名人戦で出されるおやつの一例(フルーツの盛り合わせ)
今から22年前、1994年の名人戦は、米長邦雄名人(50)に羽生善治四冠(23)が挑むという構図だった。前年の93年、米長は通算7度目の名人挑戦で、宿敵・中原誠を破って、悲願の名人位に就いた。対して挑戦者の羽生は94年春の時点で、既に棋聖、王位、王座、棋王を併せ持つ四冠王。名実ともに、棋界の頂点に立とうとしていた頃だった。
ところで、新聞に掲載されている新聞観戦記、あるいはネット中継における棋譜コメントを楽しく読む秘訣はなんだろうか。ここでは棋士であり、また将棋ライターの第一人者としても知られた、故・河口俊彦八段の言葉を引いてみたい。
<図面と指し手はいっさい見ない。これが面白く読むコツで、多くの人は、指し手を目で追ったりするから、すぐくたびれてしまう。文を読み、面白いと感じたら、そこで場面を見れば十分である。>(河口俊彦『将棋界奇々快々』)
「え、それでいいの?」
と生真面目な方は思われるかもしれない。しかし、棋士やトップアマを目指すというのであればいざしらず、将棋ファンであれば、それでいいのである。
「94年の名人戦で、米長名人や羽生挑戦者は何を食べていたのか?」
そんな視点で筆者は、当時「毎日新聞」紙上に連載されていた観戦記を読み返してみた。そして、改めて思うのは、限られた紙面の中で多くの情報を伝えるのは大変だということだ。対局者が何を食べたのかまでは、そういつもいつも、こと細かに書けるわけではない。
対してネット中継は違う。テキストはもちろん、写真程度であれば、スペースや容量を気にすることなく、基本的に無制限で情報を伝えられる。というよりもむしろ、何を食べたか、という情報が抜けていたりすると、早く教えてください、という指摘が来るほどだ。
94年の名人戦第1局の舞台は、岡山県の倉敷市芸文館だった。昭和の中期に無敵を誇った、大山康晴15世名人ゆかりの地である。
盤上では羽生挑戦者が、当時の名人戦ではあまり見ることのなかった中飛車を採用して話題になった。振り飛車の達人である大山名人に敬意を表したのだろうか。
持ち時間が9時間と長い名人戦は2日制のタイトル戦でも唯一、夕方に食事を取るための休憩がある。当時は昼食、夕食とも、対局者の休憩時間は1時間だった。(現在では少し改められて、「夕食休憩」は「休憩」と言われるようになった。時間は30分で、その合間に、おにぎりやサンドイッチといった軽食を取ることができる)
2日目夕方の休憩が終わった後は、終局まで指し続けられることになる。
94年当時の観戦記によれば、第1局2日目の夕食は、米長名人は、焼き魚定食。羽生挑戦者は、すしにサラダ。どちらもヘルシー志向だったのだろうか。そして羽生の方は、ちょっと目を惹く組み合わせである。15年後の名人戦で羽生は、すしにジンジャーエールという、まさに「名人に定跡なし」を地で行く注文で、世間をうならせた。
94年の名人戦第1局は、若き羽生挑戦者が勝った。
新聞連載の観戦記において、再び食事が話題に出るのは、羽生挑戦者が3連勝した後の第4局。序盤の駒組が進む中で、昼食休憩に入った。対局者の昼食は、注文したものを自室で取る場合と、関係者と同じ食事を同じ場所で取る場合がある。現在では前者がほとんどだが、昔は後者も多かった。
94年の名人戦第4局1日目は、対局者は、関係者と一緒に昼食を取った。メニューはカツカレー。この時、米長名人は
「カレーに勝つが乗っているとは意表を突かれた」
と笑って、記録係の瀬川晶司三段(現五段)にカツを半分あげたという。
<「カツ(勝つ)を譲るのか」とこちらはつまらないことを気にしていたが、米長は勝利の女神は大切にしても縁起はかつがないのだろうか?>(甘竹潤二「毎日新聞」1994年5月28日朝刊)
重大な勝負の場で出された食事が、カツカレー。ある意味ベタな状況に、書き手の側にも、やや苦労がうかがえる。
瀬川五段にこのときのことを尋ねてみた。全く覚えていません、という回答だった。もう二十年も前のことだからそれは無理はないだろう。そして瀬川は、
「三段の頃の記憶は飛び飛びなんですよね」
と続けた。
この言葉が、当時の瀬川青年の焦燥を表しているようで、胸を打つ。
瀬川は米長-羽生の名人戦の記録を務めた後、四段昇段、すなわち、プロ入りを果たすことができず、奨励会を退会する。しかしアマチュアとして大活躍するうちに、2005年、異例のプロ編入試験が実現した。やや運命論的な話をすれば、プロ編入試験の実施に理解を示し、その道筋を作った一人は、その問題を話し合う棋士総会で将棋連盟会長となった米長だった。
対局の合間、午前と午後には、おやつが出される。またここで少し細かい話をすれば、現在の名人戦では、おやつが出されるのは午後だけだが、当時は午前にも出された。2日目午前、50歳の米長名人は何を注文したか。
<米長はおやつに「シュークリームかアップルパイ」と注文。それを聞いた内藤九段は、「米さんは元気もいいし、食欲もある」と頼もしそうに笑った。今日の名人はとくに顔色がいい>(甘竹潤二「毎日新聞」1994年5月31日朝刊)
内藤國雄九段は、米長とは幾度も好勝負を繰り広げた同世代の棋士であり、米長のことをよく知っている。こうした発言、そしてそれを拾い上げた記述から、後世の人々は、50歳の名人の若さを感じることができるだろうか。
第4局は、米長が中盤の入口で、5八にいた玉をぐいと三段目に上げた、▲6七玉という一手によって広く知られている(1図)。取られては困る玉を陣頭指揮に立たせ、厚みで圧倒するという豪放な米長らしい指し回しで、若き羽生挑戦者が圧倒されている。数ある米長の名局の中でも、後半生を代表する一局といえるかもしれない。
ところで試みに、恐ろしく強くなった現代のコンピュータ将棋ソフトのひとつに、この局面を考えさせてみた。ソフトが代わりに示したのは、▲6九玉という、米長の指し手とは対照的な一手だった。最も大事な玉を前線から遠ざけて、手堅く冷静である。こちらが正解だと言われれば、なるほど、そうなのかも知れないが、人間の一人としては、米長の指し方にロマンを感じざるをえない。
さらに脱線するが、米長が登場する観戦記は、盤上、盤外ともに面白いものが多い。
第2局がおこなわれたのは愛知県蒲郡市の銀波荘。将棋のタイトル戦の定宿のひとつであり、ホテルのすぐ眼の前には、美しい海岸が広がっている。砂浜を散歩していた米長名人は、ケンカをしていたという2匹のカニを連れて帰り、仲良くさせようとして、ひとつのバケツに入れた。バケツは控え室の縁側に置かれ、2匹のカニはおとなしくしていたという。
第5局は群馬県・伊香保温泉の福一。こちらも名人戦の定宿である。その1日目、米長名人が変わった注文をした。
<茶室と休息の洋間を連ねた対局室の南は全面ガラス張りで緑に映えた上州の山が、そこにある。濃い緑、若草色の木、その中に白い花を付けた朴(ほお)の木の点在するのを発見した米長は「あの朴の花をボクの見えるところに飾ってくれませんかね」と意表の注文。毎日山村記者が、電気工事人のような服装に化けて出掛けたが「10メートル以上もある木のてっぺんで採れませんでした」と戻ってきた。米長は笑った>(清水孝晏「毎日新聞」1994年6月7日朝刊)
対局場においては、対局者は絶対の存在である。対局者に気持ちよくいい将棋を指してもらおうと、運営側は心を砕く。だから対局者が、多少のわがままを言っても通る。羽生善治や佐藤天彦をはじめ、現在活躍している棋士が、運営側を困らせるような注文をすることはほとんどない。しかしかつては、木村義雄や升田幸三の昔から、米長邦雄の時代に至るまで、盤外でいろいろなことがあった。
前述の朴の花の話は、毎日新聞学芸部の山村英樹記者から、直接聞いたことがある。山村記者ももちろん困ったが、振り返ってみれば、懐かしいことなのだろう。苦笑しながらも、やっぱり米長さんは面白い人だった、という話になる。
第5局は2日目、終盤に入って、米長名人やや優勢。そこで夕食休憩の時間に差し掛かった。18時前、立会人の丸田祐三九段が対局室に入って夕食休憩に入ることを告げようとすると、米長名人が、ある提案をしてきた。
<「夕食なしでもいいですかね」と米長。「相手の方と相談で——」の丸田九段に「いいですよ」と羽生>
(清水孝晏「毎日新聞」1994年6月16日朝刊)
対局者が合意をすれば、夕食休憩なしでも指し継ぐことはできる。
この休憩なしの提案は、しばしばドラマを呼んできた。たとえば、劣勢のベテランの側があきらめたような様子で、お互いのため、休憩なしで早く終わらせようと言う。対する若手も異存はなく、休憩なしで指し続けてみたところが、若手が間違え、ベテランもやる気を出して粘りはじめ、そして最後は、まさかの大逆転。なぜあそこで休憩を入れて、一息入れる余裕がなかったのか——。そう悔やみ、自分の甘さを省みて、次からはどんな大先輩であっても、自分のペースで戦うことを譲らないと決意する。以上は、しばしば聞かれる筋書きである。
名人戦は、優勢の米長の提案により、休憩なしで指し続けられた。そして羽生挑戦者が最善を尽くし、検討陣が危惧した通り、ややもつれる気配を示してきた。ただし結果は逃げ切って、米長名人の勝ち。年長の名人が気迫を示した一局だった、ということになるのだろう。
94年の名人戦七番勝負は羽生挑戦者3勝の後、米長名人が2勝を返した。そして第6局は羽生挑戦者が勝って、名人位奪取。23歳の羽生が名実ともに、棋界の頂点に立った。
日本における「インターネット元年」とも言われる94年にはまだ、ネットによる将棋中継はなかった。もしこの時に現在のようなネット中継があれば、それは空前の盛り上がりを見せただろう。若き日の羽生の人気たるや、それは恐ろしいほどのものだった。史上初の七冠制覇が現実味を帯びはじめ、そのフィーバーは社会現象にもなった。
そしてもし、米長の全盛期にネット中継があれば、それを意識した米長流のパフォーマンスも、もっと見られたようにも思う。米長最晩年の一局はコンピュータとの真剣勝負だった。それがネット上において、リアルタイムで、動画中継で見ることができた。そして、アーカイブとして遺された。将棋界にとっては、幸運なことだったのかもしれない。
(第2回は5月24日に掲載予定です)