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真顔日記

三十六歳女性の家に住みついた男の日記

単純な接客業は人をおかしくさせる

上田の日常と妄想

単純な接客業は人をおかしくさせる。

二十代の前半、古い喫茶店で二年ほど働いていた。駅前の店で、時間帯は早朝。レジで注文を聞き、その場で飲み物を出すスタイル。出勤前のサラリーマンが主な客層だった。

このような店では、とにかくスピードが肝である。いかに素早く、客を待たせずに飲み物を出すか。注文の大半はコーヒーだ。ややこしいマキーアートやらフラペチーノやらは何もないし、そもそも日本のサラリーマンは朝からフラペチーノを飲んだりしない。

週五で入っていたから、どんどん接客速度は上がっていった。単純なことしか言わないから、速度は肉体の限界まで上がっていく。いかに身体を動かせるか、いかに舌をまわせるか、それだけだ。慣れれば慣れるほど、自分は機械化していく。コーヒーを出すだけの機械だ。

しかしたまに、あまりに速度が上がりすぎて、舌がついてこなくなることがあった。

一度、コーヒーを出すのがすこし遅れたことがあり、客に「すみません、お待たせしました」と言おうとしたことがあったんだが、まったく舌がまわらず、

「すまッ!」

とだけ言ったことがあった。

客はキョトンとしていた。二文字しか言えてないんだから当然である。しかも接客ルーチンの勢いはあるから、にこやかな笑顔と元気のよい発声のまま、言葉だけが崩れている。元気な馬鹿、ここに誕生である。

私はやっちまったと思い、なんとか体勢を立て直し、「お待たせしました」だけでもちゃんと言おう、それで最終的にまるくおさめよう、すべて言えていた雰囲気にしようと思ったんだが、失敗は続くものである。今度は、

「おたッ!」

と言っていた。

やはり、二文字しか言えていなかった。あいかわらず背筋は綺麗に伸ばし、鍛え抜かれた最高の営業スマイルのまま、私は無意味な二文字を絶叫していた。この舌はどうしたのか、こんなにも回らない舌だったか、まったく使えない無能な舌だったのか。

結果、私は「すまおた」という謎の四文字を元気よくさけぶ店員になっており、客はキョトンとしたまま、コーヒーを持っていった。頭に大きなクエスチョンマークが見えた気がした。私は固定された笑顔のままで真っ赤になっていた。

他にもある。

朝の来店ラッシュの中、次々とくる客を必死でさばいていたとき、「ありがとうございました」を何度も言っているうちに、徐々に頭がぼんやりしてきたことがあった。

サラリーマン、サラリーマン、サラリーマンと、背広の男が次々にやってきて、まったく同じホットコーヒーのSを頼み、自分もまったく同じ反応を繰り返す。そのうち、自分がいつからコーヒーをいれているのか、いつまでコーヒーをいれることになるのか、コーヒーをいれはじめる前にも自分というものが存在していたのか、何も分からなくなっていったのだ。

そんなとき、サラリーマンに混じって一人の若者がきた。この客はボーダーの服を着ていたんだが、私は限界をこえていたんだろう、「ありがとうございました」と言うつもりが、

「しましま!」

と言っていた。

幼児がえりしていた。見たものをそのまま言っていた。犬を見てワンワンと言う幼児のように、ボーダーの客に「しましま」と言っている自分がいた。あれも客はキョトンとしていた。

それが私の接客でおかしくなった記憶。

客の立場で似たことを体験したこともある。

むかし、近所にカレー屋があった。店員は徹底的にマニュアルで制御されている感じだった。店長以外の全員がまったく同じ表情をしているのだ。全員、腹の前で手を組み、同じ口角のあがりかた、同じ発声法で、同じことを言ってくる。「独裁国家?」と思った。

店長は小太りの男で、ひとりだけ愛想が悪く、ニコリともしなかった。あれはどうかと思った。おまえが率先してやれよ、と思わされた。いつも店の奥にいて、不機嫌そうな顔で、店員たちの働きぶりを見つめていた。だから私は、この小太りの店長を勝手にビッグブラザーと呼んでいた。

ジョージ・オーウェル、1984(カツカレーのカロリー数)。

店員たちの接客は非常にクオリティが高かった。高すぎると言ってもいいほどだった。そこには個々の店員の特徴のようなものがほとんど存在しなかった。誰に接客されても感触は同じだった。

だが、店長の独裁は店員たちに強烈な負荷をかけていたんだろう。ある時、ひとりの女性店員がレジで噛んだことがあった。たぶん「ありがとうございました」と言おうとしていたんだが、口から出ていたのは、

「アガガッ!」

だった。口角を不自然にあげた奇妙な笑顔のまま、「アガガッ!」と言っていた。徹底的な管理下におかれた人間の最後の個性だった。命の絶叫。

あれは、客の立場でおかしくなった店員を見た瞬間だった。私はキョトンとしていた。店員がおかしくなると、客はキョトンとしてしまうのだ。悪いことをしたとおもう。私も接客業でおかしくなったことがあるんだから、理解を示してやればよかった。

「アガガッ!」

「すまッ!」

「アガッ!」

「おたッ!」

「ガッ、アガガッ!」

「しッ、しましまッ!」

みたいに、二人でおかしくなってやればよかった。

そして、ニコリともしないビッグブラザーに仲よく射殺される。