「海いきたいね」それがあの頃の彼女の口癖だった。
上野駅のホームで誤って彼女に送ってしまったフェイスブックの〝友達リクエスト〟。スマホをしばらくの間ジッと眺めていた。反応はない。ひとつ、ため息をついた。この感じは懐かしい。懐かしい痛みを心臓近くで感じている。彼女と一緒だった時、ボクはとにかくいつも待たされていた。
どういう方法で攻めても結局、オセロの盤は一方的に彼女の色に染まってしまう関係だった。あの頃のボクは、円山町のラブホテルで彼女にへばりついて寝ている瞬間だけが、安心で満たされていた気がする。
1999年の春。坂道のふもとにあったセブンイレブンで、ボンゴレパスタとポカリスエットを二人分買い込んで、あのラブホテルに向うのがいつもの定番コースだった。
トイレにはどの部屋にもラッセンのジグソーパズルが飾ってあった。それを見て彼女は、トイレから出てきたら必ず「海いきたいね」と言っていた。
どの部屋も窓は開かなかった。窓がない代わりにヨーロッパ調の窓の絵が壁に大きく描かれていた。空調は効き過ぎていて強か弱しかなかった。
ボクはとりあえず部屋に入ったらベッドにダイブして、枕元の有線を邦楽ロックに合わせる。彼女は部屋をすぐに真っ暗にした。真っ暗過ぎて二人して下着に足をとられたりしていた。
密閉された暗闇の中、世の中から遮断された場所でゴシップネタや仕事の愚痴を言いながら黙々と抱き合った。ボクの頬に彼女の液体が触る。暗闇でも彼女が泣いていることは確認できた。涙と汗がブレンドされた彼女のカラダを丁寧に舐めた。彼女はボクにとって、とても懐かしい匂いがした。過去の何かに似てたわけじゃない。ただとても懐かしい香りだと感じていた。彼女はあの時、なんで泣いていたんだろう。
青春時代、男性誌『Hot-Dog PRESS』に〝セックス中にやたらしゃべる男は嫌われる〟と書かれていたので、ボクは必死に最低限を心掛けていた。
彼女もボクも初めはかなりセックスに対して手探りだった。確認はしていない、ただ二人合わせても、人生で10回も経験していない同士だったはずだ。
彼女はよく「人が横にいると眠れない人なんだ、わたし」と言ってて「俺も」なんて合わせていたけど、すぐにふたりともぐっすり眠っていた。
目が覚めると部屋は真っ暗で、早朝なのか昼なのか、ここがどこなのか分からなくなるような錯覚に陥った。部屋にはレベッカの『フレンズ』が小さな音で流れていたのを覚えている。喉が渇いて、暗闇の中で下着とポカリスエットを同時に探した。彼女はとにかく朝にめっぽう弱くて起きる気配はまったくない。
ヌルくなってフタもどっかにいったポカリスエットを飲み干して、お湯をためようと浴室に行く。小窓から外がもう白んでいることを知る。風呂場に敷かれたタイルの冷たさをはっきりと覚えている。
今日、これから仕事をするなんて噓みたいだな、いつもそう思いながら定まらないお湯の温度を手で探っていた。
朝の10時にチェックアウトだから、いつも9時には彼女を背負うように浴室に運んだ。ふたりで湯船につかりながら「あぁ地球滅亡しないかなぁ」とか、まだ半分寝ぼけた彼女はよくつぶやいていた。
ドライヤーをかける彼女を尻目に身支度をした。彼女は「あ、待って待って」と最後にいつもトイレに行くのが習慣だった。もうすぐチェックアウトの時間。
男性誌『Hot-Dog PRESS』には〝女性の朝の支度を急がせるな〟とも書いてあった。ぐしゃぐしゃのベッドにうつ伏せになって、今日の予定を反復する時間に当てた。ただその時はだいたいベッドに脱ぎ捨ててあった彼女のコートを敷いて、微かに香る彼女の匂いを全力で嗅ぎながら反復をした。
いつの間にかトイレから出てきた彼女から、ベッドでバタ足をしながらコートの匂いを嗅いでる男にツッコミが入る。「変態、行くよ」と声がかかる。お前待ちだっての!と思いながら、今更になって部屋の鍵がないことに気づく。
探してるボクの背中に、彼女が言う。「ね、ふたりで海行きたいね」と。
その約束すら、ボクは結局果たすことができなかった。
フロントからチェックアウトの時間を告げる電話が鳴っている。
次回「『ビューティフルドリーマー』は何度観ましたか?」は3/8更新予定
デザイン:熊谷菜生 写真:秋本翼 モデル:福田愛美