他人を好きになることは他人を嫌いになることと表裏一体の関係にある。従って、「嫌い」を正確に見届けていくことは、「好き」と同様、豊かな人生を築くためには必要なことである。「嫌う」とはどういうことかを説明する一冊。
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1. 「嫌う」とはどういうことか
特定の人を好きになれば、当然のことながらその反対のベクトルをもつ特定の人を嫌うことが寄り添ってくる。それどころか、好きになったその人がある日突然嫌いになるということも、その人のこの面は好きだがあの面は嫌いだということも、誰でも知っていること。他人を好きになることは他人を嫌いになることと表裏一体の関係にあるのです(P.7)。
ひとを嫌うことはー食欲や性欲あるいはエゴイズムと同様ーごく自然であり、それをうまく運用してゆくことのうちに、人生の豊かさがあるのではないか。つまり、はじめから廃棄処分して蓋をしてしまうのではなく、「嫌い」を正確に見届けてゆくことは、「好き」と同様やはり豊かな人生を築く一環なのではないか(P.8)。
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私がつかんだこと、それは「嫌い」という感情は自然なものであること、そして恐ろしく理不尽なものであること、しかもこの理不尽さこそが人生であり、それをごまかしてはならないこと、このことです。こう確信して、私は少し楽になりました(P.10)。
2. 嫌われたくない症候群
この歳になって痛感すること、それは人間とはなんと他人から嫌われたくない生物か、自分が嫌っている人にさえ嫌われたくない生物か、ということです。普通、理性的に考えれば、自分も世の中のかなりの人をさまざまな原因で嫌っているのだから、自分もある程度の人にさまざまな仕方で嫌われてもしかたないと思えるはずなのですが(P.14)
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自分に対する他人の「嫌い」という感情はこれほど自然に耐えがたく、この点に関してはどんなに理性的な人でも個人のあいだの平等という基本理念を忘れてしまう。つまり、自分は他人を盛んに嫌っているのにかかわらず、他人から嫌われることは絶対に許せないという不平等な姿勢に凝り固まってしまうのです(P.15)。
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3. さらっと嫌い合う関係
軽くあっさりと嫌い合ってゆけばいいのです。対立し合っていけばいいのです。(中略)お互いに嫌いであることを冷静に確認し合えばそれでいい。それが、どうしようもないことを認識し合えばそれでいい。「嫌い」がふたりのあいだに消滅する日が来るかもしれないが、それはまったくの偶然。変に期待しないで、淡々としていればいいのです(P.35)。
「ほのかな愛」があるなら「ほのかな憎しみ」もあっていいでしょう。お互いに相手を「ほのかに」嫌いつづければいいのです。(中略)こうした関係から、意外に豊かな産物が収穫されます。お互いの考え方や感受性の違いが身に沁みてわかり、どうも変わりそうにないなあという断念のもとに、無理なく互いに気に入らないことを表明してゆける関係は、とても健全なものです(P.36)。
著者紹介
中島 義道(なかじま よしみち、1946年7月9日 - )は、日本の哲学者、作家。元電気通信大学教授。マスコミ曰く「戦う哲学者」。専攻はドイツ哲学、時間論、自我論。イマヌエル・カントが専門。
この本を読んで一言
無意識的に人を「嫌う」ことは良くない、それが原因で相手を傷つけてはいけないと思っていたところが私にはありました。しかし、そもそも人を「嫌う」というのは自然な感情。それを見て見ぬふりせず、相手の価値観や考え方などの違いを理解した上でお互いに無理なく気に入らないということを表明していける関係を構築していく、という考え方に大きく心を揺さぶられました。「好き」になることだけでなく「嫌い」という感情を大切にすることも人生で重要なことですよね。
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