kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2016年05月07日

イスラム教徒がロンドン市長に当選した。あるいは、移民のバス運転手の息子が、イートン校に通った富豪の息子に勝った。

5月5日に投票が行なわれたロンドン市長選挙の結果が出た。最終的な公式の告知は遅れに遅れているが(だから現時点ではウィキペディアの記事はまだ更新されていない。票の数え直しなどが起きているらしい)、当選者はわかっている。事前の世論調査が当てにならない昨今だが、この選挙に関しては、事前の世論調査が示していた通りの結果だ。



ロンドン市長選について、少しまとめておこう。

英国の首都ロンドンに、現在の「市議会 assembly」と「市長 mayor」が導入されたのは、2000年のことである。この2つをまとめてThe Greater London Authority (GLA) という。議会は市長を監視する役目を負うという点で、制度導入時は「アメリカ型」と説明されていた(米大統領と議会の関係)。
https://en.wikipedia.org/wiki/Greater_London_Authority

この制度が導入される前は、それはそれでいろいろあったのだが、書いてると先に進めないので、関心のある方は下記など参照。
https://en.wikipedia.org/wiki/Greater_London_Council

2000年に実施された初回のロンドン市長選挙では、GLC時代に勇名を馳せたケン・リヴィングストンが、当時のブレアの労働党からは離れて無所属として立候補し、57%以上を得票して当選した。4年の任期を終えたリヴィグストンは、2004年にも再度当選したが、その次の2008年の選挙では保守党のスター、ボリス・ジョンソンが53%を得票、リヴィングストンは落選した。2012年にも再度当選したジョンソンは2015年総選挙で国会に復帰し、2016年のロンドン市長選には出馬しない。
https://en.wikipedia.org/wiki/Mayor_of_London

ロンドン市長から退くジョンソンに代わって保守党から出るのが、ザック・ゴールドスミス。ロンドン西部の富裕層の多いリッチモンドを地元とする、大金持ちの実業家の息子である。1975年生まれ。イートン校で学んだが薬物関連で放校処分となり、大学には行っていない。最近の富裕層には珍しくないが、「環境保護に関心が高い」人で、選挙戦でもそれをアピールしている。現在は英国会の下院議員。
https://en.wikipedia.org/wiki/Zac_Goldsmith

ザックの姉のジェマイマは、かつてパキスタンのクリケット代表選手、イムラン・カーン(現在は政治家)と結婚していて、「ジェマイマ・カーン」という名前で人権活動などを行なっている。彼女は2010年にウィキリークスのジュリアン・アサンジの保釈金を用意したサポーターのひとりだが、その後、ウィキリークスとは切れている。

一方、労働党は、南ロンドンの「移民街」(Asianの多い町)であるトゥーティング出身のサディク・カーンをロンドン市長候補に選んだ。1970年に、パキスタンからの移民の家の子としてロンドンに生まれ、法律を学び、弁護士として活動してきた。彼も英国会の下院議員をつとめているが、ロンドン市長に当選したら下院の議席は返上するとしている(兼職も違法ではない。2015年に下院議員に復帰したボリス・ジョンソンは、現在、兼職している)。
https://en.wikipedia.org/wiki/Sadiq_Khan

今年のロンドン市長選挙について、読んだ文章のなかで最も明確だったのが、70年代にウガンダのイディ・アミンの圧制を逃れて英国に渡ったYasmin Alibhai-Brownさんの文章。
http://www.theguardian.com/commentisfree/2016/may/03/sadiq-khan-mayor-london-terrorists-worst-nightmare

英国の政界には、「移民(の子供)」や「キリスト教以外の宗教を信仰する人」は珍しくない(イングランド国教会というものがある英国について「キリスト教」でまとめて語るのも雑な話だが)。しかし、アジア系(英国でAsianといえば南アジア系である)の政治家たちは、「移民は差別されており、貧しく……」というナラティヴでは無視される。「イスラム過激派」と呼ばれる人々は、そのナラティヴを使って、実際に大変な思いをしている(と本人が思っている)人たちに接近する。「差別され、無視され、貧しく、苦しい立場の我々」にとっての「正義」の実現、という《物語》を、彼らは語る。

その手法を封じるために最も効果的なのは、イスラム教徒が「誰もが知っているような政治家」になることだ。「産業大臣」とか「下院なんとか委員会委員長」とかは「政治オタク」しか知らないかもしれないが、「ロンドン市長」なら誰もが知ってる存在だ。

イスラム教徒がロンドン市長になるということには、そういう意味(効果)もある。

だが、サディク・カーンを当選させたロンドンの有権者は、彼が「ムスリムだから選んだ」わけではなく、「選びたい人を、ムスリムだからという理由で、選ばないということをしなかった」のだと思う。

しかし、この結果を、「ロンドンがイスラム教徒に乗っ取られた」と騒ぎたい人たちいるし、その人たちがそう騒げば耳を傾ける人たちもいる。









「どう計算しても、結果はサディク・カーンの当選だ」ということになってから、正式な結果のアナウンスがあるまで異様に時間がかかっていて、ある時点で「深夜0時にアナウンスを行なう」ということが告げられるまでの間、Twitterでは何度も「もうすぐアナウンスがある」という情報が流れ、それをモニターのこちらで今か今かと待っていた私は、選挙管理委員会による正式な結果布告ではなく、イスラモフォビアのユーラビア脅威論者が騒いでいるのや、それに対する「ねーねー、どんな気持ち? どんな気持ち?」的な発言を眺めているハメになった。

消耗した。うんざりした。北アイルランドの自治議会選挙の開票も大変に時間がかかっていて、マーティン・マクギネス(選挙区をミッド・アルスターからフォイルに変えた)の当選が一向に告知されないというおもしろスリル満点の事態になっているので、そちらも同時進行で見ていたのだが、こちらも全然進まない。というわけで先日購入しためっぽうおもしろい書籍のページをめくりながらだらだらと見ていて、いろいろと重なる部分があるなあと思った。




4166609874サッカーと人種差別 (文春新書)
陣野 俊史
文藝春秋 2014-07-18

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そんなこんなで異様に時間がかかっていたのだが、日本時間で7日の8時20分過ぎ(現地で0時20分過ぎ)にようやくのことで結果が告知された。

















写真を見ると、サディク・カーンは小柄な人である。ザック・ゴールドスミスと並ぶと、身長185センチ(ザック)と165センチ(サディク)というくらいに見える。

その小柄な人が、これから4年、ロンドン市のトップとして、あの複雑な大都市を引っ張っていく。















※このあとに結果が出るまでのツイートを貼り付けるつもりだが、今は気力が尽きた。

※この記事は

2016年05月07日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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