ネットの限界集落「はてな村」
ネットの限界集落「はてな村」が間もなく終わろうとしている。その兆候は幾つかあったが、近年のはてなのアルゴリズム改変で、はてブに流れる記事が「緩く」なり、末期を迎えたはてな村の跡地に、ウェーイ系やミニマリストや互助会でつまらない記事を垂れ流している人達が、ゲルマン民族の大移動のように移民してきている。
はてな村のコンテキストは失われ、そこにははてな村の精緻な話題を意識せずに「今月のアフィリエイト収入が○○万円を越えました」「今月は○○万PVありました」「有機野菜でつくる美味しい○○」「東京のラーメン○○選」「好きな漫画100冊ランキング」などのような記事が立ち並び始めて、新しい時代が始まるのだろう。
そしてそれをお互いのブクマで「参考になりました」「すごいですね!」「言及ありがとうございます!」など穏やかな言葉で繋がり、モヒカンは非表示の対象になって姿を消していくのだろう。「はてな村」は終わったのだ。それは「お気に入り機能を使えよ」という単純な用法の問題ではなく、コミュニティとして終焉を迎えたのである。
はてな村に足りないのは「おっぱい」だった
2003年にあたりから、はてなをウォッチしていて、2014年にはてなブックマークオフ会を開いた自分が感じるのは、はてな村に足りなかったのは「おっぱい」だったと思う。はてな村には「おっぱい」が原生していなかった。
鬱で自殺しそうな人に対して「頑張れ」「応援している」などは逆効果で、女性が「私のおっぱい揉む?」と声を掛けることが非常に有効であることがよく知られている。はてな村にはおっぱいがなかった。胸の谷間を晒したミーアキャットさんはいたけど。
おっぱいがないのは致命的で、本来なら日常生活やネットの潤滑油として機能している「おっぱい」がなかったことにより、村は多くの棄民を生み出した。男子校の同窓会でふんどし姿で復讐歌を歌っているような男塾のような世界になって、「おっぱい」による平穏メカニズムが働かなかったのである。
ギスギスしているモヒカンがはてな村の特徴ではあったが、いつまでも「おっぱい」がないと疲れる。それがはてな村の村人が自発的に村を去って行き続けたことの隠れた大きな要因であったと思う。
実際、『はてな村奇譚』にはおっぱいが描かれていない。
株式会社はてなの方針転換とおっぱい
株式会社はてながアルゴリズムやスパム判定を変えてきているようだと以前に書いたが、これもはてな村の終焉に加速度を与えている。「美しいはてな」には女性もいる。暇女さんやチェコ好きさんや女々さん、育児ブログの人だけではない若い女性が徐々に流入してきているし、はてブでも取り上げられるようになってきている。ここには「おっぱい」を感じる。
結局そういうことなのだと思う。非モテの人々が集って非モテやリア充を議論したけれど、それによって更に非モテ要素が強くなって野郎だけの閉鎖的なコミュニティになってしまったのが「はてな村」であって、株式会社はてなの新しい方針の下ではそこにおっぱいを呼ぶことを(無意識的に)目指しているのである。
「愛のあるBカップと愛のないFカップではどちらが良いか」
先週に渋谷のオフ会に参加したときに(ショッカーさん、じこまんこブログのおはなちゃん、一般女性1名)、私が「Fカップ以上が好きです」と言ったら、おはなちゃんから「じゃあ、愛のあるBカップの女性と愛のないFカップの女性と、どっちが好きなんですか?」と聞かれた。私が「愛のないFカップの方が好きです」と答えると、周囲が「えー!」という反応だった。
彼女達はおっぱいを理解していないのだ。おっぱいは実際に触るとIカップでも脂肪の塊にすぎないけど、そこには男の夢がつまっているのだ。だから、男は脂肪と知りながらもおっぱいに憧れる。愛がなくても、道ですれ違っただけでも、電車に居合わせただけでも、おっぱいは癒やしを与えるのである。
私は定量化できない愛情よりも定量化できるカタログスペック重視派だから、愛のないFカップの方が良い。その「おっぱいがそこに存在するだけで持つ効果」というものが、はてな村にはなかった。
ついでに言うと、私はおっぱいの大きさよりも、どんなことが出来るかの方が大事なのだけど、食事中の人も多いと思うのでやめておく。
はてな村におっぱいが生まれるか
はてな村にはおっぱいは生まれない。おっぱいならばニコ生の方が良い。非モテ童貞のニーチェのような人達が集まってきて、「神は死んだ」「この人を見よ」など机上の空論を戦わせながらルサンチマンを溜めていって、おっぱいを取り込む努力を一切しなかった。
世の中にはおっぱいが溢れているのに、はてな村にはおっぱいはない。だから、はてな村でメンヘラをこじらせている人が治癒する自浄作用も、はてな村には全くなかったのだ。