ぼくはどんな友人にも大なり小なり嫌いな部分は存在するとおもっています。
例を出すと分かりやすいのでぼくの父でたとえます。
父のネチネチした所が嫌いだ
ぼくの父は誰とも仲良く接することのできる温厚な人間性の持ち主で、特に仲が悪くもありません。
ただ、父にはちょっとネチネチした部分があります。
過去のことをずっとこだわり続けるんですよ。
例えば、ぼくは小学生の時に卓球を習っていたんですが、その時に「卓球でオリンピックに出たいんだ」と家でよく言っていたんです。
しかし、ぼくは小さな町の大会で優勝はするものの県大会でも上位に行くようなレベルではありませんでした。
ぼくは10歳で卓球を始めて、練習しても練習しても3歳や5歳から卓球を始めた連中に全く歯が立ちません。
結局、中学に入ると同時に卓球から陸上部に転向します。
(ちなみに陸上でも駅伝で全国大会に出場するも全国トップレベルの選手にはなれませんでした。)
父は、今だに何かにつけて「昔、卓球でオリンピックに出たいと言ってたよな」と過去のことを掘り返し、嫌味をいってきます。
ぼくは父のそんなネチネチした部分がとても嫌いです。
ですが、そんな嫌いな部分と付き合っていても気持ちを消耗させるだけなので、できるだけ父のそのよう性質とは付き合わないようにしています。
それによってぼくと父の関係は保たれているんです。
このようにいくら家族といっても確実に嫌いな部分というのは存在するんです。
みなさんも家族に対して気に入らない所がいくつも思い当たるのではないでしょうか?
嫌いは好きと同じように健全な感情です
人は好きという感情は喜んで受け入れますが、嫌いという感情を受け止めている人は少ないようにおもいます。
むしろ、相手に嫌いと感じてしまった時に自分に罪悪感を感じる人が多いでしょう。
しかし、好きと同じように嫌いも人間の健全とした性質なのです。
ぼくはどんな好きな人にも大小嫌いな部分がありますが、その部分を受け入れて許すようにしています。
人間は誰もが優しさと同時に醜さも合わせ持っています。
だからこそ、人間は面白いし、美しいのです。
相手のことが全部好きというのは幻想であり、好きな部分と嫌いな部分がグラデーションしているというのがぼくは本当の所だとおもっています。
嫌いと向き合い相手の好きな所とだけ付き合うこと
ほとんどの人は嫌いという感情に対して「臭いものに蓋をする」ように見てみぬフリをしますが、そうなってしまうとずっと嫌な人間関係に縛られてしまいます。
嫌いと向き合わずにいると、誰にでも良い顔をするようになり、本当に嫌いな人ともしょっちゅう付き合うようになってしまうからです。
その時間は精神的にも疲弊し、全く面白くもなく、お互いにとって無駄な時間でしょう。
嫌いという感情を受け止めることで、自分がどんな人間か好きで、どんな人間が本当に嫌いか明確に捉えることができるようになります。
また、ぼくは本当に嫌いな人(価値観や性格的にもどうにも合わない人)がいますが、その人たちとは極力関わらず、自分が好きな人、興味のある人とだけ関わっています。
そうすることで人は精神的にも人間関係においても自由になれます。
自分の好きな人と相手の好きな部分とだけ付き合うというのはとても健全であり、愉快です。
ときたま見せる相手の嫌いな部分さえも愛おしいとおもえます。
嫌いという感情と向き合い、相手の好きな部分とだけ付き合うと健全な人間関係を築くことができるんですよ。
あなたにもとても仲が良い友人の嫌いな部分を発見しているでしょう。
それに罪悪感を感じる必要はないのです。
嫌いという感情は人として健全なんですから。
最後に、嫌いと向き合う際の著書として、哲学者 中島義道さんの「ひとを嫌うということ」はとても面白いです。ぜひご一読を。シビれますよ〜。
妻子、両親、友人、同僚から、ゆきずりに出会った名も忘れた人まで、私がつきあってきたすべての人を私は何らかの意味で嫌っていますし、自分も何らかの意味で嫌われていると確信しています。
「ほのかな愛が」があるなら「ほのかな憎しみ」もあっていいでしょう。お互いに相手を「ほのかに」嫌いつづければいいのです。ふたりともなぜ相手が自分を嫌うかその原因を正確無比に知っているのですから。
(中略)お互いの考え方や感受性の違いが身に沁みてわかり、どうも変わりそうもないなあという断念のもとに、無理なく互いに気に入らないことを表明してゆける関係は、とても健全なものです。
わっしょい!