(その13からの続き)
川合伸幸『ヒトの本性』(講談社現代新書)では有名な監獄実験や服従実験が紹介されている。ここで川合は監獄実験について、当時の被験者が残酷な行為をしてしまったのは「自分たちは社会正義の代理人だ」という空気感に過剰に反応してしまったからではないか、というロバート・リフトンの説を引用し、説得力のある仮説だと言っている。被験者は権力を持ったことで心に潜んでいた攻撃性が現れたわけではない、「空気」や集団としての無意識によって、罪を受けるべきと見なした人に対してより強い罰を与えてしまったのだ、ということだ。
ここは私の連想である。これまで何度かSFコミュニティの問題をウェブ上で見てきて、ときおり非常に強い言葉である特定の人を罵ったり、人間性さえも否定するような言葉を突きつけたりしている人を見かけた。この文章を始めるにあたって私はTogetterを読んだ。そこにもそうした言葉がいくつかある。
彼らは自分が正義の側にいると思っているのかもしれない。そして相手は制裁を受けるべき人物なのだと信じているのかもしれない。
そういう人が、ごく数人いるとする。そこから「空気」が生まれて、周りの他の人もそれに同調してしまうことはないだろうか。
本当に強い言葉で罵倒を繰り返してくる人に対しては、冷静に外部からの視点を導入しつつ、社会的な対応を取る必要もあるかもしれない。
だがここで初めてあなた≠ノ問いかけをしよう。あなたは「空気」に呑まれて「自分は社会正義の代理人だ」という錯覚に陥っていないだろうか。
川合は『ヒトの本性』で、他にも多くの興味深い知見を紹介している。たとえば、タニア・シンガーの研究。私たちは、他人が痛みを感じるのを見たときに、自分が痛みを与えられているときと同じ脳の領域が活動する。他者の痛みを見て心が痛む、というのは本当だというわけだ。私たちは痛みを共感することができる。
だが一方で、相手が公正な人物であると思わない場合、この痛みの共感は生じにくい。それでも女性は多少の痛みを共感するが、男性は不公正な振る舞いを見せた相手に対してほとんど共感らしい活動を示さない。
しかも男性の場合、不公正な相手が痛がっているところを見ると、脳の報酬系がよく活動する。快感になるのである。
これは、本当に相手が不公正であったかどうかは関係ないのかもしれない。そこの知見は書かれていないが、不公正だと強く信じることで、同様の脳活動は生じるように思える。
少なくともあなたが、この快感に嵌まっていないことを私は願う。
ミルグラムの服従実験に参加した人たちは、結果的にとても残酷なことをしてしまった。だが参加者たちはその後の長い期間、このことを思い出して苦しんだと川合の本には書かれている。
この文章は、小共同体のなかにいじめはあるかもしれない、というところから始まった。いま少なくとも私たちにできることがある。もし当時いじめに荷担してしまった人がいたなら、その人は長い期間、そのことに苛まれているかもしれない。そうした人たちへの充分なケアが必要だと言うことだ。
私は自分の過去に関して言うと、とくに誰かを糾弾したりするつもりはまったくない。恨みを抱くということもない。私自身が誰かからずっと今後も恨まれるとか憎まれると言うことはあるだろうが、そうしたものには反応しない。
非常に攻撃的な態度を取るのは、ごく少数の人だ。そうした人たちには粛々と対応することも必要だ。
しかしそれ以外の人の多くは、いま自分を苛んでいるかもしれない。
本当に必要なのは、そうした多くの人たちへのケアであると、私は思う。
コミュニティの共感性とは、そうしたところにこそ発揮されるべきものではないか。
最後に、いちばん難しいところが残った。
「おたく」の精神性にいくつか人間の弱さのようなものがくっついてしまったとき、一般社会との間で深刻な衝突が発生する。過剰なプライドや、自己愛、甘え、といったものが、その人の「SF」環世界さえもゆがめてしまう。
そうしたとき、自分の考えがSFとして正しいのだ、正義なのだ、と思い込んでしまうかもしれない。周りの意見も聴かなくなる。SFそのものと、SFコミュニティの人間関係を取り違える。自分が間違っていたかもしれないと少しでも思い直すことが次第に怖くなって、自分の最初の直観に自分自身が縛られ、自己崩壊を防ぐために都合のよい論理でどんどん自分を塗り固めてゆく。
こうしたケースは、「おたく」の精神性から確かに生まれたものかもしれないが、ほとんどはその個人の問題に帰着されるものだと私は思う。こうしたケースをもって、「これだからSFは」といわれたら、それはみんな憤慨するだろう。「いっしょにするな」という発言は、ここの問題を指している。
どのようにすればよいかということだが、まずは何度も書いたように、その現場へ外部の視点を入れることだ。
もうひとつ、周りの人たちは傍観者効果に陥らないよう、各自で充分に気をつけることだ。
そうした人とは対話が成り立たないことが多い。何かを言えばかえって意固地になる。小手先の解決策ではうまくいかないだろう。そうした人をパージすれば、社会はよくなるのだろうか。私にはわからない。
そうだ、私が会長だったとき、こうしたことを相談していて、相手の会員が言った言葉も忘れられない。「(そういう人が)死ぬまで待て」。
こんなことを言われるのか。かわいそうな人だ、と思った。
本当のプライドや勇気とは何だろうか。私たちはそのことを考えてゆけばよいのだと思う。
SFファンの皆さんひとりひとりが、未来を創ってゆけばよい。率先して未来を創らずして、なにがSFか。
難しいことではないはずだ。SFファンなら誰しも、そうした未来を胸に抱いて育ってきたはずだから。
おわり
2015年12月08日
日本SFコミュニティついて考えること(その14・最終)
posted by Hideaki Sena at 19:38| 仕事