Category : 宮崎市の戦跡 | Posted on 2011-06-19
紀元二千六百年の行事として、宮崎県では「八紘一宇」の塔を建てることとなり、男女学生は毎日のように下北の現場でモッコの土運びに励みました。
現在の平和の塔です。
東京では有名な写真家だという人が来ました。後日、その写真家が土門拳氏であったことがわかりました。
さっそく写真を撮ることになりました。
各学校入り乱れての作業でしたので、すぐ近くにいた者が、土手の上から下へと並びました。私は上の方です。
立っていると、土の中に足がうまるので、日向乙女の心意気を見せようと、手前にスコップを突っ立てて撮ってもらいました。
安田郁子著「モスグリーンの青春」より

宮崎市にある広大な平和台公園。その一角には、石貼りの塔が聳え立っています。
現在「平和の塔」と呼ばれるこの建造物は、昭和15年、紀元2600年奉祝事業として36万円の国家予算がつけられたことで建設されました。
相川宮崎県知事を会長とする宮崎県奉公会は、奉祝事業として宮崎県民あげての記念施設建設を発案。
こうして「世界中から石を集めて、八紘一宇の精神を表現した日本一高い塔を建てる」ことが決定されます。
建設の宣伝には東京日日新聞と大阪日日新聞が協力してくれました。
高さ37メートルは当時の建造物としては日本一で、これは当時日本一高かった丸ビルより数メートル高くしようとした結果なのだとか。
塔の設計について自ら名乗り出たのは彫刻家の日名子實三でした。日本サッカー協会の八咫烏をデザインした人として有名ですね。
建設にあたり、縦45センチ、横60センチ、幅15センチの石材1789個が東洋、欧州、南米各地の日本人会から寄贈されます。
地元住民や学生ら「祖国振興隊」による勤労奉仕もあり、塔の建設は順調に進みました。写真家の土門拳も現場を訪れ、建設の様子を撮影しています。
しかし、工事に動員された学生にとって、この建設作業は大変な重荷となっていました。
学業に専念させるべき学生(女生徒も含みます)を、こんな記念碑の建設なんかに従事させる必要があったのでしょうか。
勤労奉仕なので重労働の割にバイト代も出ず、モノがモノだけに文句を言える雰囲気でもありませんし。
塔に刻む八紘一宇の文字ですが、「天皇陛下では畏れ多い」との理由から、相川宮崎県知事が欧州留学中に知り合った秩父宮に御真筆を仰ぐこととなります。
「当時非常にお元気で、英気さっそうとしたご様子の殿下はだまってお聞きの後、開口一番「もっと大きくならないか」と言われた。私は「日本一の高さでございます」と申し上げると殿下は「なるだけ大きくしよう」と仰言った。
そして「いつまでに書いたらよいか」と聞かれたので、私はたしか秋ごろまでにとお答えしたように覚えている。
殿下は「ゆっくりしてほしい。私は手習いせねばならぬから」と仰言られた。殿下は聞き届けてくださるご意思であることがわかり、私は感激しつつ宮邸をさがった」
三又たかし著「ある塔の物語―日名子実三の世界―」より
建設に奔走した相川知事は完成前に広島へ赴任した為、長谷川知事が御真筆を宮邸で賜っています。
宮崎への帰路、長谷川知事は廣島に立ち寄って相川知事に面会したのだとか。
八紘之基柱が完成した昭和15年11月25日、秩父宮御染筆奉安式が執り行われます。
このときより、塔に刻まれた「八紘一宇」の文字が人々の目に触れることとなりました。
八紘之基柱の歴史を辿る時、その名称に関わる「八紘一宇」の問題を避けて通ることはできません。
八紘一宇(はっこういちう)とは、日本書紀を元に作られた大正時代の造語。
「道義的に天下を一つの家のようにする」という意味で、もともとは「人類みな兄弟」とか「世界村」などと似たような言葉です。
大陸の日本人がコレを盛んに使うようになったのは満洲事変あたりから。内地では昭和12年前後からです。
伝統ある言葉と思いきや、意外と歴史は浅いんですね。
で、勢力拡大を目論んだ当時の日本が「大東亜共栄圏」とセットで使用しまくった結果、八紘一宇は戦後になって叩かれている訳です。
経緯が経緯だけに仕方ないのでしょう。
八紘一宇とか大東亜共栄圓といったスローガンは、海外へ活路を見出そうとする近代日本の大義名分となりました。
ただし結果からいうと、「理想と現実が乖離していた」と言わざるを得ません。
理想の実現に向けて行動していた個人や組織は確かに存在しました。
しかし、国や軍の機関がいくら現地住民の宣撫工作に努めたところで、後からやって来た兵士や入植者の行動が反感を買いまくるという悪循環の繰り返し。
これは戦後の反省に立っての話ではなく、戦前から言われていたことです。
五族協和を掲げる満洲國ですら、当初から民族差別が問題視されていました。内地では余り目立たなかった差別意識が、多民族国家満洲で露呈したのです。
満洲事変直後の証言を例に挙げましょう。
「満洲國といふ民族協和の自意識の強いところでさへ、日本人かくの如しとすれば、支那だの南洋だのでは思ひやられるのではなからうか。
私は支那事変の始る一年半ほど前に北支に遊びに行つた時、天津の南開大学校長 張伯岑にあつたことがある。この人は「日支親善といふことはよくわかるけれど、日本人の不愉快な事件を毎日ニ三度見てゐると、そんなことはどうにも考へられないくなる」といつてゐた。張伯岑は支那教育界の大元老で、今は重慶に居る。
その時にはわたしも目にあまる日本人を数多く見た。
無賃乗車をとがめられて車掌をなぐる日本人。三等切符で二等に乗りこみ梃子でも動かぬ日本人。人絹や銀の密輸を手傳ふ日本人の女。どてらを着て北京や天津の驛ホームをのしあるく日本人。阿h密賣をやつてゐる半島人、等々である。
奉天に帰つて當時の特務機関長D将軍に「あなたがたがいくら理想を描いて居られても、あれではすべてぶちこはしではありませんか」と話したら「いや、あまり多いので閉口して居るのです」とこぼして居られた。
わたしはそれ以後の北支を知らない。中支・南支も知らぬ。たゞ現在では、いかがはしい日本人にビシ〃退去命令をくはせて居ることも承知してゐる。だから、時代の進歩をもあはせ考へて、その當時よりははるかに日本人本來の姿にかへつてゐるだろうことを確信する。それとともに在満日本人がこの際、弊風打破に一奮發することを要請したいのである」
満洲國民政部簡任編審官 寺田喜治郎「日本人心得帳」より 昭和8年
熱心な教育者であっただけに、寺田先生は相当の危機感を抱いていた様です。
「現地他民族に對して多少の蔑視観をもつてゐることは、文化度の差異から生じやすい弱點ではあるが、“八紘一宇”の手前もある。気をつけなければならない(同上)」という彼の警告は、しかしどこまで通じたのでしょうか。
今田荘一大佐などの軍人も現地の状況を憂う始末でしたから、改善は困難だった筈。
「八紘一宇」を巡る議論が噛み合わないのは、それぞれが当時の理想と現実を論拠にしているからです。
話を宮崎県に戻します。
完成した八紘之基柱は大東亜共栄圏のシンボルとしてPRされました。
宗教施設ではなくでっかい記念碑に過ぎないのですが、ここを“参拝”する人々も増えて新たな観光スポットと化します。
正式名称の「あめつちのもとはしら」では面倒だったのか、いつしかこの場所は「八紘台」と呼ばれるようになりました。

基柱の設計構造は一切純日本式とし、斯界の泰斗日名子実三が精魂を傾け、全知全能を打込み、畢生の心血を注いで造られたもので、わが国近代芸術作品の最高峰をなすものである。
苑地
総設計 林学博士 田村剛
総面積 実測一二,〇五四坪
塔を含む広場面積 二,六〇〇坪
基柱
設計 彫刻界の泰斗日名子実三、昭和十四年三月二十三日模型完成。
この模型により建築界の権威日本大学講師南省吾仕様設計書作製。
施行 株式会社大林組
着工 昭和十四年五月二十日
定礎 昭和十五年四月三日
竣功 昭和十五年十一月十五日
三又たかし著「ある塔の物語―日名子実三の世界―」より
八紘一宇の名のもとにアジアでの勢力拡大をはかった日本。
八紘台が軍国主義に利用されたのも自然の流れでしょう。
戦争末期の昭和20年、米軍は九州南部へ徹底的な空襲を加えました。
沖縄進攻作戦の前に、特攻隊の出撃拠点であるこのエリアを「露払い」しておく必要があったのです。
宮崎には本土防衛の部隊が展開し、八紘台にも地下陣地が構築されました。
同年3月18日には陸軍落下傘部隊の第一挺進戦車隊が川南空挺基地から宮崎市へ南下。これは、宮崎を訪問中の三笠宮へ演習を披露するのが目的でした。
偶然にも、演習予定日は米軍機の宮崎初空襲と重なってしまいます。
奇襲攻撃を受けた宮崎県内の赤江、新田原、富高、都城西の各飛行場は多大な損害を蒙り、当然ながら空挺部隊の演習も延期されました。
三笠宮は八紘台の地下壕へ避難しており、被害を免れました。前夜のうちに、「宮崎が攻撃される可能性あり」と極秘の警報が届いていたとの証言もあります。しかし、県内各飛行場は米軍の第一撃を受けるまで完全に油断していました。三笠宮へ届いた警報を軍部が共有していなかった理由は不明。
その後も激しい空襲に晒された宮崎県ですが、目立ちまくっていた八紘之基柱自体は爆撃を受けることもなく、不思議と破壊を免れました。
攻撃する米軍パイロットにとっては、便利なランドマークだったのかもしれません。

戦後、八紘台を撤去しようとする動きがありました。
昭和20年10月から宮崎へ進駐したアメリカ軍は、宮崎市民に八紘之基柱撤去の是非を問います。しかし、周囲の目を怖れて誰も関わろうとしませんでした。
困り果てた進駐軍が西村楽器店の池田鋼士郎社長に相談したところ、「建設の経緯から考え、安易にミリタリズムと直結すべきではない」との答えを得て保存が決定。
昭和21年8月、「塔に軍国主義の色を留める「八紘一宇」の文字が刻まれ、また背面には穏当ならざる碑文がある」との理由で八紘一宇の文字と武人像は削り取られ、塔は進駐軍の監視下に置かれました。
また、塔内に収められていた秩父宮の御真筆にも進駐軍から焼却命令が出されます。
これだけは何としても回避したい宮崎県知事と宮崎神宮は極秘会談を重ねました。その結果、遂に御真筆奪回作戦が決定されます。
「当時の谷口明三知事は心配してどうするか、ということで関係者は毎日のように県庁に集まって協議しました。
ある日、宮崎神宮から片岡常男宮司、吉野房見官房主事、赤星寛秘書課長らを交えて協議した結果、吉野主事の「御真筆」を焼くわけにはいかない、隠そう」という提案に皆が賛同しました」
「メンバーの中にいた宮崎神宮の菅原喜一禰宜が「それでは私が命をかけてやってみましょう」ということになりましたが、菅原禰宜には二人の子供がいました。
万一の場合、切腹する覚悟であった菅原禰宜の胸中を察してか、吉野官房主事が「後の面倒は自分が見る」との最終協議でことが運ばれました」
「ナッパ服を着て浮浪者を装った菅原禰宜は、占領軍がテントを張って見張っている塔の周辺を、スキあらば等の中に入ろうと、毎日出掛けていたという。そして遂にそのチャンスがやってきた」
三又たかし著「ある塔の物語―日名子実三の世界―」より
ある日、八紘台の警備兵たちが青島へキャンプへ出かけることになりました。
菅原氏から「アメリカ兵不在」との通報を受けた県職員たちは塔へ急行、御真筆を運びだして地中に隠します。戻ってきたアメリカ兵には別に燃やした紙を示し「さっき焼却処分したところだ」と騙しました。
アメリカ側も特に追及せず、奪回された御真筆は6年半に亘って秘匿され続けます。
この御真筆ですが、秩父宮が亡くなった昭和28年1月4日に存在が公表されました。

戦後はロッククライミングの練習台と化し、荒れ果てていた八紘台。
しばらく後になってから歴史的価値を再評価され、公園としての整備が進みました。
現在は「平和台公園」と名を変えて、森林散策コースを備えた宮崎市民憩いの場となっています。
その過程で、武人像と八紘一宇の文字も昭和37年と40年にそれぞれ復旧が決定。
ただし、前述の「穏当ならざる碑文」は削られたままとなりました。
八紘一宇の文字復旧には反対意見も強く、シンポジウムなどで激しい議論が重ねられたものの「いまさら軍国主義もないだろう」との結論により再建へと至りました。
「八紘一宇復活」を巡る当時の議事録もたくさん残っていますから、興味がある人は調べてみましょう。
「八紘一宇の文字を復元すべき」「復活反対!戦争への反省がないのか!」「文字を復元しないのは侵略戦争の隠蔽だ」などと、削ったまま案も復元案も両派からの非難ゴーゴー。
そのような論争を経て、現在の平和台がある訳です。
このブログでご紹介した宮崎県内の戦時遺構は、大部分が「貴重な歴史的資産」という捉え方をされていますが、平和の塔だけは違います。
「八紘一宇」への賛美や反発からか、やたらと個人レベルでの主義主張や思想を押し付ける人が目立ち、淡々と塔の歴史を取上げた資料を探すのは難しいですね。
論点が塔限定ならまだしも、興奮のあまりアサッテの方向へ暴走している主張もすくなくありません。
塔の話をしていた筈が、いきなり現代アメリカの政策を罵り始めたり、軍事慰霊碑か何かと勘違いしたのか矢鱈と美化してみたり、そうやって選挙カーみたいに自説をがなり立てられるので読んでるこちらは鼻白むだけです。
単純に地域の歴史を調べたい人にとっては、誠に困った状況ですねえ。
賛成・反対の両派が真剣な議論を重ね、(渋々ながら)折り合いをつけた姿が現在の平和台公園。
その辺の経緯すら知らず、調べようともせず、走り幅跳びの批判や賛美をされてもナニがナニやらですよ。
極めつけは「平和台公園の名前は欺瞞だ!」とか喚く人までいて、だったら八紘台に戻せばいいのかと。戻したら戻したで激怒するんでしょうね、あの手の人は。
まあ、公園の散策をする皆さんは「単なる記念碑」みたいな捉え方でいいと思います。
目を血走らせて70年前のことを罵り合うより、平和台公園の美しい景色とハニワちゃんを楽しんだ方が百万倍マシ。
知るにしても、塔の由来くらいで充分です。
そういう訳で、平和台公園の歴史を論じたければ色々な資料を読み比べ、複雑な経緯があることを知りましょう。
くれぐれも、敵味方識別装置全開でハッコーイチウだ何だと議論している人達には近寄らないように。地域の歴史に興味があるワケではなく、自分が主張する歴史観のネタとして八紘台を持ち出す人に対しては尚更です。
迂闊に近寄ると「お前はどっち側だ!」とイキナリ踏み絵を強要されたりしますよ。
怖いですねえ。
現在の平和の塔です。
東京では有名な写真家だという人が来ました。後日、その写真家が土門拳氏であったことがわかりました。
さっそく写真を撮ることになりました。
各学校入り乱れての作業でしたので、すぐ近くにいた者が、土手の上から下へと並びました。私は上の方です。
立っていると、土の中に足がうまるので、日向乙女の心意気を見せようと、手前にスコップを突っ立てて撮ってもらいました。
安田郁子著「モスグリーンの青春」より
宮崎市にある広大な平和台公園。その一角には、石貼りの塔が聳え立っています。
現在「平和の塔」と呼ばれるこの建造物は、昭和15年、紀元2600年奉祝事業として36万円の国家予算がつけられたことで建設されました。
相川宮崎県知事を会長とする宮崎県奉公会は、奉祝事業として宮崎県民あげての記念施設建設を発案。
こうして「世界中から石を集めて、八紘一宇の精神を表現した日本一高い塔を建てる」ことが決定されます。
建設の宣伝には東京日日新聞と大阪日日新聞が協力してくれました。
高さ37メートルは当時の建造物としては日本一で、これは当時日本一高かった丸ビルより数メートル高くしようとした結果なのだとか。
塔の設計について自ら名乗り出たのは彫刻家の日名子實三でした。日本サッカー協会の八咫烏をデザインした人として有名ですね。
建設にあたり、縦45センチ、横60センチ、幅15センチの石材1789個が東洋、欧州、南米各地の日本人会から寄贈されます。
地元住民や学生ら「祖国振興隊」による勤労奉仕もあり、塔の建設は順調に進みました。写真家の土門拳も現場を訪れ、建設の様子を撮影しています。
しかし、工事に動員された学生にとって、この建設作業は大変な重荷となっていました。
学業に専念させるべき学生(女生徒も含みます)を、こんな記念碑の建設なんかに従事させる必要があったのでしょうか。
勤労奉仕なので重労働の割にバイト代も出ず、モノがモノだけに文句を言える雰囲気でもありませんし。
塔に刻む八紘一宇の文字ですが、「天皇陛下では畏れ多い」との理由から、相川宮崎県知事が欧州留学中に知り合った秩父宮に御真筆を仰ぐこととなります。
「当時非常にお元気で、英気さっそうとしたご様子の殿下はだまってお聞きの後、開口一番「もっと大きくならないか」と言われた。私は「日本一の高さでございます」と申し上げると殿下は「なるだけ大きくしよう」と仰言った。
そして「いつまでに書いたらよいか」と聞かれたので、私はたしか秋ごろまでにとお答えしたように覚えている。
殿下は「ゆっくりしてほしい。私は手習いせねばならぬから」と仰言られた。殿下は聞き届けてくださるご意思であることがわかり、私は感激しつつ宮邸をさがった」
三又たかし著「ある塔の物語―日名子実三の世界―」より
建設に奔走した相川知事は完成前に広島へ赴任した為、長谷川知事が御真筆を宮邸で賜っています。
宮崎への帰路、長谷川知事は廣島に立ち寄って相川知事に面会したのだとか。
八紘之基柱が完成した昭和15年11月25日、秩父宮御染筆奉安式が執り行われます。
このときより、塔に刻まれた「八紘一宇」の文字が人々の目に触れることとなりました。
八紘之基柱の歴史を辿る時、その名称に関わる「八紘一宇」の問題を避けて通ることはできません。
八紘一宇(はっこういちう)とは、日本書紀を元に作られた大正時代の造語。
「道義的に天下を一つの家のようにする」という意味で、もともとは「人類みな兄弟」とか「世界村」などと似たような言葉です。
大陸の日本人がコレを盛んに使うようになったのは満洲事変あたりから。内地では昭和12年前後からです。
伝統ある言葉と思いきや、意外と歴史は浅いんですね。
で、勢力拡大を目論んだ当時の日本が「大東亜共栄圏」とセットで使用しまくった結果、八紘一宇は戦後になって叩かれている訳です。
経緯が経緯だけに仕方ないのでしょう。
八紘一宇とか大東亜共栄圓といったスローガンは、海外へ活路を見出そうとする近代日本の大義名分となりました。
ただし結果からいうと、「理想と現実が乖離していた」と言わざるを得ません。
理想の実現に向けて行動していた個人や組織は確かに存在しました。
しかし、国や軍の機関がいくら現地住民の宣撫工作に努めたところで、後からやって来た兵士や入植者の行動が反感を買いまくるという悪循環の繰り返し。
これは戦後の反省に立っての話ではなく、戦前から言われていたことです。
五族協和を掲げる満洲國ですら、当初から民族差別が問題視されていました。内地では余り目立たなかった差別意識が、多民族国家満洲で露呈したのです。
満洲事変直後の証言を例に挙げましょう。
「満洲國といふ民族協和の自意識の強いところでさへ、日本人かくの如しとすれば、支那だの南洋だのでは思ひやられるのではなからうか。
私は支那事変の始る一年半ほど前に北支に遊びに行つた時、天津の南開大学校長 張伯岑にあつたことがある。この人は「日支親善といふことはよくわかるけれど、日本人の不愉快な事件を毎日ニ三度見てゐると、そんなことはどうにも考へられないくなる」といつてゐた。張伯岑は支那教育界の大元老で、今は重慶に居る。
その時にはわたしも目にあまる日本人を数多く見た。
無賃乗車をとがめられて車掌をなぐる日本人。三等切符で二等に乗りこみ梃子でも動かぬ日本人。人絹や銀の密輸を手傳ふ日本人の女。どてらを着て北京や天津の驛ホームをのしあるく日本人。阿h密賣をやつてゐる半島人、等々である。
奉天に帰つて當時の特務機関長D将軍に「あなたがたがいくら理想を描いて居られても、あれではすべてぶちこはしではありませんか」と話したら「いや、あまり多いので閉口して居るのです」とこぼして居られた。
わたしはそれ以後の北支を知らない。中支・南支も知らぬ。たゞ現在では、いかがはしい日本人にビシ〃退去命令をくはせて居ることも承知してゐる。だから、時代の進歩をもあはせ考へて、その當時よりははるかに日本人本來の姿にかへつてゐるだろうことを確信する。それとともに在満日本人がこの際、弊風打破に一奮發することを要請したいのである」
満洲國民政部簡任編審官 寺田喜治郎「日本人心得帳」より 昭和8年
熱心な教育者であっただけに、寺田先生は相当の危機感を抱いていた様です。
「現地他民族に對して多少の蔑視観をもつてゐることは、文化度の差異から生じやすい弱點ではあるが、“八紘一宇”の手前もある。気をつけなければならない(同上)」という彼の警告は、しかしどこまで通じたのでしょうか。
今田荘一大佐などの軍人も現地の状況を憂う始末でしたから、改善は困難だった筈。
「八紘一宇」を巡る議論が噛み合わないのは、それぞれが当時の理想と現実を論拠にしているからです。
話を宮崎県に戻します。
完成した八紘之基柱は大東亜共栄圏のシンボルとしてPRされました。
宗教施設ではなくでっかい記念碑に過ぎないのですが、ここを“参拝”する人々も増えて新たな観光スポットと化します。
正式名称の「あめつちのもとはしら」では面倒だったのか、いつしかこの場所は「八紘台」と呼ばれるようになりました。
基柱の設計構造は一切純日本式とし、斯界の泰斗日名子実三が精魂を傾け、全知全能を打込み、畢生の心血を注いで造られたもので、わが国近代芸術作品の最高峰をなすものである。
苑地
総設計 林学博士 田村剛
総面積 実測一二,〇五四坪
塔を含む広場面積 二,六〇〇坪
基柱
設計 彫刻界の泰斗日名子実三、昭和十四年三月二十三日模型完成。
この模型により建築界の権威日本大学講師南省吾仕様設計書作製。
施行 株式会社大林組
着工 昭和十四年五月二十日
定礎 昭和十五年四月三日
竣功 昭和十五年十一月十五日
三又たかし著「ある塔の物語―日名子実三の世界―」より
八紘一宇の名のもとにアジアでの勢力拡大をはかった日本。
八紘台が軍国主義に利用されたのも自然の流れでしょう。
戦争末期の昭和20年、米軍は九州南部へ徹底的な空襲を加えました。
沖縄進攻作戦の前に、特攻隊の出撃拠点であるこのエリアを「露払い」しておく必要があったのです。
宮崎には本土防衛の部隊が展開し、八紘台にも地下陣地が構築されました。
同年3月18日には陸軍落下傘部隊の第一挺進戦車隊が川南空挺基地から宮崎市へ南下。これは、宮崎を訪問中の三笠宮へ演習を披露するのが目的でした。
偶然にも、演習予定日は米軍機の宮崎初空襲と重なってしまいます。
奇襲攻撃を受けた宮崎県内の赤江、新田原、富高、都城西の各飛行場は多大な損害を蒙り、当然ながら空挺部隊の演習も延期されました。
三笠宮は八紘台の地下壕へ避難しており、被害を免れました。前夜のうちに、「宮崎が攻撃される可能性あり」と極秘の警報が届いていたとの証言もあります。しかし、県内各飛行場は米軍の第一撃を受けるまで完全に油断していました。三笠宮へ届いた警報を軍部が共有していなかった理由は不明。
その後も激しい空襲に晒された宮崎県ですが、目立ちまくっていた八紘之基柱自体は爆撃を受けることもなく、不思議と破壊を免れました。
攻撃する米軍パイロットにとっては、便利なランドマークだったのかもしれません。
戦後、八紘台を撤去しようとする動きがありました。
昭和20年10月から宮崎へ進駐したアメリカ軍は、宮崎市民に八紘之基柱撤去の是非を問います。しかし、周囲の目を怖れて誰も関わろうとしませんでした。
困り果てた進駐軍が西村楽器店の池田鋼士郎社長に相談したところ、「建設の経緯から考え、安易にミリタリズムと直結すべきではない」との答えを得て保存が決定。
昭和21年8月、「塔に軍国主義の色を留める「八紘一宇」の文字が刻まれ、また背面には穏当ならざる碑文がある」との理由で八紘一宇の文字と武人像は削り取られ、塔は進駐軍の監視下に置かれました。
また、塔内に収められていた秩父宮の御真筆にも進駐軍から焼却命令が出されます。
これだけは何としても回避したい宮崎県知事と宮崎神宮は極秘会談を重ねました。その結果、遂に御真筆奪回作戦が決定されます。
「当時の谷口明三知事は心配してどうするか、ということで関係者は毎日のように県庁に集まって協議しました。
ある日、宮崎神宮から片岡常男宮司、吉野房見官房主事、赤星寛秘書課長らを交えて協議した結果、吉野主事の「御真筆」を焼くわけにはいかない、隠そう」という提案に皆が賛同しました」
「メンバーの中にいた宮崎神宮の菅原喜一禰宜が「それでは私が命をかけてやってみましょう」ということになりましたが、菅原禰宜には二人の子供がいました。
万一の場合、切腹する覚悟であった菅原禰宜の胸中を察してか、吉野官房主事が「後の面倒は自分が見る」との最終協議でことが運ばれました」
「ナッパ服を着て浮浪者を装った菅原禰宜は、占領軍がテントを張って見張っている塔の周辺を、スキあらば等の中に入ろうと、毎日出掛けていたという。そして遂にそのチャンスがやってきた」
三又たかし著「ある塔の物語―日名子実三の世界―」より
ある日、八紘台の警備兵たちが青島へキャンプへ出かけることになりました。
菅原氏から「アメリカ兵不在」との通報を受けた県職員たちは塔へ急行、御真筆を運びだして地中に隠します。戻ってきたアメリカ兵には別に燃やした紙を示し「さっき焼却処分したところだ」と騙しました。
アメリカ側も特に追及せず、奪回された御真筆は6年半に亘って秘匿され続けます。
この御真筆ですが、秩父宮が亡くなった昭和28年1月4日に存在が公表されました。
戦後はロッククライミングの練習台と化し、荒れ果てていた八紘台。
しばらく後になってから歴史的価値を再評価され、公園としての整備が進みました。
現在は「平和台公園」と名を変えて、森林散策コースを備えた宮崎市民憩いの場となっています。
その過程で、武人像と八紘一宇の文字も昭和37年と40年にそれぞれ復旧が決定。
ただし、前述の「穏当ならざる碑文」は削られたままとなりました。
八紘一宇の文字復旧には反対意見も強く、シンポジウムなどで激しい議論が重ねられたものの「いまさら軍国主義もないだろう」との結論により再建へと至りました。
「八紘一宇復活」を巡る当時の議事録もたくさん残っていますから、興味がある人は調べてみましょう。
「八紘一宇の文字を復元すべき」「復活反対!戦争への反省がないのか!」「文字を復元しないのは侵略戦争の隠蔽だ」などと、削ったまま案も復元案も両派からの非難ゴーゴー。
そのような論争を経て、現在の平和台がある訳です。
このブログでご紹介した宮崎県内の戦時遺構は、大部分が「貴重な歴史的資産」という捉え方をされていますが、平和の塔だけは違います。
「八紘一宇」への賛美や反発からか、やたらと個人レベルでの主義主張や思想を押し付ける人が目立ち、淡々と塔の歴史を取上げた資料を探すのは難しいですね。
論点が塔限定ならまだしも、興奮のあまりアサッテの方向へ暴走している主張もすくなくありません。
塔の話をしていた筈が、いきなり現代アメリカの政策を罵り始めたり、軍事慰霊碑か何かと勘違いしたのか矢鱈と美化してみたり、そうやって選挙カーみたいに自説をがなり立てられるので読んでるこちらは鼻白むだけです。
単純に地域の歴史を調べたい人にとっては、誠に困った状況ですねえ。
賛成・反対の両派が真剣な議論を重ね、(渋々ながら)折り合いをつけた姿が現在の平和台公園。
その辺の経緯すら知らず、調べようともせず、走り幅跳びの批判や賛美をされてもナニがナニやらですよ。
極めつけは「平和台公園の名前は欺瞞だ!」とか喚く人までいて、だったら八紘台に戻せばいいのかと。戻したら戻したで激怒するんでしょうね、あの手の人は。
まあ、公園の散策をする皆さんは「単なる記念碑」みたいな捉え方でいいと思います。
目を血走らせて70年前のことを罵り合うより、平和台公園の美しい景色とハニワちゃんを楽しんだ方が百万倍マシ。
知るにしても、塔の由来くらいで充分です。
そういう訳で、平和台公園の歴史を論じたければ色々な資料を読み比べ、複雑な経緯があることを知りましょう。
くれぐれも、敵味方識別装置全開でハッコーイチウだ何だと議論している人達には近寄らないように。地域の歴史に興味があるワケではなく、自分が主張する歴史観のネタとして八紘台を持ち出す人に対しては尚更です。
迂闊に近寄ると「お前はどっち側だ!」とイキナリ踏み絵を強要されたりしますよ。
怖いですねえ。
- 関連記事
- 八紘之基柱・平和の塔(宮崎県宮崎市)
- 海軍赤江飛行場掩体壕群(宮崎県宮崎市大字赤江)
スポンサーサイト