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美智子さまが雅子さまを叱った! 〈12月23日天皇誕生日の夜に「お呼び出し」〉

 投稿者:東京新報  投稿日:2016年 1月14日(木)14時30分2秒
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  美智子さまが雅子さまを叱った! 〈12月23日天皇誕生日の夜に「お呼び出し」〉

用意周到に準備された“お呼び出し”だった。永らく雅子妃の適応障害に遠慮していた皇后がついに本題に踏み込んだ。皇位継承者を支える事を拠り所とすれば、自ずと展望も開けるのではないか。美智子さまは温かなお言葉をかけられた。宮中重大インサイド・リポート!

「ご病気のほうはいかが」
「努力をしております」
「具体的には?」
「できるだけ皇太子殿下の行かれる先に、短い宿泊数なら付いて行くよう自分に言い聞かせています。長いご日程の場合、殿下が行かれる先に付いて行くのにはまだ無理があります……」
 永らく“途絶状態”にあった皇后と皇太子妃の間で、昨年末、これほど直截なやり取りが成されたことは宮中でも知られていない。そこで皇后が皇太子妃に端的に伝えたのは、「次代の皇后としての心構え」だった――。
 畏(かしこ)き辺(あた)りと呼ばれる皇居。その西に広がる吹上御苑は、生物学の研究を続けられた昭和天皇の意向により、できるだけ人の手が入らないよう管理され、三千種を超える植物が確認された深い森だ。その中心に天皇皇后のお住まい「御所」はある。御所のお側へ近寄ることができる者は宮内庁関係者でもごく限られるが、完成から二十年以上が経った今では、白木の部分が銀鼠に色変わりしているという。

雅子さまと連れ立つように

 昨年十二月二十三日の天皇誕生日の夜、八十二歳を迎えられた天皇は、この御所で、皇太子ご夫妻や秋篠宮ご夫妻らに囲まれ、家族団欒のひと時を持たれた。例年通り、天皇は日中は朝から間断なく祝賀行事に臨まれ、宮殿では公式行事が分刻みで行われた。夜になって、ようやく家族だけでゆったりと「お祝御膳」を召し上がったのだ。
「お祝御膳とは、両陛下のお誕生日の夜と新年三が日に召し上がる特別なご夕餐です。本膳と二の膳に分かれており、テーブルにはお一人ずつ丸盆が二つセットされて、冷たいお料理はすでにお出しし、御飯や汁物など温かいお料理は火にかけるタイミングを逆算して、皆様が着席された後にお出しします。慣例により、愛子さまや悠仁さまらお子様方は陛下へのご挨拶だけでお帰りになり、六時半には両陛下、皇太子ご夫妻、秋篠宮ご夫妻、黒田慶樹さん・清子さん夫妻の計八名の皆様がテーブルにつかれました」(大膳課関係者)
 お祝御膳は天皇皇后が普段お使いになっている私室部分の御食堂ではなく、内外の賓客を持てなす接遇部分の来賓用食堂が使われる。壁の明るい木質が美しく、中央に八名掛け程度のテーブルが設えられている。
 例年にはない出来事が起きたのは食事が終わった後だった。御食堂の広い窓から見える庭は薄闇に包まれ、天皇ご一家は別室に移られ、お茶などを召し上がりながらのご歓談に入られた。そのとき、美智子さまが雅子さまと連れ立つようにして、二人だけで御食堂を出られたという。すべての事情を知る千代田関係者が、その顛末を詳細に証言する。

当初の予定はボクシング・デー

「皇后陛下と雅子さまは、別室に移られて、お二人だけでお話をされたのです。じつは皇后陛下はひと月以上前から“お呼び出し”の機会を窺っていらしたのです。当初は十二月二十六日の『ボクシング・デー』(※編集部註 キリスト教に由来する祝日。クリスマスの翌日に使用人や郵便配達員などに祝儀を与えた)に、雅子さまを御所にお呼びになろうとお考えでしたが、雅子さまのご体調をお考えになり、『二度来させるのは』と直前になって急遽、天皇誕生日のお祝御膳の直後になさったのです」
 美智子さまは東日本大震災の前、「あちらとは途絶状態なので」「何か伝えたいことがあっても皇太子にではなく、長官に言うしかない」とおっしゃっていたという。その雅子さまと、なぜこのタイミングで、二人きりの時間を求められたのだろうか。
 それは皇太子のご年齢と深い関係があるという。
 千代田関係者が続ける。
「昨年は平成皇室にとって節目となる一年でした。戦後七十年目の慰霊に尽くされた天皇陛下が八十二歳に、皇后陛下が八十一歳になられた一方で、皇太子殿下は今上陛下が即位された五十五歳となられたのです。もう時間がない、というのが一番の理由でしょう。
 そして昨年は天皇陛下の“老い”の兆候が何度か感じられるようになった年でもありました。象徴的だったのは、八月十五日の終戦記念日の全国戦没者追悼式。天皇陛下が黙祷の前に『戦没者を追悼し――』とお言葉を読み上げられるという段取りの間違いをなさった。お誕生日に際してのご会見では、『年齢というものを感じることも多くなり、行事の時に間違えることもありました。したがって、一つ一つの行事に注意深く臨むことによって、少しでもそのようなことのないようにしていくつもりです』ともおっしゃいました。
 それに反比例するかのように、雅子さまのご体調は“回復基調”。十二年ぶりに園遊会にも出席され、ご活動が目立つようになりました。これまで『病気に障るといけない』と遠くから見守る姿勢を貫いてこられた皇后陛下ですが、ついに直接指導の機宜を得たとお考えになったのでしょう」

本当の病は違うものですよ

 十二月に入り、千代田関係者が美智子さまにどんなお話をされるおつもりかを伺ったところ、「あなたが皇后になったときのことをすごく心配しているのよ、ということを直接会って語っていきたい」と美智子さまはお話しになったという。
「そしてしみじみと『何気なく、直接触れあう言葉をかけられるディスタンスが大切なのよ』とも仰せになりました。二人でお話ししましょうということは事前に雅子さまにも伝えられていたのだと思います」(同前)
 いざ雅子さまと対峙された美智子さまは冒頭のように口火を切られたのだった。雅子さまはお礼を述べられたという。そして、
「愛子についても、色々と両陛下からお気遣い頂いていることには感謝しております。愛子も歴史などに興味を持ち、歴代の天皇陛下のご業績を継がれる中で、陛下がお心を込めて為さっていることを、ご尊敬申し上げております」
 と、天皇や美智子さまが孫の愛子さまのご成長を気に懸けておられることへの感謝も加えられた。
 だが、美智子さまはその“ご尊敬”という雅子さまのお言葉に対し、本質的なご指摘をなさったのだ。
「“リスペクト”ということのみではなくて、やはり実践と、時代の空気に触れるということが大事なのよ。陛下が築き上げられたことを引き継いでいくのは、東宮であるし、その意義や内容を分かっていなければ、お支えすることはできない。だから(皇太子を支えることに)思いを致すことで、自分が皇室の中にいる意味を理解していくことができるのではないかしら。その理解によって国民にも広く支持されていく。(雅子妃は)東宮と共に人々の前に姿を見せるということが最善の道だと思っています。それが公にされている『適応障害』という病気にもとても良い効果をもたらすのではないかと思うのよ」
 雅子さまはただ耳を傾けられていたという。美智子さまはこう続けられた。
「私がいろいろなことを皇室の中で乗り越えられた根っこには、かつてずっと信頼していた方から本当の病と、自分が病と思っているものは違うのですよ、と言われたことがとても強く残っているのよ」
 千代田関係者が補足する。
「皇后陛下は、皇室のあり方は皇位継承者の手に委ねられるべきものであるとお考えです。九四年十月には、還暦をお迎えになるにあたり、〈(皇室の)変化の尺度を量れるのは、皇位の継承に連なる方であり、配偶者や家族であってはならないと考えています〉と書面で述べられています。
 だからこそ、皇室の中における『皇后のお役目』を、ご自分はどのように考え、果たしてこられたかを直接、伝えようとされたのです。
 これは緊要な問題でした。平成の歩みの中、今上陛下にとって皇后陛下の存在は不可欠でした。国民の目に焼き付いているのは、天皇陛下とそれを支える皇后陛下のお二人揃ってのお姿です。どんなときも皇后陛下は天皇陛下の左後ろ数十センチの絶妙の位置にお立ちになり、支えてこられた。サイパンのバンザイクリフでも、パラオ・ペリリュー島で『西太平洋戦没者の碑』に供花されたときもそうでした。あのお姿に国民は感動するのです。
 想像してみて下さい。もし全国戦没者追悼式で、天皇となられた今の皇太子殿下がお一人で黙祷をされ、お言葉を読まれ、その瞬間、雅子さまは御所で休んでいらっしゃるということになったら……昭和の時代から続けてこられた“戦没者慰霊の旅”のご偉業の尊さが減じられてしまう」
 さらに美智子さまは、国民と密接な“平成流”の神髄を、雅子さまに滔々と語られた。
「被災地などは実際に訪れ、もっと時間をかけて被災者の方々のお気持ちに、おっしゃることに触れるようにしなければ。お顔を見て二言、三言というだけでは、被災者の方の遭われたことや、その後のご生活のことは分からないのだから」

小和田家とはどうなの?

 雅子さまは昨年十月の福島県ご訪問で、県立高校「ふたば未来学園」と「とまとランドいわき」を訪れられたが、一般の住民と直接語らう機会はなく、お車からのお手振りをされただけだった。雅子さまを一目見たいと、三時間ほど沿道で待った住民もいたが、残念そうに「できることならお話ししたかった」と呟いていた。
 平成流の真骨頂とも言える被災地訪問の根源にあるのは、戦没者慰霊とも通底する“祈り”にも似た国民を思う強いお気持ちだ。
 一九八一年の会見で当時、皇太子だった天皇は、「日本では、どうしても記憶しなければならないことが四つある」として、広島、長崎、沖縄、終戦の日を挙げられた。その日には天皇皇后は必ず黙祷を捧げられ、多くの犠牲者と遺族に思いを馳せられてきた。
 美智子さまは雅子さまに「四つの日」の重要性についても説かれた。
「そういうものは、陛下が築き上げてこられたものだし、やはり陛下が広島原爆の日、長崎原爆の日、終戦記念日、沖縄慰霊の日を、どれほどか、大切に思われ、どこにおられても大切に黙祷されているという意義を、やはり深く考え理解していってほしい」
 千代田関係者が説明する。
「四つの日について天皇陛下は『子供達にも、ぜひ伝えていかなければならないことだと思っております』とまでおっしゃいました。ところが、〇五年八月六日の原爆の日に雅子さまは聖路加病院の夏祭りに参加され、その年の終戦記念日には静養先の那須でテニスや花火を楽しまれたのです。それをご存じの上で念を押されたのでしょう」
 美智子さまは優しい口調で、ひと言ひと言、噛んで含めるように教えられたという。そして現在の雅子さまにとって唯一の拠り所と言える“実家との関わり”についてもお話しになった。
「小和田家のほうとはどうなの? 妹さんたちは?」
 雅子さまは、家族として連絡を取られている旨を返された。すると、
「ご家族という意味では、(連絡を取るのは)良いことではあるけれど、皇室という中で小和田家は特別の存在ではありません。小和田家と、浩宮が育ってきた皇室というのは、文化が違うのですから。皇族の文化の中にある雅子が小和田家と触れ合いを持つという、そういう心構えでなければならないのよ」
 論ずるまでもないが、雅子さまは元外交官であり、小和田家は「国連ファミリー」である。父の小和田恆氏(83)は外務省で事務次官まで登り詰め、その後、国連大使を経て、現在は国連の主要な司法機関である「国際司法裁判所」の判事を務める。母の優美子氏は日本ユニセフ協会の顧問。妹の池田礼子さんも同協会に勤めている。雅子さまも国際人道問題にご興味があり、九三年のご成婚直前に宮内庁が公表した雅子さまに関する資料の中には「貧困、飢餓、エイズ、環境問題」に関心があると書かれていた。〇五年以降には、国連大学へ不定期ながら通われ、シンポジウムなどを聴講されている。
 そんな小和田家という、雅子さまがお育ちになった環境の特殊性についても美智子さまはこう指摘された。
「私たち皇族は、現代を生きる日本各地に住む人々に心を寄せ、ごく一般的な日本の家々の中にある躾や習慣、伝統と丁寧に関わっていくべきなのであって……日本に国連大学というのがあるというのを知っていて、しばしば通うということをしているという家庭はあまりないと思わなければ」
 ここまで美智子さまが強く釘を刺されたのには理由がある。千代田関係者によれば「現在でも皇后陛下が折に触れて口にされる小和田家の記憶がある」という。
「ご成婚の時、小和田さんは『両陛下からぜひにというご挨拶があれば』と言われたそうです。正田家から嫁がれた皇后陛下にとっては驚かれる言動ばかりで、『何度も思い出してしまうことがあるのよ』と洩らされるのです」(同前)
 雅子さまは小和田家とは、療養生活に入られてから一層密接な付き合いをなさってきた。軽井沢の別荘へ愛子さまを連れてのご宿泊、高級レストランでの食事会、七夕、ハロウィン、クリスマスのお集まり、オランダご訪問中のご挨拶などを小誌は報じてきた。
 翻って正田家、特に母の富美子さんの控えめな態度は徹底していた。富美子さんは関係者に、「機械(電話)を通してしか娘と話すことができません」と語っていたという。

サーヤに聞けば分かるのに

 八八年六月、富美子さんの葬儀の直後に、列席した秋篠宮は美智子さまの秘された正田家への強い思いを知り、こう語られている。
〈故人の闘病、臨終、葬儀などを通じ私は母が皇室の一員である自覚を持ちつつ、同時に正田家への感謝と懐かしさをどんなに強く感じていたかを知りました〉(「皇后陛下 美智子さま」PHP研究所刊)
 美智子さまは、雅子さまはご実家ではなく、他の皇族と深く関わるべきだとも伝えられたという。
「他の皇族たちとの交流が途絶えていることは好ましいことではないし、それぞれの皇族がどのような公務を行っているかということが分からなければ、今の状況をまったく把握していないのと同じことなの」
 続けて美智子さまは、
「サーヤとの交流がないというのは。本当に人を助けることを生きがいとしているし、サーヤに聞けば色々なことが分かるのに」
 と、一人娘である黒田清子さん(元・紀宮さま)との間に行き来がないことへの遺憾の意を口にされた。
 振り返れば、雅子さまと紀宮さまの溝が決定的となった「御宿かわせみ事件」が起きたのは、ご成婚から間もない頃だった。
「紀宮さまは、赤坂御所のカワセミの生態についてご研究をされていました。カワセミが抱卵して雛を育て、巣立つまでをテントに入って観察する時刻は明け方でした。皇居から観察ポイントまで行こうと思うと、一般道を通らなくてはならず、赤坂御用地のどこかに泊まらなくてはなりません。まず皇太子さまの東宮御所を拝借なさったのですが、何度かお願いをなさったら東宮が『ちょっと都合が悪いので』とお断りになった。ご迷惑をかけないように、何も構わなくていい、表に近いお部屋を貸していただきたいと仰っているのに、受け入れられませんでした。その後、秋篠宮さまが引き受けられて、紀子さまはご自分が外国へ発たれる前日でも泊めてくださったそうです。あの温和な紀宮さまが『もう二度と頼みません』と仰ったのです」(元宮内庁関係者)
 また美智子さまは「御歌(みうた)(皇后の和歌)」についてのアドバイスも授けられた。雅子さまのお歌は家族のことを詠んだものが多く、歌会始では、〈制服のあかきネクタイ胸にとめ一年生に吾子はなりたり〉(〇九年)など、愛子さまご誕生後から八年連続でご家族が題材だった。美智子さまはおっしゃった。
「御歌というものは、広く公に向けて自分たちの気持ちを歌うものなのよ。藤原道長が、わが世の春のことを歌ったような、自らのことばかりを歌うというのは、ふさわしくないのです」
 かつて紀宮さまは月ごとに天皇にお歌を献上する「月次(つきなみ)の歌の詠進」を欠かさなかったが、雅子さまはほとんどなさっていない。
「最後の歌会始は忘れられません。紀宮さまはこう詠まれたのです。〈新しき一日(ひとひ)をけふも重ねたまふたゆまずましし長き御歩(みあゆ)み〉。両陛下のこれまでの長い歩みに思いを馳せられ、“一日を重ねて”こられた道を仰ぎ見て、結婚までご自分も歩んでこられたという思いが重なる。両陛下を支える内親王として実に素晴らしいお歌でした」(前出・千代田関係者)
 美智子さまが皇太子妃時代に詠まれた〈幾光年太古の光いまさして地球は春をととのふる大地〉というお歌がある。飛行機で日本に帰ってこられ、日本列島が弓なりに光り輝いている情景を歌われているという。まさに“将来の国母の視座”を感じさせる博く大きなお歌である。
「古来、天皇が年初に歌いだされる力強い春の歌から村々の春は始まったのです。それは皆の心の指針となり、活力の源ともなりました。皇后さまはときにスケールの大きな、ときに叙情的にこまやかな歌を巧みな表現で詠まれます。雅子さまは一時期、愛子さまのことを詠まれるお歌が続きましたが、近年の歌会始では、被災地や福島を詠まれることで、お心ののびやかな広がりが、おのずから歌の広がりとなっていることが感じられますね」(御製や御歌のご進講を務めた元宮内庁御用掛の岡野弘彦氏)
 雅子さまは、数多の美智子さまからのお言葉を受けて、あまり多くを語られなかったが、最後にこうご決意を述べられたという。
「よく分かりました。皇太子殿下とお話し申し上げて、心に刻みつけるようにいたします」
 この日の最後には、天皇が雅子さまに声をかけられた。前出の千代田関係者が解説する。
「『皇后のほうから聞いたと思うけれど』と前置きをされてから、皇太子にもかつて何度も伝えたけれど、これまでも今後も、慰霊から深く学び、平和で健全な国を願う。そういうことに変わりはないといったお話をなさり、『東宮もその心持ちを持っていると信じているから、よく心に留め、意義を理解してほしい』と仰ったそうです」

一般参賀で見えた成長の「芽」

 東宮御所にお帰りになった皇太子ご夫妻は、何を語り合われたのだろうか。
 翌十二月二十四日、皇太子ご一家は毎年恒例で妹・池田礼子さんのマンションを訪れ、クリスマス会を楽しまれるが、今年はそこに雅子さまのお姿はなかった。
「後日、皇后陛下は天皇誕生日のお話について、雅子さまが『深く受け止めてくれたと思う』と静かに仰いました。『雅子が変わってくれなければ、東宮は皇位継承者としてお務めを果たすことができない。東宮一人だけが地方や外国を訪問することに納得しない人々が増えている。今のままでは駄目なのよ』とも仰った。強く願われているのは、次代も国民から支持される皇室であってほしいということ。両陛下は、昭和天皇と香淳皇后のお姿を東宮時代からご覧になり学ばれましたが、雅子さまにもこれからは学んでいって欲しいとお考えなのです」(同前)
 終戦翌年二月から昭和天皇が全国ご巡幸の旅に出られたとき、香淳皇后は都内や近県の病院、戦争孤児施設を慰問され、孤児たちへの贈り物として夜遅くまでちゃんちゃんこを縫われていた。激動の昭和を香淳皇后がどのように支えてこられたのかも、美智子さまはよくご存じだという。
 かつて掌典祭事課長や宮内庁御用掛を務めた故・鎌田純一氏は、天皇の宮中祭祀についてこう語っている。
「ご祖先の天皇方に対してですね、今の世の中、もっと平らけき安らけき世の中にと誓っておられるかと思います。だから単に祈願だけではなくて誓われるんです。よく見ていてくださいっていうそういう風なお気持ち。(中略)そしてご自身の覚悟ですね。神様の前で覚悟をさらに固めていらっしゃるかと思います」(NHK「天皇皇后両陛下 素顔の50年」より)
 年が明け、平成は二十八年目を迎え、宮中では祝賀行事が続いた。その間、美智子さまはすでに雅子さまの成長の「芽」を見つけられたという。
「皇后陛下がおっしゃったのは、新年の一般参賀で宮殿・長和殿にお出ましになった際のことです。これまでは、例えば、陛下へ視線を向けられるのを少し避けておられたのが、陛下の目を見てお辞儀をされたり、陛下の行動をじっと見て、それに従っていくような、『そういう様子が感じられた』と手応えを得られたようでした」(前出・千代田関係者)
 適応障害の療養に入られて十二年。一進一退を続けてこられた雅子さまにとって、この一年は大きな転換点となるかも知れない。

「週刊文春」2016年1月21日号
 
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