この文章は空想小説の一節の様に
日々の生活の中で私はブログを書いている
そんな中でこんな事も書きたいし、こんな発想についても書きたいと思う事が多々存在する
だけどそれを書くには時間的なリソース、体力的なリソースが圧倒的に足りなくて諦めてしまう
そんな中でもし自分の思考が文章に出来たら、考えている事をなんらかの方法でネットを通して読み手の人々に発信出来たらという思考が巡っていた
ブログというもの
ブログというものは得てして残酷な側面を持っている
その書き手の書きたい事を綴れば誰かが読んでくれる訳ではない
自分の書きたいもの、誰かの求める知識、それを解決する事柄が文章や映像、音楽等を通して解決出来る、その事柄がすべて揃っていなければ誰かがこのブログにたどり着き読んでくれる事すらないのだと思うと悲しくなる
本当は才能のある書き手の人もいる、誰かに伝えなくちゃ行けない言葉を綴っている人もいる、だがその叫びは言霊の様にそこに存在して、海の潮騒の様に自分に帰っては消えてゆく
どんなに優秀な小説家であってもネット上ではその環境が整っていなければ人の目に触れる事もなく多くの情報の波に埋もれてしまうのだ
時々無性に自分の言葉を綴りたくなる、この文章もきっと全世界の70億人の中の日本にいる1億3000万人、その中のほんの、ほんの一部に見られては儚く消えていってしまうのだろう、空想小説の一節なんて検索して来る人はいないだろうから尚更一瞬の刹那の様だ
もし人の思考が言語化出来るプログラムが作られたら
もし人々の思考が言語化出来るプログラムが現れたら、より多くの莫大な情報が氾濫する様になるのだろうなと考えてもいた
いまブログやサイトの世界ではより良質な文章が好まれる様に、そしてそれをgoogleの持つ検索エンジン及び人工知能などが判断出来る様になってきた
一部では長文による記事に出来るだけ多くの関連するワードが盛り込まれる事でgoogleのプログラムなり機械に閲覧される際の文章の質が向上されるのでは、検索上位に表示されるにはいまの所最適な方法なのではと言われている
しかしgoogleの検索エンジンはより合理的に人々の反応や記事による影響を見る様になっている、そしてより合理的に良質な記事を判断出来る様になって来ている
それはともすると、現在は長文にする事でユーザーの滞在時間が増えそれが評価の加点に影響しているのかもしれないが、今度はその文章の長さと滞在時間の相対的な関係が精査される時代が来るのかもしれない、そうすれば思考の言語化によって情報過多となっても重要な情報は残って行く可能性も出て来るのではないだろうか
思考を言語化して文章にする事が出来る世界
いま私達は学校で規定の学習要領をこなし、テストの点で優劣を判断している
これは日本の戦後からほぼ変わっていない事柄の様だ
だがもし私達、大人も子供も含む人達の思考がネット上に投稿出来るプログラムが出て来たらどうだろうか、自分の思考をリサーチした内容と共に掲載する事が出来れば、これまで鉛筆で絵を描いていた様に綴られた文章に自分の想いを再現出来るという形で色彩に富んだ文章が現れるのかもしれない
今後学習要領でプログラミングを取り入れる事が発表されていたが、それらは私達、今の20代や30代の人とは違った世代を産み落とすのかもしれない
私達がネットも使えないのかと内心笑ってしまう上の世代と同じ様に、未来の30代、40代の人はプログラミングも出来ないのかと笑われてしまうのかもしれない
そんな下の世代の人達が大人になる頃には何かが大きく変わっているのかもしれない
思考を発信出来る事、人としての評価
人の心理状態を可視化し最適化された職に就かせる、人の心理状態を可視化する事で犯罪の抑止力を持つ世界が「サイコパス」というアニメに存在した
ジュビラシステムは人々の心を投影し、その色相の濁りで潜在的な犯罪者を見分ける
人々はいかに色相を濁らせない様にするのか、その為には危険な事や嫌な事から目を反らせなければいけないという世界があった
もし思考を言語化して発信する事が出来る世界が出来たら、子供達の思考を言語化しレポート化し、数学や歴史、理科、国語、それぞれの知識を体系化した内容ではなく思考と言う名の可能性を発展した内容で評価出来る時代が来るのかもしれない
大学生の出す論文やレポートは思考を元に言語化された内容で書かれより自分の適正に合った社会とマッチングされるサービスも出て来るのかもしれない
社会人はリーダーシップやコア専門性を発揮出来る人間を識別出来る様になり、より可能性が広がる様な社会になるのかもしれない
既得権益と自由と人の才能
人の首にはまだ外す事の出来ない首輪が付けられている
自由になろうとする者とそれを許さない社会的な環境や背景
今後この世界がどんな風に変わっていくのだろうか
ただそんな空想を描く事だけは
今の社会でも自由のひとつとして許されている様だった