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 沖縄の本土復帰から15日で44年。沖縄県読谷村出身で東京都三鷹市に住む元会社員の山内勝規さん(65)は、米軍統治下の古里で米兵とみられる黒人から渡されたビラを今も大切に保管している。米国と日本で虐げられた者同士の連帯を呼びかける内容だった。

 米軍への市民の怒りが爆発したコザ市(現沖縄市)の暴動から間もない1971年1月ごろ、市内の先輩の下宿近くを歩いていた山内さんと友人たちに、私服の黒人が「ブラザー」と声をかけてきた。すれ違いざまにビラを渡された。

 B4判ほどの大きさ。「基地内の黒人から沖縄の人びとへのアピール」と題し、上半分に日本語、下半分に英語で書かれていた。近くにある嘉手納基地の黒人米兵が市民に向けて作ったものだと受け止めた。

 〈黒人兵は、自分たちがオキナワで好かれていないのは肌の色のせいではなく、“ヤンキー”のイメージのためだということを知っています〉

 沖縄がヤマトに支配されてきたのと同様の、米国での黒人差別の歴史をつづり、「私たちは同じ問題をかかえている」と訴えていた。

 コザ暴動を「正当な動き」と評価し、「それ以外にヤツらをやっつける方法はない」と結んでいた。「ヤツら」とは、白人を中心とした米国の支配層を指すとみられる。

 山内さんは暴動の直後に現場に駆けつけていた。ビラの文面に納得したのを覚えている。

 沖縄の人々は米国の黒人差別を知っていたから、暴動の時も黒人米兵の車に手を出さなかった。黒人側もそうした配慮を感じたことが、ビラが作られた背景にあるだろうと、山内さんは振り返る。

 ビラの黒人と再会することはなかった。その年に東京に出て、働き始めた。翌72年、沖縄が日本に復帰。家族ができ、定年まで懸命に働いた。

 沖縄の基地負担はなお重い。時折、ビラを思い出す。米軍普天間飛行場(宜野湾市)を名護市辺野古に移そうという日米両国政府。反対する沖縄。出口は見えない。

 山内さんは「沖縄の人々の痛みを共有し連帯の言葉を発する人が米軍の中にもいた。ヤマトのあなたたちは何をしているのか、と問いたい」と話す。

 沖縄の米兵を長く取材した琉球新報の前社長、高嶺朝一さん(72)は、コザ暴動の直後に現地で配られたビラを見たことがある。嘉手納基地の黒人米兵が英語の原文を書いたのではないかと言われ、山内さんのビラと日本語文章の内容はほぼ同じだったと記憶している。勤務時間外の黒人米兵が街で配った可能性が高いとみる。

 高嶺さんによると、当時は米兵が基地の外で黒人の地位向上を訴えたり、軍当局を批判したりする集会を頻繁に開いた。地元の反戦・平和運動の人たちとの交流もあった。「当時に比べて、今は米軍が沖縄の社会から孤立していると言えるかもしれない」と話す。(佐藤純)

     ◇

 〈コザ暴動〉 1970年12月20日未明、コザ市(現沖縄市)中心部で、米兵が起こした交通事故をきっかけに数千人の人々が80台を超える米軍関係車両を焼き打ちにした。沖縄返還は当時すでに決まっていたが、米兵によって繰り返される事件・事故や米軍の統治に対する市民の怒りが背景にあった。

■基地内の黒人から沖縄の人びとへのアピール(抜粋)

 黒人はオキナワと同様、解放のために長い間たたかってきました。誰があなたの権利獲得を止めることができるでしょうか!

 オキナワ人と同様、黒人たちは差別されてきたのです。私たちは同じ問題をかかえているといえます。

 黒人兵は、抑圧された人々が連携してより良い関係を作るために、喜んでオキナワ人と話し合いたいと思っています。共に集まり、問題をぶち壊すために、解決法を見つけようではありませんか。

 黒人は暴動が起きるにいたった状況をよく知っています。暴動はまったく正当な動きであったし、それ以外にヤツらをやっつける方法はないのです。