第4回 アップルⅡ日本に初上陸、「禁断の林檎」の”密輸”の方法

米国きっての半導体メーカー、ナショナルセミコンダクター社はシリコンバレーに本社を置く大手企業でした。この企業は数多くのシリコンバレー伝説の一端を 担う雄でもありました。この地域にはアメリカンドリームを求めて多くの人材が集まり、公開で得た資金や経験をもとに、やがて彼らがスピンアウトして起業するといった分子運動が繰り返し起こり続けています。 ナショナルセミコンダクター社を退社したジーン・カーターは、無名のベンチャー企業「アップルコンピュータ」 に、営業部長として五月に正式に着任したばかりです。

そのカーターを、アップルⅡを”密輸”しようと企むふたりの日本人が訪れます。

登場人物たち

スティーブ・ジョブズ 言わずと知れた、アップルコンピューターの創業者。1976年に創業し、1980年に株式上場して2億ドルの資産を手にした。その後、自分がスカウトしたジョン・スカリーにアップルコンピューターを追放されるが、1996年にアップルに復帰。iMac, iPod, iPhone などの革新的プロダクトを発表しアップルを時価総額世界一の企業にする。

水島敏雄  東京で「ESDラボラトリー」という小さな会社を営む。マイコンの技術を応用し、分析、測定のための理化学機器の開発を行うために作った会社で、ESDという名称は、 Electronics Systems Development の頭文字をとっている。東レの研究員として働いていた時代から大型コンピュータや技術計算用のミニコンに通じており、マイクロコンピュータの動向には早くから注目していた。ESDは日本初のアップルコンピューターの代理店となる。

『スティーブズ』

曽田敦彦 構造不況の中、業績が芳しくない東レが、「脱繊維」を掲げ新分野として取り組んできたのが磁気素材の分野だった。ソニーのベータマックス用としてはさらに薄地で耐久性のあるテープ素材の開発が必要で、45歳になる曽田はこのプロジェクトの中心として部下に20名以上の研究員を従えている。地味で根気のいる仕事ではあったが、東レがハイテク新素材メーカーへステップアップする上でこのプロジェクトは重要な意味を持っていた。


カーターが自分で起業することをあきらめてアップルという小さな会社に就職することになったのは、出資の相談を持ちかけたベンチャーキャピタリスト、A・C・マークラの説得によるところが大きかった。

古くからカーターの知人でもあるマークラは、事業を始めようとする彼に、できたばかりのこのベンチャー企業への参加を強く推した。かつてはインテル社の営業部長として辣腕を振るい、同社の株式公開後には名の知られたベンチャーキャピタリストとなった男の言葉には、強い説得力があった。どのみちしばらく自由を満喫するつもりでいたカーターとしては、マークラの投資しているこのベンチャー企業で無給の「様子見就業」を試みるのも悪くはない。はじまったばかりのこの小さな会社に入社することと、自分で独立することはさして違いはない。むしろ四十代に差し掛かったカーターにとって、若い社員ばかりのこの会社が、本当に自分を必要としているかどうか見極める必要がある。

従業員が10人ほどのアップルコンピュータには、それまでカーターのいた大企業とはうって変わって、大学のサークルのような風景が広がっていた。長髪のジーンズ姿の若者と、ガムを噛んだ女の子がたむろする、およそカーターの持つ企業のイメージからは程遠い空間だった。

このアップルコンピュータの唯一の商品であるアップルⅡを四月にコンピュータフェアで披露してからというもの、国内のディーラーから問い合わせが殺到していた。にもかかわらず、この大学サークルのようなアップル社では在庫管理や流通体制がないがしろにされたままとなっていた。この点においては、アップル社は自分のような経験者を確実に必要としていた。

自分の居場所を見つけたカーターは、2カ月間の「お見合い」を経て五月に営業部長として正式入社した。アップル社の社員は、入社すると自動的に社員番号が与えられる。この番号は、創業者である二人のスティーブを筆頭に順次割り当てられてゆくため、誰もがアップルに入社した通算何人目の社員かがわかるようになっている。カーターの社員番号は14番だった。

空港にいるという珍客からの電話がカーターに回されたのは、入社間もないある朝の出来事であった。「アップルⅡ」を求めて客が突然オフィスを訪れて来ることは少なくなかったが、今回は日本からの来客だという。用件はわからないがとりあえず営業責任者であるカーターが応対することになった。

午後になって到着したのは、壮年の日本人2人であった。カーターは彼らを会議室に通すと、その話に耳を傾けた。

「アップルⅡを日本へ輸出する予定はありますか?」

案の定、突然の来客はアップルⅡを求めて来た様子である。彼らはアップルの「輸入販売」に興味があるようだ。継続的に日本での輸入をしたいという。アップルでは、日本どころか、国内の販売網もまだきちんと決まっていない状況だ。だが、それについては触れず、カーターは現状のみを客観的に伝えた。

「日本への直接販売の予定は目下のところありません。メンテナンスサービスなどの体制が一切ないからです。また、総代理店なども一切決めてはいません」

この言葉に反応するように男のうちの一人が質問してきた。

「私の会社ESDラボラトリは、6502を使ってボードを製作しておりますし、プログラムも開発しています。ですから、メンテナンスサービスは自分のところでできます。我々が輸入して、販売することはできないのでしょうか」

流暢とはいえない英語であるが、熱心な男の口調に、カーターはしばらく考えてから答えた。

「まずは、どれくらいのボリュームをお考えですか?」

「まずは1台をと考えています。評価してみたいので……」

「なるほど」

カーターは、ほっと肩をなでおろした。

「1台であれば、いますぐお分けしてもいいですよ。ただし、販売店契約を交わしていただく必要があります。当社は直接ユーザーに販売することは予定しておりませんので……」

「販売店になるには、どうすればよいのですか?」

身を乗り出すように、二人は尋ねてきた。

「こちらに販売店用の契約書があります。この内容でよろしければ、サインしていただければすぐにお分けすることができます。ただし代金は現金でお支払いいただくことになりますが……」

カーターは、用意してある国内ディーラー契約用の書類を見せながら言った。

「どうぞ、お持ちになっていただいて結構です」

2人の日本人はそれを受け取ると、そそくさとオフィスを後にした。

水島と曽田が再びカーターのもとを訪れたのは、その翌日であった。サインをする上で、契約書の内容に関していくつかの点で確認したいことがあるという。会議室に入ると2人はさっそく質問をぶつけてきた。

「もし販売店となった場合、日本への運搬コストは、私たちで負担することになるのですか?」

「もちろんそうなりますね」

「支払いは商品と交換で現金支払いとありますが、日本で商品を受け取る場合には、これはどうすればいいのでしょう?」

「基本的にはCOD(Cash on Delivery)つまり現金払いが基本です。あなたがたのように海外の方に卸す場合は、そうですね、うちの口座に預託金を入れていただく形になるでしょうか……」

「もし初期不良があった場合のコスト負担は、どうなりますか?」

「ミスター水島、これはあくまで米国の販売店向けに作られたものですから、すべてがあなたの会社に当てはまるということではありません。今後、日本に本格的に輸入するというときには、もっと時間をかけて取り決めをしなければなりませんよ。ま、しかしこの程度のボリュームであれば、あまり細かいところを気にしないでいいと思いますよ」

カーターは、穏やかな口調でそう答えた。

「なるほど、そうですね。わかりました」

さらにいくつかの問答を重ね、2人は安心した表情になってそう答えると、その場で2通の契約書にサインをした。

続けてカーター自らもサインをし、うち1通を2人に渡した。

「で、さっそく購入されたいということでしたね。キャッシュでいただくことになりますが…」

事前に在庫確認を済ませていたカーターは、現金支払いを条件に、すぐにもアップルⅡ製品を引き渡せる旨を伝えた。2人の日本人は互いに相談していたが、やがて懐からアメリカンエキスプレスのトラベラーズチェックを出した。

「トラベラーズチェックでもいいでしょうか」

「トラベラーズチェックですか?確認させてください」

カーターは、担当者に確認をとっている様子だったが、しばらくして問題がないことを確認するとその小切手を受け取り、アップルⅡを1台引き渡した。

滞在しているドライブイン・モーテルに戻ってからさっそく購入したばかりのダンボールを開けると、中には本体と説明書の他に、カセットテープ1本、そしてゲーム用のパドルが入っていた。かつての同僚同士だった四十代の男2人はやっと手に入れたマイコンを前に、子供のようにはしゃいだ。2人の話はいつしか大型コンピュータを使っていた東レの時代に遡っていた。

日本を代表する電機メーカー東芝が米国計算機メーカーIBM社の超大型計算機7090を導入したというニュースは、新聞で報道されるほどの事件だった。一九六三年二月のことである。それ以前にもごく一部の大手企業が高額なIBM社の大型計算機を導入していたが、東芝が導入したのは、日本でも数台しか存在しない最新鋭モデルであった。「大型計算機」の所有は、会社が対外的に誇示するに値する一大財産であった。

水島が、このIBM製の超大型機を研究員として試験利用する幸運に恵まれたのは、東レが東芝と同じ三井系列に属する系列企業だからであった。計算機は、企業の枠を越えてまで共有される、それほど貴重な資源だったのだ。

ほとんどの計算処理は、すべて「バッチ」と呼ばれる一括処理で行われた。利用者は、必要な計算処理をこの「コンピュータ」という機械にかけるために、計算内容を事前に一つ一つカードに穿孔し、その束をせっせと抱えて読み込み機のあるところまで電車を乗り継いだ。あらかじめ管理部門に対して使用申請を行い、この途方もなく高額な資源を利用するにふさわしいと管理側から許可されて初めて、厳重に監視された部屋に鎮座するコンピュータを拝顔することができる。だが、それだけ面倒な手順を踏んでもなお、膨大な計算を人に代わって行ってくれるこの「コンピュータ」は研究者にとって十分な福音であった。

日本で数少ない「コンピュータ」の恩恵にあやかろうとする研究員は、現場でプログラムに間違いが見つかると穿孔カードを一つ一つ確認し、誤った箇所を見つけては作り直した。決して人前に姿を見せず、また人間の妥協を一切受け付けないこの気難しさは、逆にコンピュータの存在をさらに神格化させた。

そんな研究者にとって、コンピュータが自分専用となって机の上に載るなどということは夢のような話である。このカリフォルニアの地において、いままで権威の象徴であった大型コンピュータがいとも簡単に小型化され、まったく新しい時代を作り出そうとしている予感に、水島と曽田は興奮を覚えずにはいられなかった。

それ以外にもいくつかの視察訪問を終え、帰路についた水島の心配の種は「通関」であった。当時、通産省はコンピュータ技術の国内保護の政策を強力に打ち出しており、海外製コンピュータ製品には、ばかにならない税金がかけられる。手持ちの荷物とはいえ、ひとたび「コンピュータ」となれば途方もない税金を課せられかねない。

万が一の際にと2人の考え出した策は、「テレビゲーム機」と主張するというものだった。幸運にも、アップルからもらったパンフレットには、アップルⅡをテレビにつないだ子供の写真が掲載されている。それを手持ちの鞄にしのばせておいた。

結局羽田空港の税関は、この小さな手荷物をコンピュータだと気付くことなく、難なく2人を通関させた。やがて、コンピュータ産業を大きく変えてしまうことになる禁断の林檎が、日本に密かに上陸した瞬間だった。

アップルⅡに依存するアップルコンピュータ、一方でパーソナル・コンピュータ市場にIBMが参入する。その影にビル・ゲイツが・・・

関連記事

関連キーワード

コメント

prisonerofroad #スティーブズ 23分前 replyretweetfavorite

toe_hiro 正に「禁断の林檎」の”密輸” > https://t.co/fHItiItYAx 約1時間前 replyretweetfavorite

ume_nanminchamp ほんとうに「密輸」です(笑) 約1時間前 replyretweetfavorite