我々が母を選ぶことができないように、ことばを選ぶ権利もない。その母語、例えば、英語は権威ある国家語とされる一方、一部の言語は野卑な方言とされたりするのはなぜか。ことばの差別の諸相を明確にする一冊。
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1. 19世紀以降の言語学は、ことばから権威を剥ぎ取る努力の連続だった
一般に十九世紀以来の言語学は、それ自体としての言語をとり出すための努力の連続であったとも言え、(中略)言語学が科学になるためには、ことばに加えられている、あるいはことばに等級をつけて差別するあらゆる外的な権威を剥ぎとっていかねばならない(P.22)。
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そこでソシュールは、このような色あいを含まぬことばをとり出してくるために、ギリシャ語に起源をもつイディオム(idiome)という語に援けを求めたのである。(中略)ソシュールがおこなったのは、言語にまつわりつく、こうした社会的、政治的威信を骨抜きにすることだったのである(P.24)。
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2. 「母語」の発見
自分たちの話していることばが「母語」であるという認識にたどりつくためには、母語でないことばがまずあって、それに対立する自分自身のことばという自覚が生れてこなければならなかった(P.30)。
3. 文法とは何か
現実の言語は変化する。いや、変化は言語の本質に属するとさえ言えるのだ。(中略)文法の 安定と不変を願う気持が、それを正しいときめ、それからの逸脱を誤りとするから、言語の変化はいつでも誤りであって、正しい変化というものは論理的にあり得なくなるであろう。そのことはつまり、言語に関するかぎり進歩という概念はあり得ないということになる(P.73)。
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著者紹介
日本の言語学者。専門は社会言語学。モンゴル研究も行う。言語と国家の関係を研究。一橋大学名誉教授。2009年モンゴル国北極星勲章受章。
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