※武田勝頼、北条夫人、信勝
正直、武田勝頼には、天下の武田家を滅ぼした猪武者、人望が無い、部下である小山田信茂に裏切られ命を落とした可哀想な武将…そんな程度の認識しか無かった。
でも、ヒストリアを視て、自分の不明を恥じるばかりだ。
父親の武田信玄、そりゃあ文句無く英雄だ。小さいころからどういうわけか上杉謙信が好きで、謙信のことを色々と調べるにつれ、ライバルの武田信玄にも興味を持ち、色々な本で信玄を調べたが、読めば読むほど感心した。
まさに信玄はカリスマだった。
しかしそんなカリスマも病気には勝てなかった。京にのぼる途中、53歳で死去する。
自分の死を悟った信玄は、勝頼を呼び、自分の死後、「陣代」を申しつける。あくまでも武田家の跡取りは、信勝であり、幼い信勝が成人するまでの「中継ぎをせよ」と勝頼に申しつけたのだ。
勝頼は、武田家に滅ぼされた諏訪家の領主の娘(諏訪御料人)と信玄との間に生まれた。武田信玄の4番目の息子である。
武田家の長男は「義信」であり、彼が武田家を継ぐものとされていた。
武田勝頼の名前には、武田家正統を表す「信」が用いられなかったこと、
信玄の長男、次男、三男は「正室」との間で産まれた子供で、勝頼は「側室」との間で生まれた子供であること、
これらのことから勝頼は武田家中でも軽く扱われ、あげくの果てに、「諏訪家を継げ」と父である信玄に命じられ、諏訪家にてつつましく暮らしていた。
ところが、ある日、信玄から突然の呼び出し、「一体何だろう?」と訝しながらも信玄のところに行くと、「勝頼、ひょっとしたらオマエを武田家の跡継ぎにするやもしれぬ」というではないか。
その時、既に、長男の義信は、父への謀反の咎により切腹、次男は両目が見えず、三男は夭逝しており、いきなり勝頼が、信玄の後継者候補のトップに躍り出たのだ。
驚くとともに、「父上のご期待に添わねば」との決意の元、様々な戦で先陣となって、勝頼は大手柄を積み重ねていった。
正統な跡継ぎではない「陣代」としてしか認められなかったことに対する失望、偉大なカリスマの突然死を理由とする武田家家臣の動揺、陣代でしかない勝頼には従えぬとすら申し立てる家臣、そのようなあらゆるマイナス要素と闘いながらも勝頼は、
「父上のご指示に従い、立派に陣代を務め、息子の信勝に武田家を引き継いでいこう」
と誓うのであった。
しかし、長篠の戦いで、織田徳川連合軍に惨敗し、信玄の時から武田家を支えた重臣たちも長篠で戦死し、勝頼率いる武田家は虫の息となっていった。
そんな時、勝頼は、偉大な父から決別することを、決意したのだ。
「隣国である北条家と強固な同盟を結ぶことにより、武田家を守ろう。そうすれば、織田・徳川連合軍といえども、手出しができないだろう」
そのように考えた勝頼は、「武田家はもう滅びる直前です。あなたの部下になっても良い位です。どうか強固な同盟を結んでください」と恥も外聞もかなぐり捨てて、悲壮な覚悟で北条家にぶつかり、とうとう北条氏康の娘を妻に貰い受けるまでの親密な関係を、築くことに成功した。
長篠の敗戦以降、暗く沈んだ武田家に、久し振りの安息が訪れた。
家臣たちも「なかなかやるではないか」と勝頼を見直し、勝頼も北条夫人と仲睦まじく、31歳の夫、14歳の妻と歳は離れていても、心から信頼できる家族を、息子の信勝と共に、3人で築き上げていった。
戦国武将の肖像画、信長であれ秀吉であれ家康であれ何であれ、みんな当該武将一人のみが描かれている。然るにどうだ、勝頼は…
妻の北条夫人、息子の信勝と共に、描かれている。これは極めて珍しいものであるが、裏を返せばそれだけ、勝頼一家3人が強く繋がり合っていたっていうことなんだろう。
きっと、絵師の前で、「お前たちもこちらに参れ。遠慮なんぞしないでよい。もっとこちらへ」なんて言いながら、3人で絵に収まったんだろう。
しかし、そんな安らぎも長くは続かない。北条との同盟はわずか2年で終わり、おまけにその北条は、織田・徳川連合軍と同盟を組むこととなり、武田家、最大の危機が訪れた。
婚姻は同盟のためのツール、北条夫人も、嫁ぎ元の北条家が武田に弓を引く以上、置いてはおけず、通常は離縁の上、北条家に突き返すか、または命を奪うのが戦場の習い。
ところが、なんと勝頼は、北条夫人に「御前も居づらいだろうが、我慢しておくれ。どんなことがあろうがワシが御前を守る」と告げ、二人は抱き合って泣いた。
そして、北条、織田・徳川連合軍を迎え撃たんと準備をしている矢先、こともあろうに浅間山が大噴火、武田家家臣たちは「守護山の浅間山が噴火したのは、武田家が滅ぶ予兆だ」と蜘蛛の子を散らすように胡散夢散していった。
そんな中、迫りくる敵軍。相次ぐ裏切り。もう、戦う余力は武田家にはない。勝頼は決意する。
「ここは一旦、身を隠し、捲土重来を期す」
勝頼は、諏訪夫人、信勝を連れ、山の中に身を隠す。その途中、既述のように小山田信茂の裏切りにも遭い、ますます連合軍に追いつめられる勝頼一家となった。
果たせるかな、無情にも連合軍に包囲され、「もはやこれまで」と覚悟を固める勝頼。
「愛する者をこの手で守れなかった。しかし、逃がすのは可能だ」
勝頼は夫人に言った。
「せめて御前達だけでも、生き延びてくれ。大丈夫だ。敵の目的は俺だ。同盟を組んでいる北条の血を引く御前の命、織田・家康連合軍は奪わない」
しかし、北条夫人も引かない。
「嫌でございます。最後まで、最後まで一緒に居とうございます」
勝頼は必死だ。
「武田家当主としての命令だ。ここから去れっ!そして生き抜けっ」
北条夫人も負けていない。
「勝頼様無しで、生きていとうございません。去りません。勝頼様のそばにいます」
その時、連合軍が勝頼一家を認める。「見付けたぞ~!こっちだこっちだ」
勝頼は最後まで敵と戦い、妻と子供を守る。しかし多勢に無勢、やがて力尽きる。
「御前達を守ってやれなくて済まない…」
1582年、武田勝頼、北条夫人、信勝の死により、武田家は滅亡した。
…勝頼、北条夫人、信勝3人は、仲良く並んで、勝頼が露と消えた地点にほど近い景徳院に祀られている。景徳院は、徳川家の家来となった勝頼の遺臣が、勝頼達を偲んで建立したお寺だ。
勝頼が部下に出した最後の命令は、「この絵を高野山に届けてくれ」だった。「この絵」とはもちろん、冒頭にある3人が描かれた「肖像画」だ。
勝頼と北条夫人、信勝3人の家族が紡ぎ出した「稀有な程に固い絆」は、今も地域の人達に守られ、そしてこれからも語り継がれていくだろう。永遠に…
前回の続きを書く。
飯場で働き、4ヵ月が経とうとしていた11月、暦の上では秋だが、あの年は例年よりも寒く、朝晩の寒さに凍える中で建設作業に就いていた。
しかし、俺の中に「ここで朽ち果てるのも嫌だな」という気持ちが日増しに大きくなり、その気持ちは「建設現場だなんてカッコ悪いな」という気持ちに変化していき、ある日、専務に申し出た。
「スイマセン。親がちょっと病気なので一週間のお休みをいただきます」
財布の中には30万円ある。種銭がこれだけあれば、当座はしのげる。親の病気はもちろん嘘。休んでいる間に新しい職場を見付けよう。
専務はニヤリと笑いながら、
「ちゃんと帰ってくるんだぞ」
…まるでこちらの腹を見透かしているようだ。
翌日、俺は最小限度の荷物を持ち、最寄りの国鉄駅構内に入った。
「さあて、どうしよう」
半ば勢いで出てきてしまったようなもの。さしずめ俺は、行く宛もない糸の切れた凧だ。
同僚に聞いたことがある。
「大阪では『あいりん』というところに500円で泊まれるドヤがある。東京では『山谷』が1000円で泊まれる」
でも、大阪は遠いし、山谷は東京のどこだか判らない。山谷駅とかも無いし…
ここは1円でも惜しい。
「無人駅をねぐらにしよう。そしてそこをベースキャンプにして、職場を探してみよう」
最短距離の切符を買い、電車に乗った。
「もう、『履歴書』の意味も判った。写真は自動販売機みたいなところで撮ればいいや」
キヨスクで時刻表を買った。もちろん小型のポケットサイズだ。
「時刻表って便利だな。国鉄駅、全部載っている。とりあえず、西に行こう。時間はいっぱいある。時刻表さえあれば、大丈夫」
そう思い、列車を乗り継ぎ、国府津駅まで来た。
ここから、東海道で南下しても、無人駅はありそうもないな。御殿場線、なんか鄙びた感じでいいかも。
御殿場線に乗り換え、車窓を眺める。
無人駅が多い。
「ラッキー!読みは当たった」
色々と駅を品定めして、山北駅で降りた。
「よし、ここをベースキャンプにしよう」
途中で買ってきた「日刊アルバイトニュース」のページをめくる。
「う~ん…寮完備の求人が少ないな。あっても、殆ど建設業、これじゃ意味ないじゃん」
翌日の発売を待つこととした。
途中で買ってきた食パンを食べる。水は駅の水道からとった。
無人駅なので、雨風はしのげる。しかし、暖房は無い。
「それにしても寒いな。これじゃあ眠れないな」
たまらず、駅舎から出て、駅前に放置されている自転車に跨った。カギは壊した。
「ホームセンターとか、無いかな?安い寝袋を買おう。止むを得ないが初期投資だ」
しゃにむにペダルを漕ぐ。10キロ以上走ったところで、ホームセンターらしき建物を発見し、そこで1980円の寝袋と100円の着火剤を買った。
再び山北駅まで戻り、待合室のベンチの上で寝袋の中に入った。
「暖かい…今までの寒さが嘘みたいだ」
自転車を漕いだ疲れからなのか、暖かさからなのか、吸い込まれるように眠りについた。