ベルギーの首都ブリュッセルの同時テロは、空港と地下鉄が標的となり34人が死亡、200人以上が負傷する大きな被害を出しました。直後にIS(イスラム国)が犯行声明を出し、実行犯がパリ同時多発テロとつながっていることも明らかになりました。
私たち日本人にとって、ISという異様な組織を理解する手がかりはオウム真理教です。一般市民を対象とする地下鉄サリン事件を実行したからだけではなく、ISとオウムには、原理主義的な宗教団体がテロ組織に変容していく共通点があります。
オウムは仏教系カルト教団ですが、日本の大多数の仏教徒はテロとはなんの関係もありません。「なにを当たり前のことを」と思うかもしれませんが、イスラーム系カルト組織であるISと一般のムスリムの関係もこれと同じであることを、私たちはおうおうに見失ってしまいます。
それと同時にオウム真理教が、仏教を学びたい真面目な若者たちを引きつけていたことも事実です。
釈迦(ゴータマ・シッダールタ)は2500年ほど前に悟りを説きましたが、仏教ではキリスト教やイスラームのような聖典は定めず、後世の解釈によって仏典が膨大に膨れ上がっていきました。そのなかでオリジナルにもっとも近いのは釈迦の言葉をパーリ語に翻訳したもので、上座部仏教(小乗仏教)としてスリランカやタイ、ミャンマーなどに伝わりました(南伝仏教)。それに対してサンスクリット語の大乗仏教は、釈迦の入滅から5~600年後の紀元前後に成立し、三蔵法師などによって漢字へと翻訳されたものが6世紀に日本に伝えられます(北伝仏教)。
ここまでは仏教史の常識ですが、だとすれば「ほんとうの釈迦の教え」にたどり着くにはパーリ語で上座部仏教の経典を学ばなくてはなりません。これがオウム真理教の「仏教原理主義」です。
いったん“仏教理解の最先端”を体験すると、日本の仏教はデタラメそのものでしかありません。出家した僧侶が妻帯・肉食・飲酒し、寺を子どもに世襲させるなどいうことは、小乗仏教はもちろん大乗仏教でもあり得ませんから、日本の仏教そのものが「破戒」なのです。
オウム事件のとき、メディアは教祖の空中浮遊などを競って取り上げ、そのバカバカしさを暴こうとしました。しかしこれでは、なぜそんな荒唐無稽な宗教に若者たちが引き寄せられるのかを説明できません。
日本の既成仏教は「あんなものが仏教であるはずはない」というばかりで、オウムの信者との対話を頑なに拒みました。その理由は、パーリ語も上座部仏教もまったく知らなかったからでしょう。
こうしてオウムの「仏教徒」たちは、日本の葬式仏教を徹底的にバカにし、教祖と自分たちを絶対化するようになります。それが社会に受け入れられないと、自分たちが「(フリーメーソンに操られる)日本国家」の被害者だと考えるようになり、破滅的なテロへと突き進んでいったのです。
テロ実行犯は社会からの脱落者かもしれませんが、組織の中核には「信仰」があります。武力によってISの領土を奪回できたとしても、「精神の領土」はずっと残りつづけるでしょう――残念なことですが。
『週刊プレイボーイ』2016年4月4日発売号
禁・無断転載
>テロ実行犯は社会からの脱落者かもしれませんが、組織の中核には「信仰」があります。武力によってISの領土を奪回できたとしても、「精神の領土」はずっと残りつづけるでしょう――残念なことですが。
だから、橘さんに訊きたいのは、「ならどうしたら良いの?」
っていうことなのです。
人類の歴史において、マルチン・ルターからオウム真理教、イスラム国に至るまで何度も
「原理主義」がテロに変貌する事例を経験しているのにもかかわらず
「原理主義」への回帰に対する誘引がこれほど強固なのはなぜなのでしょうか?
いっそのこと、金儲け・現世利益こそが善であるとした「俗物真理教」
こそを唯一の世界宗教するべきなのかもね。
教祖は「フェレンギ人」にやってもらって。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%AE%E4%BA%BA
>上座部仏教もまったく知らなかったからでしょう。
あまりにも日本の仏教界の人を馬鹿にしすぎでは?
>日本の仏教そのものが「破戒」なのです。
これも馬鹿にしすぎだと思います。
大乗は仏教では無いという事が2世紀あたりに色々言われてたように時代によって変る物です。
(もちろん大乗側は反論してますよ。)
それに上座部仏教も色々問題を抱えてますし、聞きかじり程度で何が正しいは分かりませんよ。
まあ橘さんは仏教と言うより釈迦教って感じですかね。
ちなみに釈迦が生きてる頃から戒律は地域によって変化していたと言う説もあります。
「破戒」ですねw
宗教は、別に社会システム維持のための便利な道具ではありません。
社会や人生の不条理から個人を、個人の精神を救済する思想体系です。
故に宗教は、そもそも個々人を救済するための反社会的な性質を内包しております。
この反社会的な性質を隠蔽出来て、社会と折り合いつけられた宗教のみが現代まで生き残って勢力を築いております。
ゴータマシッタータ王子が国と家族を見捨てたように、ナザレのイエスが律法を破壊する危険なアジテーターであったように。T理教も弾圧される理由がありましたし、K明党が政界で勢力を持つまではSK学会も酷いものでした(今は…?)
現世利益など宗教がもつほんの一面にすぎません。人間が不合理な存在で人生に不条理が待っている以上、この領域にアプローチできる思想体系はずっと続くでしょう。
だから、宗教でも始祖だけが正しく、後世の解釈のバリエーションや変遷を否定する
態度というのは、良くないということです。
ちょうどファーストガンダムだけが正しく、その後たくさん作られたガンダムの多種バリエーション
を認めないマニアと同じです。
これに類する話は様々な分野にありますよね。
くっだらない問題に対して、その前提をずらしてしまうというのが、ポストモダンの功績だったはずです。
いま、ポストモダンの再興こそが求められているのです。