泥臭さもない。筆者個人の癖が醸し出す特有の荒っぽい匂いまで消されちゃって、まぁまぁお行儀が良い。

対して、個人のブログはどうだろうか。上手い下手は確かにあるのだろうけれど、属さずに我流で歩んできた人が書く文章というのは、何とも言えない味があるとは思わないかね。その人にしか紡げない、どんなに真似しようとしても贋作にすらならないような、癖のある面白い文章。これは添削されたからといって、身につくものではない。まさに個性、究極である。

野良で行く

添削者を添えて上手な文章を学ぶという王道を歩むもまた、ライター稼業においても個人ブロガーにとってもスキルアップの近道になる。しかし、もし四角四面でお上品な文章に矯正されたとして、従来持っていたその人の個性が死ぬようなことがあるのなら、それは大変残念なことのように思う。

0ベースから面白みのある文章を紡ぐというのは、ひとつの固有スキルでもあり、それが万人に備わっているとは思えない。どんなに努力しても見られる文章というのが書けない人は、添削者に師事するのが今後の道を切り開く有効な手段なのだろう。しかしながら、自分の個性を存分に発揮して多くの人に「味のある文章で良い」という評価を受けているのだとしたら、その個性を存分に伸ばすために属さぬ道を歩むべきではないだろうか。

自分の文章について個性的であるか、また多くの人が評価しているか否かは客観的にわからないが、少なくとも僕は今のスタンスを貫きたい。そりゃ上手に記事を書きたいという気持ちはないわけではなく、色々な書籍で文章の綴り方を学習したりもする。だけど、巧みに綴るスキルを得るための近道を選択したがゆえに、お行儀のよい見やすい没個性的な記事を書くようになるくらいなら、雑草の中を野良で突っ切りたい。

 

広告