院と寺社と武士と——3つの壁に立ち向かう頼長
1151年、頼長は31歳の若さで内覧の宣旨を賜り、2年前に任命されていた左大臣も兼ねました。内覧は天皇が発布したり受け取ったりする文書を、家臣のなかで誰よりも先に見ることの出来る役職です。公には、執政として、思い切り天下の政治に才腕を振るえる立場になったわけですが、その政治的地位は始まりから、不安定なものでした。
まず、道長、頼通時代の摂関家の栄華はすでに遠くなっており、世は白河上皇以来の院政全盛の時代になっていました。
そのうえ、一族の結束もぐらついています。実は、頼長には忠通という兄がいたのですが、子供がいなかったため、一時期、彼は兄の養子になっていました。 しかし、1143年、頼長が23歳のときに、忠通に子供が生まれると、頼長は兄から疎んじられはじめます。
これに、腹を立てたのが実父の忠実です。もともと彼は少々ぼんやりしたところのある忠通より、美貌で才気煥発な頼長の方に期待していたのですね。
近衛天皇への入内問題もからんで、忠実・頼長と忠通との骨肉の争いは激化。ついに、1150年、忠実は忠通から摂関家の正邸や宝物を強奪して、氏長者の地位を取り上げ、頼長に与えるという強硬手段に出ました。
この摂関家内の対立を、時の最高権力者鳥羽法皇は傍観、頼長に内覧の宣旨を与えながら、本来ワンセットであるはずの関白の地位は忠通に与えたままというどっちつかずの態度を取りました。
このため、頼長の政治的地位も臣下として一番偉い立場にいるんだかいないんだか分からない中途半端なものになりました。
また、外に目を向けると、白河上皇も「賀茂河の水と双六の目、それと山法師だけは思うようにならない」とぼやいた通り、荘園の寄進先としてもともと富裕だった、延暦寺、興福寺、園城寺などの寺社が、僧兵をやとって軍事力まで身につけるようになっていました。
彼らは興福寺なら春日大社の神木(春日神木)、延暦寺なら日吉大社の神輿などの「神威」をかざして内裏に押し掛け、要求が通らない時は、神木・神輿を御所の門前に放置し、まつりごとを妨害することすらしました。
さらに、急速に力をつけるもう一つの勢力がありました。それは武士。貴族達の最も恐れる血の穢れを一身に引き受けた彼らは、平将門の乱などの、武士同士の戦いを通じて、強力な力を身に着け出していました。
頼長の生まれる22年前の1098年には、前九年の役、後三年の役の英雄、源氏の源義家が既に正四位下に任命され、院昇殿を許されています。また、1132年には、平氏の平忠盛が鳥羽上皇から、上皇が造営した観音堂に千体観音を寄進した功績を嘉されて、内昇殿を許可されました。
1147年には、忠盛の息子、清盛が祇園闘乱事件を起こし、祇園社を末寺とする延暦寺と激しく対立、強訴を受けますが、贖銅三十斤という軽い罰で済んでいます。これは、すでに武士が次の時代の主役となる可能性を身の内にひそませ始めたことを示唆しています。
頼長が、執政として、立ち向かわなくてはならない日本国の情勢は以上のようなものだったのです。
「腹黒い」と言われた頼長の最大の武器とは!?
「復古主義」
頼長が掲げた政治姿勢は、この一言に尽きます。
花園天皇は頼長のことを、「原理原則をモットーにしていた」と評しましたが、頼長は当時の世の乱れを「原理原則をおろそかにした結果」と考えたようです。
そして、貴族社会における原理原則は何かと言えば、十七条の憲法や律令に基づく天皇親政の政治ということになります。頼長が日記のなかで尊敬する人物を、彼の生まれる50年ほど前に、強力な手腕で親政を行った後三条天皇だと語っているのは、自身の政治的指針を端的に示しているものと言えるでしょう。
頼長はゆるゆるだった綱紀を引き締め、役人の勤怠を「上日奏上」という月次勤怠表で厳しく管理しました。彼自身も、欠勤の際には必ず届を提出、自ら世の手本となるようにしています。
まぁ、勤怠表はなく、届なしでさぼることもやり放題で、それまでどうやって、仕事してたんだろうという気がしないでもないですが、頼長は本気だったようです。「上日奏上」をもとに、怠けたり失態を犯した者はクビ、逮捕、謹慎などなど、容赦ない厳罰を下しました。
ウルトラホワイト企業のぬるま湯に、どっぷり浸かっていた貴族達は過酷さに恐れおののき、頼長のことをこう呼びました。
「悪左府」
左府は左大臣を意味します。当時の「悪」は悪いとか悪どいとかいう意味以外にしたたかであるとか、ずるがしこい、手ごわいという意味もあるので、一概に悪口とも言えないのですが、「腹黒く、よろずにきわどき人」と評されたのも事実。どうも頼長は自分にも厳しかったけど、人にも厳しかったのですね。さらに、頭が良すぎるんで、人のことが馬鹿に見えて仕方がない。それで、周囲から無駄に恐れられたり、憎まれたりしたようです。
しかし、上級貴族は堕落し、院、寺社、武士が力をつけていくなかで、頼長の理想の世界を実現しようとしたら、この仮借ない苛烈さが必要だったのも事実。そして、頼長がこれらの勢力と対抗する手段として使った手段が男色だったのです。
相手を手なずけるための手段が男色だった!?
前回冒頭のお話で紹介した、頼長の男色相手、藤原隆季、従兄弟の忠雅は共に、当時の最高権力者、鳥羽法皇の近臣でした。
摂関家、藤原家の長である、頼長最大の政治上のライバルは、院政を敷く鳥羽法皇です。頼長は院の足元を切り崩していくという明確な意志を持って、近臣たちを狙い撃ちしていた。五味文彦さんは、著作『院政期社会の研究』のなかで、彼の男色行為の意義をそう指摘しています。
実際、院近臣のなかで頼長にやられちゃった人は、他にも藤原家明、成親がいます。頼長にとって閨で相手を屈服させることは、政治上でも屈服させることと同義だったのです。
また、頼長の好色なまなざしは新興の勢力である武士にも向けられていました。
お相手になったのは源義賢という武士。
枕草紙で清少納言が、
「いみじう美々しうてをかしき君も随身なきはいと白々し」
と言ったように、美しく華奢な貴族の若君に身の丈高く屈強の武士の護衛は、平安女性にとって、最高の組み合わせ。当時、清少納言みたいな女性はたくさんいたはずなので、800年前の腐女子(?)たちは2人を見てよからぬ想像をたくましくしたことでしょう。
台記にはこう記されています。
「今夜、義賢を臥内に入る。無礼に及ぶも景味あり。不快の後、初めてこの事あり」
原文のままでも意味は大体分かりますね。頼長の味わい深い文章を台無しにすることかもしれませんが、一応現代文訳します。
「今夜、義賢と床を共にした。無礼にもこっちが攻められてしまったけどすごくよかった。最初は嫌だったが、初めていってしまったよ」
歴戦を戦い抜き、自信と実力を身に着けてきた武士は、閨のなかでも、そう従順に従う相手ではなかったのです。日に焼けたたくましい筋肉に踏み荒らされて、頼長もくたくたになってしまったことでしょう。
むくつけき武士に優美な貴族が屈服させられる。
几帳のなかでひめやかに描かれたこの絵は、新しい時代の到来を予言するものでした。
1155年、義賢は甥の源義平に討たれますが、彼の息子駒王丸は見逃され、信濃木曾谷にかくまわれました。当時2歳だった駒王丸は木曾の山野に鍛えられ、勇敢でたくましい若者に成長します。この少年が元服後、改めた名が義仲。
彼が平家を打ち破って京都に攻め入り、その軍団が洛中を焼き、天皇家につながる皇族や貴族を虫けらのように殺し、やんごとなき女性たちを路上で凌辱するのは、「この事」のあった34年後、1183年のことでした。
そして、こうした武士の台頭の初めとされる乱によって、頼長は命を落とすことになるのですが、その話はまた次回にさせていただきたいと思います。
参考文献:『男色の日本史--なぜ世界有数の同性愛文化が栄えたのか』(ゲイリー・P・リュープ著、松原國師監修、藤田真利子訳、作品社)/『武士道とエロス』(氏家幹人著、講談社現代新書)/『男色の景色―いはねばこそあれ』(丹尾安典著、新潮社)/『江戸男色考〈若衆篇〉』(柴山肇著、批評社)/『江戸男色考〈悪所篇〉』(柴山肇著、批評社)/『本朝男色考』(岩田準一著、岩田貞雄)/『院政期社会の研究』(五味文彦著、山川出版社)/『頼長さまのBL日記』(安曇もか著、リブレ出版)
イラスト:富士篤実