はじめに確認しておきますと、今回の記事でとりあげる「ライト批評」「ライト批判」は「ライトノベルのライトさを批判するような批評」のことではありません。ライトノベルのようにライトな――つまり"お手軽な"批評・批判のことです。
こと「ライトさ」やそれに類する要素からかなり批判されがちなライトノベルですが、そうしたライトノベルに対する批判の方にも、かなり「ライトさ」が見受けられる、この皮肉な状況について、今回は探ってみたいと思います。
ライトな小説とライトな批評
言うまでもなく、ライトノベルはライトな小説(ノベル)です。主に中高生をターゲットとしたジュブナイル小説の現代における形であり、その読者層の設定から来る当然の要請として、いわゆる一般小説よりわかりやすい物語の形をとることが多い、とまずは言えるでしょう。
無論、そう簡単に言い切ってしまえるものでもありません。そのジャンルの越境性から、SFやファンタジーなど一般小説としてはそれほど売れ線でないジャンル小説の受け皿として機能したり、あるいは現代に典型的なメディアミックスの最前線として展開したりといった、わりと多様な面を併せ持つ分野でもあります。
とはいえ、基本的には「ライト」です。すらすらと読めて一般小説や文学小説などに比べると格段に早く読み終われる作品が数多く存在します。
一方で多くの批判にライトノベルという分野全体が晒されていることは周知の事実でしょう。そして重要なのは「多くの批判」というまさにこの点で、その批判の主な担い手は、少数のプロの批評家というよりは多数の大衆です。
大衆に消費されるライトノベルと、大衆によって叫ばれ、そしてやはり消費されるライトノベル批判。この二つの類似性はかなり注目すべき点があると、僕は考えます。
典型的なラノベ批判
ではまずライトノベル批判――ラノベ批判の典型的な例をいくつか具体的に挙げてみましょう。
・文章力がない
・絵だけで売れている
・キャラだけ
・会話ばかり
・話が薄っぺらい
・タイトルが長い
・美少女ハーレムばかり
などなど、といったところでしょうか。
改めて見るとなかなかな言われようですね。すこし笑えてきます。
さて、明らかに明らかな事ですが、こうした批判は誰にでも言えます。別に証拠を求められることもありませんから(仮に求められたとしても無視するのが一般的ですから)特に確かめる必要もありません。あなたも明日からと言わず今からでもラノベ批判できます。
こうした手軽さは、なかなかどうして、批判対象であるライトノベルと卑近なところがありますね。「書こうと思えば誰にでも書ける」なんてことも言われる事もありますが、「書こうと思えば誰にでも書ける」というラノベ批判自身も、書こうと思えば誰にでも書けるわけです。
またライトノベルの美少女ハーレム展開やいわゆる俺TUEEE展開などを指して「オタクの幻想」「オタクの誇大妄想」と見る批判もあります。何のとりえもない主人公がモテて強い、ということが読者であるオタクの自尊心を癒してくれる、というわけですね。ところで、こうした構図はラノベ消費のみならず「ラノベ批判」消費にも見てとれます。お手軽な批判によって大人気ライトノベルを批判し遂せるという構図が、その批判を肯定的に享受する人にとって癒しになりうるわけですね。これは大人気=世間という大きな対象への勝利という面や、逆に古色蒼然とした権威主義的な世界観の再確認・再強化など、様々な面において同様に働きうると言えそうです。
権威主義と言えば、文学小説――特に日本においては純文学と呼ばれるような小説と比して、その質の低さ(特に芸術性における)を取り沙汰しての批判もありえます。ところで、この点こそ今回の主題とも言えますが、「ラノベ批判」もまた「批評」としては何の理論的あるいは学術的背景も持っておらず、古の印象批評にすら及んでないような稚拙で未熟な批評が散見されます。というより、批評と呼ぶことすら躊躇われるケースが大半です。ここで「純文学-ライトノベル」という構図は「文学批評-ラノベ批評」という構図とほぼ相似している事がわかります。
更に「批評-ライト批評」としてみれば、ラノベ批評=ライト批評(お手軽で稚拙な批評)と言えてしまうわけですね。
さて、これまで典型的なラノベ批判を追ってきましたが、この節のタイトルはダブルミーニングです。つまり「典型的な」ラノベ批判は同時に「典型的なラノベ」批判でもあり、ライトノベルもまたまさに「典型的」であることによって多くの場合批判を受けます。例に挙げた批判の中にも「~ばかり」という文言がいくつかあり、また「長いタイトルばかり」だと思われていた時代もありました(今でも?)そもそもラノベという分野一般への批判であることからして、どの批判にも「~ばかり」というニュアンスが含まれるのは当然とも言えますね。
例えば「ハルヒが売れた後は似たような作品が雨後のタケノコのように新人賞に送られた」というようなことが言われたり、似たようなことが「禁書」でもあったなどという話も聞きます。「ラノベはワンパターンだ」「似たようなのばかりだ」などとも言われます。
ところで「長いタイトル」が取り沙汰されてその後、まさしく雨後のタケノコのように似たような「長いタイトル」批判が繁茂し、他にも「典型的」で「ワンパターン」で「似たような」そして「どこかで聞いたことがあるような」ラノベ批判がネット空間に溢れました。そう、まるでハルヒフォロワー禁書フォロワーを多く産んだラノベの変遷をリスペクトでもするかのように。
このように、実のところライトノベルとラノベ批判=ライト批評・ライト批判は、かなりの面で似た部分を持っているのです。
文学(批評)の方法を使わなくても人気を勝ち取れる
こうした傾向はポストモダン化による各分野の権威の弱体化として解釈できそうです。
例えば文学領域での権威の失墜がライトノベルのようなある種「自由な」文学を生んだのと同時に、批評領域での構造主義批評だとかポスト構造主義といった権威がだんだん求心力を失い、誰でも彼でも「自由に」批評できるようになった結果、ライト批評が生まれた、と考えられるわけです。
ここでライト批評としてのラノベ批判の実に惜しい部分は、批評領域における権威の打破という出自に反して、内容としては文学領域の権威に支えられざるを得ない、という点です。簡単に言えば、どうしたって矛盾してしまうんですね。
一方で、どれだけ矛盾しようがそうしたライトな批評は繰り返され、そして好んで消費されます。そう、まるで彼らの批判するライトノベルのように。
とりあえずダブスタはやめましょう
僕は基本的に批評とは創作行為だと思っているし、創作行為であるからには、何かを「つまらない」とマイナスに批評することは、つまらない小説を書くのと同じだけ無益で、もっと言えば有害なことだと思ってます。
しかし、ひとまずそれは置いておいて、これに同意しない人にも言っておきたいことがある。
とりあえずダブスタはやめときましょう、ということです。
文学の権威に訴えてラノベ批判をするなら、ちゃんと批評の権威からの視線も意識しましょう。構造主義批評とか、そうした「ちゃんとした」批評をしましょう。「客観的だったら良いだろう」とかそういう発想ではいけません、そもそも客観的な批評などありえませんから、そのあたりも含めてちゃんと批評の理論や歴史を勉強してから批評して下さい。それが無理なら(僕も無理ですが)あなたはラノベを批判するような位置にはいないということです。こと、批評という領域に立つに当たっては。
「ライト」であることを肯定的に捉えるか否定的に捉えるか、せめてこの点だけは一貫しましょう。ライトノベルを肯定しながらライト批評をする、ライトノベルを否定するなら自分にもライト批評を許さない。そうした一貫性です。
そうすれば、まぁ大抵は矛盾なくうまくいくと思いますよ。