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考えたこと、感じたこと

おもしろいブログとおもしろいブログの差

私の「おもしろい」ブログ

私は、大手有名ブロガーのブログより、それ以外の個人的な感じのするブログの方が好きです。なぜかというと、まず、書き手を近くに感じられ、親近感を持って記事を読めるからです。大手さんは有名人で、一種の芸能人やタレントみたいなものですから、ちょっと遠いですね。

次に、大手さんだと読み手が多いので本音を書きにくいかもしれないし、多くの読者に好かれる中庸なモノになりやすいかもしれないけれど、読み手が少なければ本音を書きやすいと思うからです。大手さんでも、世間に個性の強さ、炎上商法で人気になっているブログもありますから、あくまで傾向ですけれどもね。

最後に、大手さんは、多くの読み手に「開かれていない」記事と出くわす可能性が多いからです。「開かれていない」とは、どういうことかといいますと、筆者のパーソナリティ(性格や個性)を知らないと楽しめないということです。「開かれている」は、それを知っていないくても楽しめる。つまり、その区別は、書き手の前提を共有できるかということにあります。例えば、

「えーわたしってこんな奴でしょ?だからこういったわけよー」

という会話。電話の相手なら通用するけれど、ブログの記事で注目を浴びているような記事に見にいって、こういう記述を見たら、MeはYouを知らんねん!!と突っ込みたくなる。

もちろん、大手さんは、圧倒的な読者数で、積み重ねた記事の数が多く、広く知られている。だから、あえて説明する必要はなく、あえて説明するとしつこくなり、するならば、その説明力が問われる。それでも、可能な範囲で説明してくれるブログを私は好きなのです。それは、記事に入り込みやすいですからね。もし、そうでなければ、他の記事を読んで、どんな性格や人柄、行動パターンで、どういう発想から書かれているかを見ないと、その記事の良さがわからない場合が多いです。

最近のバラエティ番組に対する批判(特に某フジテレビ)で、「内輪乗り」ばかりでおもしろくないというのがあるんですけれど、正にそれです。長年見続けている人、既知の人にとってはおもしろいが、初見でみたら、全くおもしろくないってやつですね。

逆に、個人的な感じのブログですと、有名人ではない、読者は筆者をよく知らないことを前提に記事を書いてくれることもあって読みやすいのです。この意味で「開かれている」。

もっとも、読み手が決まりきっていることを逆手にとって、ごく少数向けに「開かれていない」記事を書いている方もいます。けれども、たいてい大手さんより記事の数自体が少ないこともあって記事を遡れば、筆者の書き手としての前提を辿ることができます。書かれてなくても、個人的な感じのするブログゆえ、その書き手を想像しながら読むのも楽しみの一つといえます。

以上のように、私は「開かれているか」「開かれていないか」を基準におもしろいか、おもしろくないか、もう少し正確に言うならば、今後読み続けたいか、読み続けたくないかが決まります。

 

反論

しかしですね、私の友人は、説明があるようなブログは好きじゃないと言います。いわれなくても元々の一般的社会的な知識や推測でわかるし、そこは読み手の自由な想像に任せればいいというのです。

今春、地上波初放送された「八日目の蝉」という映画。私は小説の深い心理描写を読んで気に入り友達と映画館まで当時映画を見に行きました。ですが、映画をまったくおもしろいと感じなかったんですよ。なぜなら、小説で出てきた心理描写が全くなくて主人公の心情に入り込めなかったからです。

一方、その友人は、とてもおもしろいといっていました。そこで、小説も読んでみたらいいと薦めたのですが、彼は読んでみたら「全くおもしろくなかった」という。詳しい心理描写は、読み手の想像力を阻害する障害でしかない。

 

終わりに

この記事の読者様は、どのように思われましたか。「おもしろさ」と「文の解釈をどこまで読み手にゆだねるか」の関係について。私は十人十色とはこのことだと思いました。それと補足ですが、本記事は、大手さんのブログが常に「開かれていない」という趣旨の記事ではないですよ。「開かれてない」記事が続けば、読者は増え続けないでしょうからね。

 

本日も最後まで読んでくださってありがとうございます。良かったら読者登録もよろしくお願いします。