科学の危機に対する大人の対応
大人の国と子どもの国 西川伸一 THE CLUB

写真はイメージ。記事と直接の関係はありません。(写真:Ky/クリエイティブ・コモンズ表示-2.0 一般)

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 わが国の科学政策に関わる研究者や官僚なら読んだ人がいると思う。

 今年4月27日に米国科学アカデミーの年次総会で会長のラルフ・J・シセロン(Ralf J Cicerone)が行ったスピーチのことだ。

 私たちが当たり前のように軽く口にしていた「科学研究の再現性」の問題について、科学界の危機としてとらえた優れた演説だった。

科学の再現性に危機あり

 特にこの中で、彼が紹介していた2つのプロジェクトが興味を引いた。

 その前段として、2013年にエコノミストの記事で指摘された、重要ながん研究論文の実験をアムジェンやバイエルなどの製薬会社が再現したところ、53論文のうち6編の結果しか再現が取れなかったという再現性の危機の問題があった。

 2つのプロジェクトとは、科学界ががん研究と心理学研究の再現性を確かめる研究(Reproducibility project: Cancer Biology、Psychology)を組織し、多くの研究者の参加を得て、再現性の検証を大規模にはじめたという画期的活動である。

 いつ結果が発表されるかと待っていたところ、心理学分野の再現実験の結果が8月28日号の有力科学誌サイエンス誌に掲載された。

 136人、125施設が参加した研究で、タイトルは「心理学の再現性を評価する(Estimating the reproducibility of psychological science)」だ。

心理学の実験結果を再検証

 この研究では2011年から、心理学のトップジャーナル3誌の中に掲載された論文をなるべく先入観を排して検討し、最終的に100論文については計画通り再現実験を行い、論文の結果と比べている。

 基本的には論文の結論を得るための実験結果のばらつきといった統計学的指標を比べているのだが、詳細はいいだろう。

 これだけ大規模に、しかも実験自体が大変な心理学実験の再現性を科学的に評価すること自体に、危機意識がしっかりと共有され、自分の時間をそれに費やそうという強い意志が感じられる。しかも、この研究に対して私的な財団が助成している点にも頭が下がる。

 結果はこれまで指摘されている通り、論文の結論を支持する結果が得られる率は全体で36%、特に社会心理学の実験になると23%~29%と、再現できる可能性の方が低いという結果だ。

 オリジナルな実験によるとデータは統計学的に意味のある結果となっている一方、再現実験では実験結果のばらつきが広がるといった統計学的指標に差が出てくると示されている。

構造的な問題に目を向けよう

 もちろん由々しき結果だ。

 では再現性がないからこれらの論文は間違っているのかと問いかけている。

 短絡的な思考を排して、科学自体の本質をしっかり理解し直し、論文掲載という科学研究にとって中核になる客観性の獲得過程を位置付けていけばいいと結論している。

 小保方事件を含むさまざまな捏造問題に対して、わが国の学術会議や学会も多くの声明を出したが、シセロン演説と比べて読み返してみると、そうした内容は、小保方問題を構造と捉えず、事件とだけ捉え、倫理と研究機関のコンプライアンスだけに頼った薄っぺらい意見でしかなかった。

 大阪大学の蛋白質研究所の篠原彰さんが日本分子生物学会として出した声明では、確かに問題を構造問題として捉えるという視点が表明されているが、学術会議を始め日本の学会がその後、構造問題として取り組んでいるようには到底思えない。

 それと比べると、シセロン演説や今回紹介したサイエンス論文は、米国の科学界が大人として成熟していると示している。

 論文数やノーベル賞の数だけで一国の科学の成熟度は測れない。やはりわが国の科学界は子どもの国でしかないのか問い直す時が来た。次に発表されるがん研究の再現実験の結果を心待ちにしている。

文献情報

Open Science Collaboration. et al. Estimating the reproducibility of psychological science. Science. 2015;349. pii: aac4716.

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西川伸一(Medエッジスーパーバイザー)

1948年生まれ。京都大学医学部卒。熊本大学医学部形態発生部門教授、京都大学医学研究科分子遺伝学部門教授、理研発生再生科学総合研究センターグループディレクターを経て、2014年8月より「Medエッジ」スーパーバイザー。京都大学名誉教授。

ウェブサイト:https://www.mededge.jp